タイトル未定2026/01/20 21:15
短編です
## 第1章:プロローグ『純白の棺、奈落の産声』
湿った土の匂いと、死神の吐息のような冷気。
エルナ・フォン・ラインハイトが最後に覚えているのは、義母の冷ややかな笑みと、背中を突き飛ばされた瞬間の、心臓が跳ね上がるような浮遊感だった。
没落貴族、ラインハイト家の長女。それが彼女に与えられた唯一の肩書きであり、同時に呪いでもあった。ギャンブルと浪費で家を潰した父は蒸発し、後妻として入った義母にとって、エルナは「換金可能な在庫」か「目障りな遺物」でしかなかった。
そしてラインハイト家が最後に選んだ延命策は、この国の中央に口を開ける巨大迷宮『大穴』の怒りを鎮めるための、清らかな血の生贄だった。
「――ああ、終わるんだわ」
落下しながら、エルナは場違いなほど冷静にそう思った。
視界は高速で流れる闇に支配され、風がナイフのように肌を切り裂く。かつて着飾っていた絹のドレスは風に煽られ、無様な羽ばたきを繰り返している。
この穴の底には、人間が数千年にわたって捨ててきた欲望と、それを糧に育った魔物が蠢いているという。生きて辿り着けるはずもなかった。
ド、ォォォォォン……!
どれほどの時間が経過したのか。
轟音と共に、エルナの体は「底」へ叩きつけられた。
幸運だったのは、そこが迷宮の最下層付近に溜まった、巨大なキノコの胞子と腐葉土の堆積場だったことだ。クッションとなって衝撃を殺したが、それでも全身の骨が悲鳴を上げている。肺から空気が押し出され、視界がチカチカと火花を散らす。
「か、は……っ、あ……」
指先一つ動かせない。折れた肋骨が内側から肺を突き刺しているのか、呼吸のたびに鉄の味が口内に広がる。
暗闇の奥から、無数の「目」が自分を見つめているのを感じる。カチカチと節足動物が顎を鳴らす音、ぬらぬらとした何かが這いずる音。
捕食者たちが、空から降ってきた新鮮な「餌」を品定めしているのだ。
(助けて……。誰か、誰でもいいから……)
声にならない叫び。その時、彼女の震える指先が、冷たく、ぬらりとした感触に触れた。
それは地面にへばりついていた、真っ白な、繭のような物体だった。
エルナの傷口から溢れ出た鮮血が、その白い塊に吸い込まれていく。すると、塊は脈打つ心臓のように大きく波打ち、言葉にならない思念を彼女の脳内へ直接流し込んできた。
『――ハラ、ヘッタ――』
幼子の震え声のようでありながら、底知れない飢餓感を孕んだ声。
それは、迷宮そのものが産み落とし、あまりの貪欲さゆえに迷宮からさえ切り離された「異端の核」だった。
『オマエ、ウマソウ。デモ、ココデ死ヌ、モッタイナイ。……オレヲ、キレ。ソシタラ、マモル』
「……着る、ですって……?」
『ソウ。オマエハ、オレノ、ニク。オレハ、オマエノ、ヨロイ』
次の瞬間、白い塊は爆発するように広がり、エルナの体を飲み込んだ。
それは「着る」という生易しいものではなかった。
真っ白な布地が、蛇のようにエルナの脚を、腕を、胴体を締め付け、ボロボロだった服を食い破りながら肌に癒着していく。
「あ、ああああああああっ!!」
熱い。沸騰した鉛を流し込まれているような激痛。
ドレスの繊維がエルナの毛穴から入り込み、直接血管と、魔力回路と接続されていく。エルナの折れた骨を白い糸が繋ぎ止め、破れた肺をドレスが外部から補強する。
感覚が拡張されていく。
自分の皮膚が、どこまでが肉体で、どこからが布なのか、その境界線が溶けて消えていく。
やがて、激痛は潮が引くように去り、代わりに圧倒的な「力」の感覚が満ちてきた。
エルナがゆっくりと立ち上がると、そこには驚くべき光景があった。
泥と血に汚れていたはずの彼女は、今や、雪のように白く、幾重にも重なったフリルが美しい豪華なドレスを纏っていた。
だが、そのデザインはどこか禍々しい。
レースの端は鋭い牙のように尖り、胸元には巨大な宝石――否、意思を持つ「眼」が埋め込まれている。
「これが……私?」
『ソウ。オマエハ今、世界デ一番、キケンデ、美シイ……「歩ク迷宮」ダ』
暗闇から飛びかかってきた一体の餓狼。
エルナが身構えるより早く、ドレスの裾が意思を持つ生き物のように跳ね上がった。
布地の一部が巨大な「口」へと変形し、空中で魔物を丸呑みにする。
バリ、ゴリ、という硬い骨を砕く音が、エルナの背筋を震わせた。
「……ああ……」
不思議なことに、恐怖はなかった。
ドレスが栄養を吸収するたび、エルナの全身に温かな魔力が巡る。肺の痛みは消え、心臓は力強く鼓動し始めた。
エルナ・フォン・ラインハイトは、この日、死んだ。
そして、奈落の底で、生きたドレスを纏う「迷宮の主」として産声を上げたのだ。
彼女は静かに、暗闇の奥へと続く通路を見据えた。
「行きましょう、アビス。……私を捨てた世界に、いつか、極上の晩餐会を届けるために」
## 第2章:咀嚼される日常、変貌する外装
深い闇の中、エルナは自分の呼吸音だけを頼りに歩いていた。
奈落の底。そこは地上の常識が一切通用しない、混沌と暴力が支配する箱庭だ。
だが、今の彼女にとって、その暗闇はかつての豪華な屋敷の廊下よりもずっと「鮮明」に見えていた。
(……不思議。松明もないのに、岩の凹凸や空気の揺れが手に取るようにわかる)
それは彼女の視力が向上したからではない。
全身を包むドレス『アビス』の微細な繊維が、空気中の魔力濃度を感知し、それを「映像」としてエルナの脳内に投影しているのだ。
『エルナ、クルゾ。……五、四、三……』
アビスの乾いた声が響くと同時、頭上の岩陰から無数の「影」が降り注いだ。
それは『針蝙蝠』の群れだった。鋼鉄のように鋭い翼と、麻痺毒を湛えた牙を持つ、低層階の掃除屋。
「アビス、守って!」
エルナが叫ぶよりも速く、ドレスが反応した。
純白のスカートが大きく翻ると、その裾から数千、数万という細い「糸」が射出される。それはクモの糸よりも粘り強く、ワイヤーよりも強靭な、アビス自らが編み出したトラップ――迷宮ギミック『拘束の白糸』だ。
キィ、キィイイッ!
空中で糸に絡め取られた蝙蝠たちは、逃れる術を持たなかった。
糸はただ拘束するだけではない。ドレスと直結したその末端からは、対象の生命力を吸い上げる「吸管」が伸び、蝙蝠たちの肉体を瞬く間に干からびさせていく。
「……ああ、熱い。また流れてくる……」
エルナは、自分の太ももや腹部に、熱い液体が流し込まれる感覚に身悶えた。
吸い上げられた生命力はアビスを通り、魔力としてエルナの回路を暴走気味に駆け巡る。
一分と経たず、数十匹の蝙蝠は灰のような粉末となって地に落ちた。
『マダマダ、足りナイ。コイツラ、カス。もっと「硬イ」の、食べたい』
アビスの要求に応じるように、エルナはさらに奥へと進む。
辿り着いたのは、鉱石が剥き出しになった大空洞だった。そこには、このエリアの主と思われる魔物――『岩殻蜘蛛』が鎮座していた。
大石像ほどもある巨体。その全身は、迷宮の硬質な鉱石を喰らって生成された、漆黒の岩殻に覆われている。
「……あんなの、どうやって食べるのよ」
エルナの頬を引きつらせたが、アビスは歓喜に震えていた。
『アレ、最高。……エルナ、踊レ。オレガ、合わせてヤル』
岩殻蜘蛛が、その巨大な脚を叩きつけてきた。
エルナは反射的に横へ飛んだ。驚くべきことに、その跳躍力は常人のそれを遥かに超えていた。ドレスの繊維が人工筋肉として彼女の脚力を倍増させているのだ。
「はぁ、っ……たぁ!」
空中でエルナが右腕を振る。
すると、ドレスの袖口から黒い鉄のような「杭」が突き出した。迷宮トラップ『落石の杭』。
杭は蜘蛛の岩殻に直撃し、凄まじい火花を散らしてその表面に亀裂を入れた。
ギシャァァァッ!
怒り狂う蜘蛛。だが、エルナの恐怖は、アビスから流れ込む「高揚感」に塗りつぶされていた。
彼女はドレスの裾を優雅に持ち上げ、まるで夜会でワルツを踊るかのように、死の淵をステップで駆け抜ける。
「ふふ、あはははっ! 凄い、アビス! 私、生きてる! 今、誰よりも強く生きてるわ!」
ドレスがエルナの笑い声に共鳴し、その色を変え始める。
純白だった布地が、蜘蛛の殻と同じ「漆黒」を取り込み、重厚な金属光沢を帯びていく。
エルナは蜘蛛の懐に飛び込むと、ドレスの胸元にある『眼』をカッと見開かせた。
「――捕食。根こそぎ、頂くわ!」
ドレス全体が巨大な「顎」へと変貌した。
それはもはや少女の纏う服ではなく、あらゆるものを噛み砕き、飲み込む、理不尽なまでの暴食の化身。
岩殻蜘蛛の悲鳴は、バキバキという凄まじい咀嚼音にかき消された。
数分後。
空洞の中央には、変わり果てたエルナの姿があった。
ドレスは当初のふんわりとした可憐さを捨て、鋭角的な「黒鉄の鎧ドレス」へと進化していた。肩口には蜘蛛の殻を模したスパイクが並び、スカートの裏地には吸い込んだ魔力を定着させるための不気味な魔方陣がびっしりと刻まれている。
エルナは、自分の手の平を見つめた。
指先はうっすらと黒く染まり、その質感は人間の肌というよりは、磨き上げられた黒曜石のようだった。
「……美味しい」
ポツリと、彼女の口から零れた言葉。
それはかつての令嬢としての礼儀作法ではなく、捕食者としての本能的な賛美だった。
彼女は今、初めて「人間としての日常」を、自らの牙で咀嚼し、飲み込んだのだ。
『エルナ、見たカ?……オマエ、もう、戻れナイゾ』
アビスの囁きに、エルナは静かに微笑んだ。
「ええ。……戻るつもりなんて、最初からないわ」
彼女の瞳の奥で、ドレスと同じ漆黒の魔力が、静かに、しかし力強く渦巻いていた。
## 第3章:銀翼の断罪者、あるいは鏡の前の怪物
迷宮の第五階層は、これまでの岩と泥の世界とは一変し、乳白色の鍾乳石が並ぶ幻想的な空間だった。
天井から滴る水滴が、静寂の中に規則正しい音を刻んでいる。だが、その静寂を破ったのは、エルナの耳に届いた「金属の触れ合う音」と「複数の足音」だった。
(……足音? 魔物じゃない。この規則正しいリズムは、人間だわ)
胸の奥が、ちりりと疼いた。
恐怖か、それとも郷愁か。エルナは反射的に、鍾乳石の巨大な柱の陰に身を隠した。
曲がり角の先から現れたのは、磨き上げられた白銀の甲冑を纏い、背中に純白の外套を翻す一団――王都でもその名を知らぬ者はいない、超エリート冒険者パーティ『銀翼騎士団』だった。
「……周囲を警戒せよ。この付近に、強力な魔力反応があるとの報告だ」
先頭を歩く、黄金の髪を持つ青年騎士が厳かに命じる。
エルナはその姿に見覚えがあった。かつて父が開催した夜会で、遠くから眺めていた輝かしい英雄。没落する前の彼女にとって、彼は憧れの象徴ですらあった。
『……エルナ。アノ男、イイ匂イ。……「高潔」ナ魂ノ匂イダ。食イ応エ、アリソウ』
「……黙って、アビス」
エルナは脳内で囁くドレスを嗜めた。
だが、同時に自分でも驚くべきことに気づく。彼女の鼻は今、騎士たちが身に纏う石鹸の香りや、手入れされた革の匂いを、「異物」として不快に感じていた。彼女にとっての「自然」は、既に迷宮の腐臭と魔力の濃密な香りに書き換えられていたのだ。
その時、不運にも一人の魔導師の杖が、エルナの潜む影を照らし出した。
「誰だっ! そこにいるのは!」
逃げる間もなかった。エルナはゆっくりと、柱の陰から姿を現した。
騎士たちの間に、一瞬の静寂が流れる。
彼らの目に映っているのは、かつての可憐な令嬢ではない。
漆黒の鉱石が編み込まれたような、鋭利で禍々しいドレスを纏い、指先からは黒い爪を伸ばし、瞳には紫の魔光を宿した「何か」だ。
「……あ、あの……。私は……」
エルナが声を絞り出す。しかし、その声はアビスの魔力に干渉され、二重の残響を伴う不気味な響きとなっていた。
青年騎士の顔が、驚愕から即座に、冷徹な「討伐者」のそれへと変わった。
「……人の姿を模した魔物か。あるいは、迷宮に魂を売った禁忌の魔術師か」
「違います! 私は、エルナ・フォン・ラインハイト! 生贄として捧げられた、ただの――」
「黙れ! 迷宮の生贄が生きているはずがない。その禍々しい衣を見ろ。それはもはや、歩く迷宮そのものではないか!」
騎士が剣を抜いた。その白銀の刃に、エルナの姿が映り込む。
そこにいたのは、ドレスの裾から無数の眼球を覗かせ、肩口から蜘蛛の脚のような棘を突き出した、救いようのない怪物の姿だった。
「……ああ、そうか」
エルナは、鏡の中の自分を見て、初めて理解した。
自分はもう、彼らの世界には戻れない。戻ってはいけない存在なのだと。
『ソウダ。奴ラハ、オマエヲ「害悪」ト呼ンダ。ナラバ、教エテヤレ。真ノ恐怖ヲ』
騎士たちが一斉に飛びかかってくる。
エルナは悲しみを捨て、ドレスの意思に身を委ねた。
「――迷宮展開。『拒絶の円環』」
エルナがドレスの裾を強く踏みつけると、地面から黒い布の触手が爆発的に噴き出した。
それはドレスの一部でありながら、地面を侵食し、即座にその場をエルナの支配する「私設迷宮」へと作り変える。
「なっ……地面が動く!? 罠か!」
「アビス、彼らを傷つけないで。……ただ、追い払って」
エルナの最後の慈悲は、アビスによって残酷な形で実行された。
黒い触手は騎士たちの武器を絡め取り、凄まじい力で壁へと叩きつける。甲冑がひしゃげる音が響き、英雄たちは成すすべもなく地に伏した。
「……バケ、モノめ……」
青年騎士が吐血しながら、憎悪に満ちた目でエルナを睨む。
エルナは彼を見下ろし、かつては出来なかったような冷徹な笑みを浮かべた。
「ええ、そうです。私は怪物。……そしてこの場所は、私の胃袋の中よ」
ドレスが騎士の剣を「捕食」し、その白銀の輝きを吸収していく。
騎士たちは恐怖に顔を歪め、命からがら撤退していった。
一人残されたエルナは、静まり返った鍾乳洞で、自分のドレスに触れた。
ドレスは騎士の剣を喰らったことで、今度は「白銀のレース」をその身に纏い始めていた。
他者の光を奪い、自分の美しさに変える。その強欲なまでの美しさに、エルナはもう、嫌悪感を抱かなかった。
「行きましょう、アビス。もっと深いところへ」
彼女はもう、鏡を見る必要を感じていなかった。
自分を怪物と呼ぶ世界を、逆に「獲物」として見下ろすだけの強さが、今の彼女には備わっていたのだから。
## 第4章:忘却の対価、氷獄の進化
迷宮の第八階層。そこは、生命の熱を一切拒絶する『氷獄』の世界だった。
天井からは槍のように鋭い氷柱が垂れ下がり、地面は鏡面のように磨き上げられた永久凍土が広がっている。吸い込む空気は肺を凍てつかせ、吐き出す息は瞬時に白い結晶となって霧散する。
「……っ、う……、……寒い……」
エルナは、自分の肩を抱いて震えていた。
かつて騎士団の剣を喰らい、銀色の輝きを得たはずのドレス『アビス』も、この絶対零度の前では沈黙を守っていた。ドレスの表面には霜が降り、自慢のフリルは凍りついて凶器のような硬さになっている。
魔力は足りているはずだった。だが、この階層の寒さは物理的な冷気ではない。侵入者の「生きようとする意志」そのものを凍らせる、呪いに等しい極寒なのだ。
『……エルナ……。コノママデハ、オマエノ「核」ガ……凍ル……』
脳内で響くアビスの声も、どこか遠く、掠れている。
エルナの意識は朦朧とし、凍土の上に膝をついた。視界の端で、自分の指先が感覚を失い、青白く透けていくのが見える。
(ああ、温もりが欲しい……。お母様の、あの暖かい手のような……)
その瞬間、アビスが激しく脈打った。
『……ソレダ。ソノ「熱イ」記憶ヲ……オレニ、クレ。ソレヲ薪ニシテ、燃ヤセバ……コノ寒サ、越エラレル……』
「……お母様の、思い出を……? 嫌よ、それだけは……。私の、最後の一片なのに……」
『忘レテモ……死ナナイ。死ネバ、全ブ消エル。……選ベ、エルナ』
エルナの脳裏に、幼い日の情景が浮かぶ。
没落する前、まだ優しかった父と、病弱だったが美しかった母。母が口ずさんでくれた子守唄。陽だまりの中で、母の膝の上で微睡んでいたあの昼下がり。
それだけが、今のエルナを怪物から「エルナ」という少女に繋ぎ止めている、最後の手綱だった。
だが、冷酷な死の足音がすぐ背後に迫っている。
氷の陰から、半透明の体を持つ『氷晶の亡霊』たちが、熱を求めて這い寄ってきた。
「……いいわ。……燃やして。私を、生かして、アビス……!」
エルナが絶叫すると同時に、ドレスの胸元にある『眼』が、眩いばかりの青白い光を放った。
エルナの頭の中から、何かが「引き抜かれる」感覚。
母の優しい声が、微かな花の香りが、陽だまりの温かさが、目に見える輝く糸となってドレスへと吸い込まれていく。
瞬間、ドレスが猛烈な熱を発した。
凍りついていた布地が、溶岩のように真っ赤に焼けたかと思えば、次の瞬間には絶対零度を克服した『深蒼』の結晶体へと再構築されていく。
「――氷華覚醒。『冷徹なる氷后』」
エルナが立ち上がると、その場に凄まじい衝撃波が走った。
ドレスはもはや布の質感を失い、数千の極薄い氷の鱗が重なり合った、透き通るようなクリスタル・アーマー・ドレスへと変貌していた。
背中からは氷の結晶でできた幾何学的な六花の翼が広がり、エルナが歩くたびに、地面の凍土がさらに鋭い氷の棘となって隆起する。
「……あ」
亡霊たちが一瞬で粉砕され、霧となって消える。
エルナは、自分の胸に手を当てた。
暖かい。寒さはもう感じない。
だが、同時に彼女の心には、底知れない「空洞」が空いていた。
(私、今……何を、燃やしたんだっけ……?)
何か、とても大切で、優しくて、暖かいものを失ったはずだ。
しかし、それが何であったのかを思い出すための「鍵」が、もうどこにも見当たらない。
名前も、顔も、声も、アビスの進化という炎の中で灰になってしまった。
『……エルナ……。ツヨクナッタ。……オマエ、モウ、泣カナイ……』
「……ええ。そうね。……泣く理由も、もう忘れてしまったもの」
エルナは、感情の消え失せた冷徹な美貌を、氷の壁に映し出した。
そこに映る自分を見て、彼女はもう「怪物」だとも「少女」だとも思わなかった。
ただ、この迷宮の最深部を目指すための、磨き上げられた「刃」がそこにあるだけだ。
ドレスは今や、エルナの心さえも糧にして、神々しいまでの美しさを放っている。
彼女は一歩、また一歩と、自分自身を削り落としながら、暗黒の深淵へと足を踏み入れていった。
## 第5章:深淵の晩餐会
迷宮の最深部、『虚無の回廊』。
そこには壁も天井も存在しなかった。ただ、果てしなく続く暗黒の中に、銀河の残骸のような光の塵が漂っている。エルナが踏みしめる足元だけが、鏡のように磨き上げられた黒い水面として存在していた。
その中心に、それは座していた。
『忘却の王』。
数千年にわたって迷宮に挑み、敗れ、歴史から消し去られた冒険者たちの武具、魔法、そして「未練」の集合体。それは山のような巨体を持ち、全身から錆びついた数万の剣を突き出した、鉄と怨念の巨神だった。
『――来タカ、迷宮を宿ス「苗床」ヨ――』
王の声は、物理的な音ではなかった。それはエルナの骨髄を直接震わせる、重苦しい響きだった。
王がその巨大な腕を振り上げる。そこには、かつてエルナから奪われた「母の記憶」の残滓が、歪んだ紋章となって刻まれていた。
「……私の大切なものを、そんな汚らわしい体に刻まないで」
エルナの瞳が、漆黒と深蒼の混ざり合った異様な色に染まる。
彼女が纏う氷のドレス『アビス』が、王の放つ圧倒的なプレッシャーに反応し、狂ったように脈打ち始めた。ドレスのフリルが牙のように剥き出しになり、背中の氷翼が魔力を吸い上げ、大気をバチバチと放電させる。
『エルナ……。奴ハ、デカイ。……「全部」ダサナイト、喰ベラレル』
「ええ、わかっているわ。……全部あげなさい。私の肉も、血も、最後に残った僅かな心も」
王が振り下ろした「忘却の巨剣」。
それは空間そのものを切り裂き、エルナの頭上から降り注いだ。
エルナは動かない。否、動く必要がなかった。
「――ドレス全展開。『万物を咀嚼する秘密の庭』!」
瞬間、エルナの姿が消えた。
彼女が纏っていたドレスが、爆発するように四方八方へと広がったのだ。
純白、漆黒、白銀、深蒼――これまでにアビスが喰らってきた全ての色彩が混ざり合い、巨大な「布の津波」となって王を包み込む。
それはもはや、一人の少女が着る服の概念を遥かに超えていた。
布地は床を覆い、虚空を縫い合わせ、王の周囲に巨大な「胃袋」という名の閉鎖空間を作り上げる。
ドレスのレースの一本一本が、獲物を捕らえる触手となり、フリルの重なりは、逃げ場のない迷宮の通路へと変貌する。
「ここは私の内側。……私の、晩餐会場よ」
闇の底から、エルナの声が響く。
王の巨体が、ドレスの触手に絡め取られていく。王が放つ怨念の剣を、ドレスの布地が「布目」で受け流し、逆にその魔力を吸い取っていく。
バキ、バキバキッ!
王の右腕が、アビスの「顎」に噛み砕かれた。
エルナの意識は、ドレスの隅々にまで行き渡っていた。王の苦痛が、彼女の快楽となる。王の絶望が、彼女の栄養となる。
「美味しい。……ああ、なんて芳醇な味なのかしら」
ドレスの中央、心臓部。そこには、全ての衣服を脱ぎ捨て、魔力の奔流をその身に纏ったエルナが浮かんでいた。
彼女の肌には、迷宮の紋章がびっしりと浮き上がり、背中からは血のように赤い「ドレスの根」が、王の心臓へと伸びている。
王は抗おうと、自らの身を砕いて爆発的な魔力を放出した。
しかし、アビスはその爆発さえも「デザート」として飲み込んだ。
エルナの神経と接続されたドレスが、王の核――『忘却の種子』を捉える。
「――ごちそうさまでした」
エルナがそっと、王の核に手を触れた。
その瞬間、ドレス全体が猛烈に収縮し、王の巨体を一点へと吸い込んだ。
鉄が砕け、魔法が霧散し、数千年の怨念が少女の小さな体へと凝縮されていく。
凄まじい閃光。
そして、全てが静寂に包まれた。
暗黒の空間に、一人の少女が降り立つ。
彼女が纏っているのは、もはやこれまでのどの形態とも違う。
光を吸い込むような深い闇の絹に、倒した王の記憶を刺繍として刻んだ、神々しくも禍々しい『究極の礼服』。
エルナは、自分の胸元をそっと撫でた。
そこには、王から取り戻したはずの「母の記憶」が戻っていた。
……しかし、それはもはや、純粋な愛の記憶ではなかった。
迷宮の魔力によって汚染され、捕食の快楽と混ざり合った、歪んだ愛。
「……お母様。……私、もう、お母様の顔を思い出しても……涙が出ないわ」
エルナは微笑んだ。その頬を一筋、透明な雫が伝う。
それが、彼女が人間として流した、最後の一滴だった。
ドレス『アビス』は満足げに喉を鳴らし、エルナの肌を優しく、愛撫するように締め付けた。
彼女は今、迷宮の最深部で、この世界の理から解き放たれた「唯一の存在」へと至ったのだ。
## 第6章:エピローグ『夜明けに笑う、美しき迷宮』
眩しさに、目が眩んだ。
迷宮『大穴』の入り口。数千年の間、生贄たちの絶望を飲み込み続けてきたその巨大な口から、一人の少女が静かに歩み出た。
朝日が、彼女を照らす。
かつて彼女を奈落へ突き落とした義母が、そして彼女を見捨てた世界が愛した、黄金の太陽。
だが、今のエルナにとって、その光はあまりに薄っぺらく、頼りないものに感じられた。
(……空気が、薄いわ)
地上の大気には、迷宮にあったような濃密な魔力の陶酔がない。
エルナは、自分の指先を見つめた。
彼女が纏っているのは、夜の闇をそのまま布地に変え、そこに死にゆく星々の輝きを刺繍したような、神々しくも禍々しい漆黒のドレスだ。
ドレスの裾は、意思を持つ生き物のように優雅に、かつ貪欲に蠢き、彼女が踏み締める地上の土を、一歩ごとに「迷宮の領土」へと侵食し、黒く染め変えていく。
「あら……。お迎えかしら?」
視界の先、ラインハイト家の紋章を掲げた馬車が、数人の護衛を連れて停まっていた。
馬車から降りてきたのは、かつてエルナの背中を押した、あの義母だった。
彼女は、生贄を捧げた儀式が成功したかを確認しに来たのだろう。だが、目の前に現れた「異形」を見て、その表情は瞬時に恐怖へと凍りついた。
「……な、何なの……その姿は。エルナ? エルナなの……!?」
義母の声が震える。
無理もなかった。エルナの瞳はもはや人間のものではなく、深淵をそのまま映したような虚無の紫に染まっている。
背中からは、薄氷のような質感の黒い翼が、朝日に反射して虹色の毒々しい輝きを放っていた。
「ええ、お母様。……いえ、元・お母様。……私、帰ってきたわ。貴方たちが、私にプレゼントしてくれた『新しい服』を見てほしくて」
エルナが一歩、歩み寄る。
ドレス『アビス』が、歓喜に震えて喉を鳴らした。
『エルナ……。コノ女、マズイ。……嘘ト欲ノ、汚イ味ガ、スル』
「そうね。でも、お腹は空いているでしょう? 毒も薬も、全部飲み込んでこその迷宮よ」
エルナは、ドレスの裾を優雅に持ち上げ、完璧なカーテシー(淑女の挨拶)を披露した。
かつてあれほど厳しく仕込まれた作法が、今、死を告げる舞踏の合図となる。
「――全展開・アビス。……『招待状』を送りなさい」
次の瞬間、エルナの足元から無数の黒い影が爆発的に噴き出した。
影はドレスの一部であり、同時に「迷宮そのもの」だった。
それは馬車を、護衛を、そして悲鳴を上げる間もなかった義母を、一瞬で「内側」へと引きずり込んだ。
バリ、ゴリ。
聞き慣れた、心地よい咀嚼音。
エルナは、その音を子守唄のように聞きながら、遠くの街並みを見渡した。
立ち並ぶ塔、行き交う人々、欲望が渦巻く王都。
今の彼女にとって、この世界はもはや「故郷」ではない。
それは、自分とアビスを満足させるための、広大で、賑やかな、最高級の「晩餐会場」だ。
「行きましょう、アビス。……まだ、メニューは決まっていないけれど」
『……全ブ、喰ベル。……一ツ残サズ、タベル』
エルナは微笑んだ。
その微笑みは、聖女のように清らかで、魔王のように残酷だった。
彼女が歩いた後には、黒いドレスの裾からこぼれ落ちた「迷宮の種」が、不気味な花となって咲き乱れていく。
世界はまだ、知らない。
一人の少女が奈落から持ち帰ったのは、希望でも救いでもなく。
ドレスの形をした、終わりのない『空腹』であったことを。
夜明けの光を背に受けて、美しき迷宮は、次の獲物を求めて優雅に歩き出した。
終わり
長編用のプロンプトみたいなものです。
書くかどうかはまだ未定dwす




