第1話: 「……非効率です」の一言で婚約破棄。捨てられた置物令嬢は絶望……しない!!
ガリレオ・ガリレイはかつてこう言った。
「宇宙という壮大な書物は、数学という言語で書かれている」と。
志野原栞という女の人生において、世界は常に整然とした数式の羅列だった。
街を吹き抜ける風は流体力学の偏微分方程式であり、夕焼けのグラデーションはレイリー散乱による光の波長の選別だ。彼女の脳は、凡人が一分かけて思考することをコンマ一秒で処理してしまう。情報処理速度が速すぎる代償として、彼女の「出力装置」である口は常に渋滞を起こしていた。
脳内では数万行のコードが最適化されているのに、喉を通り抜ける時には、たった数文字の、しかも無愛想で冷徹な一言に凝縮されてしまう。
たとえばこんな風に。
「……あなたの論理は、熱力学第二法則に反しています。非効率です。無駄が多すぎて、聞いていて不快です」
しかも!
それが、現世で栞が最後に恋人に向けた言葉だった。相手の男性は顔を真っ赤にして絶句し、「お前みたいな可愛げのない女、計算機とでも結婚してろ!」と吐き捨てて去っていった。
黙っていれば、陶器のような肌と切れ長の瞳を持つ、彫刻のような美貌の持ち主。しかし一度口を開けば、相手のプライドをずたずたに切り裂く真理の刃。そんな彼女が不運な事故で命を落とし、異世界へ転生したのは、ある種の必然だったのかもしれない。
この混沌とした世界を「再定義」するために。
そして現在。
アステリア王国の伯爵令嬢、エリーゼ・ド・ラプラスは……つまり転生した栞は、まばゆいシャンデリアが輝く夜会の中心で、冷たい断罪の視線に晒されていた。
「エリーゼ。お前には失望した。王立魔導学院を首席で卒業しながら、実戦では一度もまともな魔法を放てないとは。長い詠唱こそが魔力を高める聖なる儀式だというのに、お前はいつも無言で突っ立っているだけだ」
実の父であるラプラス伯爵が、苦虫を噛み潰したような顔で言い放つ。
その隣では、異母妹のクレアが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、かつてエリーゼの婚約者だった王太子エドワードの腕にしがみついていた。
「まあ、お姉様、お可哀想に……。お顔だけはあんなに美しいのに、中身は空っぽの置物なんですものね。魔法も使えない、愛想も振りまけない。そんな無能な方は、ラプラス家の名を汚すだけですわ」
エリーゼは無表情のまま、彼女たちの背後に漂う魔力の揺らぎを観測していた。
(……ああ、うるさい。妹の魔力回路、エントロピーが増大しすぎてノイズが酷い。効率が悪すぎる。今の挑発的な言葉に含まれる音響エネルギーの波形を解析するまでもなく、彼女の脳内のドーパミン受容体は過負荷状態ね。そんな下俗な感情にリソースを割くくらいなら、もっとマナの収束率を上げるための多重積分にでも意識を向ければいいのに)
エリーゼの脳内では、妹や父、そしてエドワード王太子の魔力が数値化され、無残なグラフとなって表示されていた。この世界の魔法は「詠唱」という詩的な言葉の連なりによって発動する。だが、エリーゼにとってそれは、プログラムの中に混入した冗長で無意味なノイズにしか見えなかった。
彼女は無言で魔法を最適化してしまう。冗長な詠唱をすべて削ぎ落とし、最短経路で現象を確定させる「バイナリ・コード」を脳内で組んでしまうのだ。しかし、この世界の人間にとって、詠唱をしないことは「魔法を使っていない」ことと同義だった。
「エリーゼ。もはやお前にこの国での居場所はない。北の『死の地』アルカディア帝国へ、厄介払いとして嫁いでもらう。あそこの皇帝は冷酷非道で、魔力枯渇に喘ぐ蛮族の長だ。お前のような人形にはお似合いだろう」
父の宣告に、会場から嘲笑のさざめきが漏れる。エリーゼはゆっくりと瞬きをした。
(アルカディア帝国……。文献によれば、大地から供給されるマナの波形が極端に不安定な地域。熱勾配の差が激しく、エネルギーの再利用効率が極めて低い場所ね。……興味深い。そのカオスな環境下で、私の最適化理論がどこまで通用するか。検証の価値はあるわ。科学者としての血が滾る……!)
周囲からは絶望に打ち震えているように見えただろう。しかし、彼女の心拍数は驚くほど安定していた。むしろ、この閉鎖的で非効率な王国から解放される喜びに、ニューロンが火花を散らしている。
「……承知、しました。それは最適解ですわ」
絞り出すように発せられたその短い言葉は、冷たく、そしてどこまでも透き通っていた。その瞳に一滴の涙もないことを見て、人々は「やはり血も涙もない氷の人形だ」と確信し、彼女を奈落へと突き落とした。
それから数週間後。
エリーゼを乗せた馬車は、国境を越え、霧の立ち込めるアルカディア帝国の地へと足を踏み入れていた。王国の華やかな緑は消え、そこにあるのは黒い岩肌と、凍てつく空気。そして、暴力的なまでに剥き出しの「原始的な魔力」の奔流だった。
国境の検問所で馬車が止まる。重厚な鎧を纏った帝国兵たちが並び、道を作る。その先に、一人の男が立っていた。
シグルド・ヴァン・アルカディア。
若き皇帝にして、大陸最強の魔導騎士。彼の纏う空気は、周囲の熱量を奪い去るほどに鋭く、そして重い。漆黒の外套をなびかせ、彼は馬車から降りたエリーゼを見据えた。
エリーゼは緊張に身を硬くした。
(……マナの密度が、王国の十倍以上。皇帝シグルド。彼の周囲に形成されている固有魔力場は、マクスウェルの悪魔が情報を整理するように、秩序と破壊を同時に内包している。……まぶしいわ。彼の魔力波形は、黄金比に基づいた対数螺旋を描いている。なんて、なんて美しい数学的構造なの……!)
あまりの美しさに、エリーゼは言葉を失った。いや、いつものように喉が渋滞を起こしたのだ。彼女は無表情のまま、シグルドをじっと見つめ返した。周囲の兵士たちは、皇帝の威圧感に気圧されないエリーゼの様子に「さすがは氷穴令嬢、傲岸不遜な女だ」と息を呑んだ。
シグルドはゆっくりとエリーゼに近づいた。その黄金の瞳は、まるで獲物を鑑定する獣のように鋭い。彼はエリーゼのすぐ目の前で立ち止まると、その端正な顔を近づけた。
彼には特殊な加護があった。
他人の魔力の揺らぎを、感情の色彩として視る力。これまで彼が目にしてきたのは、欲望に濁った泥のような魔力や、恐怖に震える薄汚い波形ばかりだった。
だが、今、目の前に立つこの女はどうだ。
(……静かだ。信じられないほどに)
シグルドの視界に映るエリーゼの魔力は、一滴の不純物もないダイヤモンドの結晶だった。一切の無駄がなく、冷徹なまでに研ぎ澄まされた、宇宙の真理を写し取ったかのような銀色の幾何学模様。
そして、その銀色の奥底で、彼女の思考が歓喜に打ち震えているを彼は視た。言葉では一言も発していないのに、彼女の魔力は「あなたの波形はなんて美しいのか!」と、熱烈な賛辞を、完璧な数式として奏でている。
「……貴様が、アステリアから捨てられた女か。今はさぞ絶望の淵に沈んでいることだろう」
シグルドの低く響く声が、エリーゼの鼓膜を震わせる。
エリーゼは心の中で絶叫していた。
(絶望なんてとんでもない! 私は今、人類が到達しうる最高の演算モデルを目の当たりにして感動しているんです! その声の周波数も、倍音構成が完璧すぎてフーリエ変換するのがもったいないくらいだわ! ああ、でも、なんて言えばいいの? 好きです? 尊敬しています? 違う、もっと適切な……!)
数秒の沈黙。エリーゼの脳内計算機が弾き出した「現時点での最適解」としての言葉は、やはり極端に短縮されていた。
「……完璧、です。……気に入りました」
周囲の兵士たちが、凍りついた。
戦場の咆哮と恐れられる皇帝に向かって、値踏みするような不遜な言葉。傲慢極まりない不敬。誰もがエリーゼの首が飛ぶのを覚悟した。
だが、シグルドの反応は、予想外のものだった。
「……ふっ、ははははは!」
彼は唐突に、腹の底から笑い声を上げた。それは、他人の醜い感情に晒され続けてきた孤独な男が、初めて見つけた「静寂という名の宝物」への歓喜だった。
「気に入っただと? この俺を、そう評した人間は貴様が初めてだ。……エリーゼ・ド・ラプラス。他人の耳障りな言葉など、俺には必要ない。だが、貴様のその瞳の中の静寂だけは、どうやら本物のようだ」
シグルドはエリーゼの細い腰を強引に引き寄せ、耳元で囁いた。
「誰も貴様を認めなかったというのなら、俺が貴様の価値を証明してやろう。その代わり、貴様のその『美しい思考』。一滴残らず、俺のために使え」
エリーゼの顔が、内側から燃えるように赤くなる。
(ひゃ、ひゃわわわわ!? 至近距離! ! シグルド様の体温による熱伝導が、私の心臓の拍動周期を完全に狂わせている! 非効率! 極めて非効率だけど……でも、脳内のエンドルフィンが計算不能な数値まで上昇していく……! なにこれ!? 心地良い……!?)
彼女は無言のまま、真っ赤な顔をして、しかし毅然とシグルドの胸板を押し返した。
「……努力、します」
そのぶっきらぼうな言葉の裏で、彼女の魔力が「愛しています!」と狂おしいほどの黄金比を描いて弾けたのを、シグルドだけが確かに視ていた。
数学という言語で世界を理解していた天才少女。 その孤独な沈黙が、初めて「愛」という名の解を得た瞬間だった。
これより、大陸の歴史は劇的に効率化されることになる。
一人のコミュ障な天才と、彼女を溺愛する覇王によって。




