「記憶にございません」とは言わせないわよ!」
一部修正しました。
世の中には「記憶にございません」と言って済まされる事が多々あるらしい。
貴族の社交界でも、王都の官庁でも、もっと言えば家庭の食卓でも。
都合の悪い事には、曖昧な笑みと、薄い謝罪と、そして便利な一言――「覚えておりません」と言う。
その一言で救われるのは、いつだって言う側だけだというのに。
◇
春の夜会。大広間は絹と香水と虚栄で満ちていた。シャンデリアの光は眩しく、眩しさに紛れて、いくつもの嘘が薄められていく。
その中心にいたのが、ミレーヌ・ウェストだった。淡い桃色のドレスに伏せた睫毛、困ったように眉を下げる仕草。心配されるために生まれてきたような「可憐」が、完璧に仕上がっている。
「大丈夫? 少しお顔が優れないようだけれど」
「無理をなさらないで。あなたは繊細なんだから」
囁かれる労りの言葉に、ミレーヌはかすかに首を振る。
「いえ……皆様にご心配をおかけするほどでは……」
その声は震えていて、けれど決して泣きはしない。泣いてしまえば“被害者”は完成してしまうからだ。
彼女はいつだって、その一歩手前で止まる術を心得ていた。
「ただ……少し、心が疲れているだけで……」
それだけで、十分だった。
誰が、何を、どうしたのか。具体的な話など、誰も求めていない。曖昧さは想像の余地を与える。そして想像は、噂へと変わる。
「最近、彼女に何かあったらしいわよ」
「ええ、聞いたわ。あの件じゃない?」
「まあ……やっぱり?」
夜会の音楽の下で、言葉は角を削られ、丸められ、無害な形を装って流れていく。
けれど、視線だけははっきりと向けられていた。
――また、始まった。
大広間の端で、その様子を眺めながら、エリシアはグラスを傾けた。
琥珀色の液体は甘く、喉を通るたびに胸の奥が冷えていく。
ミレーヌは、覚えていないだろう。
少なくとも、”覚えていない“ことになっている。
◇
ミレーヌの悪たる所以は、人の婚約者を剥がした事にあった。
始まりは、前年の秋の夜会だった。
エリシアが別の来賓に捕まり、婚約者が一人で立っていた時間を、ミレーヌは見逃さなかった。彼女は偶然を装って隣に立ち、王都の噂話を一つ差し出した。内容は無害で、相手が答えやすいものだった。会話は短く、印象だけを残して、その夜はそれで終わった。
次に会った時、ミレーヌは前回の会話を正確に覚えていた。
「以前、地方監査のお話をなさっていましたでしょう」
その一言で、婚約者は「自分の話を覚えてくれている相手」として彼女を認識した。エリシアですら忘れることのある細部を、ミレーヌは拾い上げていた。
彼女はそういった意味では人を狂わせる魔性の女だったのかもしれない。
だが、情熱で惑わすタイプではない。
甘い言葉で縛ることも、露骨な誘惑に身を委ねさせることもしない。
ミレーヌが用いるのは、もっと地味で、もっともいやらしい方法だった。
婚約者が口にしたエリシアへの不満――仕事に追われがちなこと、感情を表に出さないこと、社交の場で常に「正しさ」を優先するところ。それらに対して、ミレーヌは決して「それは良くない」とは言わなかった。
「そう感じてしまうことも、ありますわよね」
ただ、それだけを返す。肯定とも同情とも取れる、逃げ道の多い一言だった。
その一言が、どれほど人を安堵させるかを、彼女はよく知っていた。
否定されないこと。責められないこと。
それは、自分は間違っていないのだと錯覚するための、十分な材料になる。
やがて話題は、エリシアから未来へと移っていった。
「責任のある立場にいらっしゃる方ほど、ご自分の望みを後回しにしがちですものね」
「もし、何のしがらみもなかったら……どんな日々を過ごしたいのかしら」
問いはいつも仮定で、答えを強要しない。
それでも婚約者は、少しずつ言葉を重ねていった。仕事のこと、理想の暮らし、かつて抱いていた希望。
その傍らに、ミレーヌは立ち続けた。
選択肢を示し、道を照らし、だが自らは決して手を引かない。「決めるのは、あなたですもの」と、何度も口にした。
そして残ったものは、エリシアと共にいる未来が「重いもの」に見え、ミレーヌの傍にいる時間が「軽いもの」に感じられる、その感覚だけだった。
そうして、婚約者は元婚約者になった。
破談は穏便に進められた。理由は「互いの将来を考えた結果」。社交界にとっては、よくある話の一つに過ぎなかった。
だが、エリシアにとっては違った。
彼が一途な人間だと信じていたからこそ、その裏切りは相当ショックだった。
それ以来、エリシアは彼の名前を口にしなくなった。
意識して避けたというより、口にしようとすると言葉が喉の奥で止まってしまった。名を呼べば、彼がそこにいた時間まで一緒に引き戻されてしまう気がしたからだ。
誰かに尋ねられたとき、彼女はいつもそう言った。名前を伏せ、関係だけを示す言葉で、話を濁した。それ以上を語らなければならない場では、話題を変えた。
同情も、詮索も、等しく煩わしかった。
浮気されたのかと問われることもなかった。
――もしも、自分からそう言ってしまえば。
エリシアは、心のどこかでそう考えていた。
「浮気されたのだ」と口にすることは、被害を明らかにすることではなく、自分の価値を貶める行為のように思えてならなかった。
選ばれなかった女。奪われた女。そう名乗ることは、まるで“女の恥”を自ら掲げるようで、どうしても出来なかった。
だから、言わなかった。説明しなければ、評価もされない。
それが、エリシアにとって唯一残された自尊心だった。
加えて、もう一つの理由があった。
以前――婚約が解消される前、エリシアは一度だけ、ミレーヌを問い詰めたことがある。
人目のある回廊で、逃げ場のない場所で。
声を荒げたわけでも、罵ったわけでもなかったはずなのだが、ミレーヌが泣いてしまったのだ。
声を上げ、肩を震わせ、わんわんと。
あまりにも分かりやすく、あまりにも劇的に。
周囲の視線が一斉に集まり、空気が一瞬で変わった。
「そんなつもりじゃ……私、ただ心配で……」
涙に濡れた言葉は、善意にも悪意にも取れた。
演技だと断じるには、感情が生々しすぎた。
だが、純粋な無垢だと信じるには、何故、婚約破棄になったのかの説明ができない。
エリシア自身にも、判断がつかなかった。
確信を持てないまま誰かを告発することは、自分が“悪者”になる可能性を引き受けることでもある。エリシアは、それを選べなかった。
泣いてしまえば守られる。
それが、この社交界の流儀だと、エリシアは、その時ようやく理解してしまったのだった。
◇
音楽が変わった。
弦の旋律が一段高くなり、談笑の声がわずかに弾む。
現実に引き戻されるように、エリシアはグラスを置いた。いつの間にか、手の中の液体は半分以上減っている。
視線の先では、ミレーヌ・ウェストが相変わらず人に囲まれている。先ほどまでよりも、少しだけ姿勢を正し、涙をこらえたあとのような表情で。心配される役目を終えたあとに見せる、“もう大丈夫です”という顔だった。
――見事なものだわ。
エリシアは、そう思った。
そういう人を惹きつける魅力を狡い所で使わずに、もっと有意義に使えば良いのにと感じてしまうほどだ。
誰かを支えることも出来ただろう。
誰かを導くことも、守ることも。
少なくとも、人の縁を壊すためではなく、結ぶために使う道だってあったはずだ。
それでもミレーヌは選んだ。人の心の隙間に入り込み、無責任に人を惑わす方を。
それが最も楽で、最も安全で、「記憶にございません」で済ませられる方法だから。
挙句の果てに、ミレーヌは、こちらをちらりと見て笑った。
ほんの一瞬。困ったようでも、怯えたようでもない、別の笑み。
覚えている。
エリシアは、そう確信した。忘れてなどいない。忘れたふりを、選んでいるだけなのだと。
そう確信した瞬間、エリシアは理解した。
この場で正しさを語っても、意味はない。
理屈も、事実も、ここでは涙に勝てない。
――目には目を。泣けば信頼されるのなら、泣いてしまえばいい。
エリシアは、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥に溜め込んできたものを、意識的に引き上げる。
喉が震え、視界が滲んだところで、完璧だった。
「……申し訳、ありません……」
突然の声に、周囲が静まり返った。
誰もが振り向く。
それも無理はない。エリシアが、人前で泣くところなど、誰も見たことがなかったからだ。
「エ、エリシア様……?」
誰かが戸惑いがちに名を呼んだが、彼女は答えなかった。
ただ俯き、肩を小さく震わせる。堪えきれず零れた涙が、床に落ちる音がやけに大きく響いた。
「……少し、気が緩んでしまって……」
そう言って、無理に笑おうとする。その仕草が、かえって痛々しかった。
「私……自分が至らなかったのだと思います。仕事ばかりで、人の気持ちに気づけなくて……」
それでも周囲は察してしまう。誰が泣かせ、誰が泣いているのかを。
「信じてくれた彼が、こういった形で無くしてしまう自分があまりにも情けなくて……私なんてダメな人間なんです」
視線が、ゆっくりと一方向に集まっていく。
可憐な微笑みを保ったままの、ミレーヌのもとへ。
エリシアは涙を拭い、深く頭を下げた。
「……取り乱してしまって、失礼いたしました」
普段、泣かない彼女が人前で泣くという行為は、確かな効果を持っていた。
あまりにも迫真すぎるその姿に、あのミレーヌですら、言葉を失っていた。
可憐な微笑みは張り付いたまま、けれど視線だけが定まらず、状況を測りかねているのがありありと分かる。
初めてだったのだろう。
泣いている側ではなく、泣かせたかもしれない側として、視線を浴びるのは。
周囲の空気が、明確に変わった。
ミレーヌは、それを敏感に察した。
自分が今、守られる位置にいないことを。
「……少し、気分が優れませんので……」
か細い声でそう告げると、
彼女は誰かの腕を借りることもなく、
まるで逃げるように大広間を後にした。
エリシアは、それを見届けると、
ようやく小さく息を吐いた。
◇
これは、あくまで風の噂で聞いた話だ。
真実かどうかは分からない。
ただし――信憑性が零だと、一笑に付せるほど軽い話でもなかった。
曰く、ミレーヌがエリシアの婚約者を剥がそうとしたのは、気まぐれでも、遊びでもなかったという。
彼女は、取って代わろうとしたのだと。婚約者の隣に立つ女として。社交界で評価される立場として。エリシアという存在そのものになろうとしていたのだ。
つまり、彼女がやろうとしたのは略奪だった。
そう考えれば、すべてが繋がる。
覚えているのに、覚えていないと言ったことも。善意と涙を盾にして責任から逃げ続けたことも。
ミレーヌは、魔性の女ではない。
最初から最後まで、根っこからの悪女、そのものだったのだ。
もっとも。元婚約者もまた、免罪される存在ではない。
どれほど言葉が巧みでも、どれほど相手が狡猾でも、踏み越えたのは彼自身だ。
それは、紛れもなく浮気だった。
そして、貴族社会は浮気に厳しい。
どんな社会的制裁が下されるのか、想像したくもなかった。
ただ一つ確かなのは、「記憶にございません」で済まされる夜は、もう終わったということだけだった。




