幕間1 クリストファー・ベアステラ第一王子
幕間です。
クリストファー殿下視点です。
「じゃあ放課後、図書館で」
そう言って席を立った私は、若干足早にマリアンヌの横を通り過ぎ、サロンから出た。
無事サロンから出られたことに、ホッと息を吐く。そして思わず、
「ーーよかった。私はまだ、エマが好きだ」
と呟いていたことに気付いた。
素早く辺りを確認し、廊下に誰もいないことに安堵するも、意外と地獄耳の元婚約者には聞こえていたかも知れないと身を震わせる。
いや、分かってはいるつもりだった。
マリアンヌ・バレンティという女性は、恋物語が大好きで、常にラブラブの両親を見て育ったために、婚約者の私にもたくさんの愛の言葉をくれていた。彼女の「愛しています」はもはや口癖で、その常の無表情さからは考えられないほど情熱的に愛を与えてくれるのだ。
もちろんそれは、本心からではないと分かっていた。何故なら、婚約者として初めて顔を合わせた時に、彼女がはっきりと言ったからだ。
「わたしたちの婚約は、あくまで政略的なものですけど、わたしの両親のように政略婚でも仲良しの夫婦になれることは知っています。ですからわたしは、今日から殿下を愛しい人として大切にあつかうことを誓いますわ」
あの時、十歳の自分には彼女が何を言っているのか理解できなかった。しかし、会うたびに愛を囁かれ、自分も彼女を大切にしようと思うようになったのだ。「愛してる」と言われるから、「私も愛しているよ」と返す。それはお互い、自分に言い聞かせているようだった。
彼女と結婚するのだと、疑っていなかった。その未来も幸せだな、と本気で思っていた。
しかし、私はエマに出会ってしまった。
エマに出会ってから、彼女のことが頭から離れず、彼女の側に男がいれば嫉妬して、自分でも信じられないほど感情が揺れ動くことに戸惑った。今まで感じたことのないその感情に、これが恋かと悟った。人を好きになるとは、こういうことかと。
思えば、マリアンヌとはお互いに、「愛している」とは言い合っていたが、「好きだ」と言ったことはなかった。そのことに気付いた時、やはり彼女も、私に恋などしていないのだと思った。
であるならば、マリアンヌと話して早々に婚約を解消させてもらおう。
そう思ったところで、ふと不安になった。
本当に、マリアンヌは婚約解消を承諾してくれるだろうか?
今まで付き合ってきた彼女の性格からすれば、それは自明だった。
しかし、彼女は他ならぬ、マリアンヌ・バレンティなのだ。
彼女に逆らえる人間はいない。それは、ベアステラ王族ならばよく知る情報だった。
バレンティ公爵家。ベアステラ四大公爵家の一つであり、この国で最も恐れられる家の一つである。かの家が恐れられるのは、一般の貴族たちからは普通に権力や財力などを恐れられているのだが、王族からは違う。
表向きのバレンティ公爵家は、家族それぞれが得意分野で高い業績を上げている、スペシャリスト集団の家として知られている。だが、その裏の顔は、王家専用の隠密集団だ。
特に重要なのが、バレンティ家固有の闇魔法である。
闇魔法にも様々な種類があり、闇属性の者、および闇魔法自体は珍しくない。何故なら闇魔法とは、一般的な属性魔法で括れない全ての魔法の総称だからだ。私の得意な氷魔法も、闇魔法の一種である。
バレンティ家の闇魔法が珍重されるのは、強力に精神に作用するものが多いからだ。そして人によって、得意な魔法の効果は異なる。
例えば、マリアンヌの母、バイオレット・バレンティの固有魔法は他者の心を読む魔法で、国の諜報活動に一役どころか何役もかっている。
こうした能力は、味方のうちは心強いが、敵に回すと本当に危険だ。だから、王家の者との政略結婚で縛る。王家を裏切ることがないように。
現に、バイオレットは王弟であるジョージと政略結婚させられている(本人達はたいへん幸せそうだが)
そして、マリアンヌ・バレンティ。
彼女の固有魔法は、他者を思い通りに操る魔法。一度に操れる人数は彼女の精神力と魔力に依存するが、どちらも高い彼女には操り軍勢を作ることも可能だろう。
基本的に、ターゲットが彼女の視界に入りさえすれば操る対象になり、目を合わせでもしたら、完全に意思のない操り人形にされてしまう。そして一度操られてしまえば、彼女が魔法を解くまで操られ続けるのだ。
王家の人間は彼女のその能力を知り、私と婚約を結ばせた。
そんな彼女との、婚約解消。それは、彼女の真の同意が得られなければ無理だ。
彼女の意に沿わぬ事をしようとしたら、私の意思は剥奪されるだろう。
いや、分かっている。彼女なら、婚約解消に同意してくれると。分かってはいるが、自分が人形になる可能性があることに恐怖を覚えていた。
しかしそれも無事、杞憂に終わった。
私はあえて、彼女の眼をしっかり見ながら話をしたし、今の自分はマリアンヌと話し合う前の自分と何ら変わりなく思える。
まぁ、彼女に魔法をかけられていたところで、私は気づけないだろう。
彼女の表情は、彼女が意識的に変えようとしない限り変わらないし、あの漆黒の深い闇の様な瞳も、魔力を使ったところで変化しない。ただ、まだ自分がエマを好いている、その事実だけが自分が操られていないという根拠になっていた。
さて、マリアンヌから無事、婚約解消の許可を貰った。次にすることは、書類の手配だ。自分とマリアンヌの両親にも謝罪を入れねばなるまい。と同時に、かねてより進めていたもう一つの計画も実行に移そう。
放課後、ルーカスが図書館に居ることは知っている。マリアンヌのことも、図書館に誘えた。二人が偶然会っていたら面白い。
私は、ルーカスを思い浮かべる。そしてその姿は、遠き幼い日の記憶にまで遡る。五歳になる頃まで、一緒に王城で過ごした腹違いの弟は、艶やかな黒髪をしており、その耳には小さなピアスがはめられていた。青と紫の、小さなピアスが。
隣のクラスに生き別れになった弟がいたことには驚いたが、彼はどうやら私のことを覚えていないらしい。今の生活に不自由はなさそうだったため、そのままそっとしておこうと思っていたのだが、私はうっかりエマに恋をしてしまった。
そうなると、あの、マリアンヌ・バレンティを縛ることができなくなってしまう。だから、苦肉の策、というか、ほとんど保険みたいなつもりで二人を会わせたのだ。
いや、一応、二人とも本が好きという共通点があったから、話が合うのではとも思った。しかし、本音は王族としての保身と打算からとった行動だった。それがまさか……
『かわいい……』
とお互い言い合う二人を見て、私は笑いが堪えられなかった。
ルーカスの反応もそうだが、何よりマリアンヌだ。
彼女があんなに感情的になっているところを初めて見た。表情は相変わらず無かったが、私には分かる。彼女は完全に、恋に落ちていた。
これは、ベアステラ王室も安泰だな。
私は内心、安堵の息を吐いていた。
そして、城に帰ってすぐに婚約解消手続きをしようと、ガゼボを覆っていた結界を解いた。
次から第二章です。
2025,3,21 誤字を直しました。
2025,6,24 誤字を直しました。うっかりバレンティ家のお母さんが王家の人間になっちゃってました。