毒
8月が終わります。
夏の茹だるような暑さの中で、炭酸飲料を飲んだ後の清涼感とか。祭りとか花火とか、いいですよね。
今年の夏も終わりだなって思うと、そういう夏ならではの物事が遠くに行ってしまって寂しいです。
ある夏の終わりの、二人の思い出を投稿します。
プシュッ!
炭酸の音と、手を濡らす甘い水滴の冷たさに私は顔を顰める。
「ちょっと、飛んで来たんだけど」
左手で右腕を拭う。
肌についた僅かなベタ付きが不快だ。
「もう、離れたとこで開けなさいよ、ったく」
横にいる彼女を流し見しながら文句を垂れる。
けれど、彼女はそんな事お構いなしにペットボトルの飲み口に口を付け、ゴクゴクッ——と、気持ち良さそうに喉を鳴らす。思わず私も喉を鳴らすが、カラカラの喉を通るのは空気だけ。正直、なんでもいいから喉を潤したい。
「ぷはぁっ! やっぱ夏はコレよ!」
「おっさんクサ」
「なによー、アンタも飲めばいいじゃない。ほら」
「いや、私は別に」
「なに言ってんの? そんな物欲しそうな目で見といて」
「物欲しそうな目なんてしてな——」
「いいからほら、飲め!」
飲みかけの、残り半分程のペットボトル飲料を彼女に手渡される。
あ、冷たい。手のひらに広がった冷たさに癒される。
シュワァッという聴き慣れてはいない炭酸の弾ける音を耳にしながら、紫色の液体を見つめて思う。
「……身体に悪そう」
「これだからオーガニック系女子は」
「なにそれ。それを言ったらアンタは……人工甘味料系女子?」
「なにそれ、ウケるー」
無表情でウケると言った彼女の言葉からは、一切、面白そうな感情が感じられない。だからきっと、なにもウケてないんだろう。
ウケ狙いで言った訳じゃないから別にいいんだけど、少しだけ釈然としない。
「てか、温くなるから。はよ飲め」
「ああ、うん」
私は急かされながら、魔女が煮詰めて冷やした薬のような液体を口内に流し込む。
「あ〜……めっちゃ美味しい」
「ただのファンタだけど、ギンギラギンの炎天下に飲むと、格別だよねぇ」
さっきまで喧しいくらいに鳴り響いていた蝉の声が、心なしか小さくなったような気がした。
蝉の声以外に意識が割けないくらい、暑さに追い詰められていたのかもしれないと思うと、魔女の薬ですら、砂漠の中のオアシスにすら見えてくる……いや、そうでもないな。やっぱり身体に悪そうだし。
「ありがと」
「もういいの?」
「うん。身体に毒だし」
「そう言うと、毒をアタシに押し付けたと言うことになるんだけど」
「うん」
「うんて!」
今度はなにが面白かったのか、彼女はあははっと笑い始めた。愉快そうに笑う声が蝉の鳴き声をかき消す。
相変わらず、良い笑顔で笑う奴だ。
「毒ってねぇ、そんな悪影響がある訳じゃないんだし」
「ある。果糖ブドウ糖液糖とか」
「かと、ブドウ……? エキトウ? なにそれ?」
「バカには分からない呪文」
「このやろっ」
彼女は私に掴み掛かってくるが、力が弱いのでどうもすることも出来ず、最後には力尽きてベンチの背もたれに身を預ける。
「暑い、力尽きた……」
無駄に動くからそうなる。
私が彼女の持っていた紫のペットボトルをひったくり、そのまま首元にあてがうと、
「ひゃっ」
と、らしくない女の子らしいソプラノの悲鳴をあげるものだから、なんだか楽しくなって何度も同じ目に合わせてやることにした。
「ひっ、つめたっ、うっ、や、やめっ——やめろって言ってんでしょ⁉︎」
「いま言った」
「反応からして分かるでしょってこと!」
元から少し悪い目つきをいつも以上に鋭くさせた彼女は、威嚇した猫のようになって、吠える。
……吠えるというと犬に思えるから、鳴く? いや、かなぎり声をあげる、だろうか。まあ、喧しく騒ぎ立てるから、弄るのはこのくらいにしておこう。
彼女は本気で怒るよりも、煩い方が厄介なのだから。
「そういえばさ、今日ね」
「うん」
「隣のクラスの男子に告白されてさ」
「は?」
「付き合うことにしたの」
ボトッ——。
私は彼女が受け取ろうとしていたそれを、彼女が掴むよりも前に手放してしまい、地面に落下させる。
下はコンクリートでもアスファルトでもなく、なんの舗装もされていない公園の地面。
だから、冷えて水滴まみれになったペットボトルは砂だらけで、悲惨な状態になってしまった。
そんなペットボトルの状態をぼうっと見つめたまま、私は今の言葉が脳内で反芻するのを食い止めようとして……失敗する。
嫌な光景が溢れてくる。
「あぁ、もう、なんで落とすのよ」
「手が滑って」
「もー、あっちの水道で洗ってくるから」
「……いや、落としたの私だから、私が洗ってくる」
「そう? じゃあ頼んだっ」
砂だらけのそれを掴んで受け取ると、私はそのまま足早に彼女の元から離れる。
一度、落ち着こう。
「……ふぅ」
心情が顔に出てしまいそうで。
もしかしたらもう、顔に出ているかもしれなくて。
そんな顔は見せたくない。
今だけは彼女の側にいたくない。
水道でペットボトルを洗いながら、私はそんなことを考える。ペットボトルについた砂を落とすついでに、沸騰しそうなくらい熱い頭を冷やしたくて、額に濡れた手を当てる。
茹だるような暑さが鬱陶しい。
「ねぇ、大丈夫?」
どれだけそうしていたんだろう。
すぐ後ろから彼女の声がした。
「夏バテ? 熱中症じゃないよね?」
「大丈夫」
平静を装いながら、私は立ち上がる。
向かい合った彼女は私の顔を見て、ほんの少し——口角を上げたように見えた。
「ウソ」
そう呟くと、彼女は私が持つ綺麗になったペットボトルを奪い取り、プシュッ! と開けた。
「ほら、飲みなよ。水分補給」
「いいって、別に。熱中症とかじゃないし」
「いいから」
「だから——」
別にいいって——!
そして無意識に手を払った私の腕に、何かが当たる。冷たいそれは宙を舞って、その中身を撒き散らしながら、砂の地面を転がっていく。
せっかく洗ったのに。
そんなどうでもいい感想を胸に抱きながら、私は彼女に目を向ける。
……あぁ、やってしまった。
私は、しまった、と思った。
彼女が纏う私服の、白い真新しいシャツが毒々しい色に染まっている。
きっと、色が移って落ちないだろう。着色された白い布はもう戻らない。あぁ、そうだ。一度、別の色に染まってしまえば、二度と元の白さは戻りはしないのだ。毒に侵されたような彼女を見て、これからそうなってしまう未来を見てしまったような気分になる。
そのことがやましいことに思えて、私は彼女から目を逸らした。
「もう……じゃあ、なんでそんな顔するの?」
私はなにも答えない。
「辛いって顔してる」
「……別に」
「ほら、またウソ」
見透かされてるのがウザったくて、嬉しくて、辛い。
私はついには視線を完全に地面に落として俯く。
甘い毒の液体が染み込んだ砂の周りに、黒い体の小さな蟻たちだ群がっていた。
「本当のことを言って」
言える訳がない。
この気持ちは伝えない。伝えたくないものなんだから。
「……ねぇ、さっきジュースのこと、毒って言ったでしょ?」
「それが、なに」
自分でもみっともないくらい、ぶっきらぼうな返答をしてしまう。いじけた子供みたいな自分に嫌気が差す。
「そうすると、私は毒に侵されてるから、私の中の血も肉も、全部毒が入ってるってことじゃん?」
彼女は私の横を通り過ぎ、水飲み用の水栓を勢いよく開けて、噴水のように水を噴出させた。
上空に昇った水が、数秒後に音を立てて地面に落ちてくる。
私もその水に打たれながら、チョロロと、勢いのなくなった水栓に、口をつける彼女に目をやる。
「……なにが言いたいの」
相変わらず拗ねたような声しか出せない私に、彼女はモゴモゴとした声で、
「んーんんん、んんんん——」
「なに言ってるか全く分かんない」
「んんん〜」
膨らんだ頬のまま、彼女は口角を上げて、私の両頬に手を添えたかと思うと——
「——んっ」
——なにをされたのか、理解できなかった。
ただ、硬直してしまった全身と、停止した思考を取り戻せる頃には、私は彼女の口内から流し込まれた水を、嚥下してしまっていた。
雛鳥が親鳥に餌付けされるように、私の中に流し込まれた水の後に——レロッと。口内を彼女の舌によって蹂躙されていく。
「ひょ、ひょっろ、まっれ——!」
「——らーめ」
悪戯な小悪魔の笑みが、眼前にある。
歪んだ表情に気圧されながら、私は彼女との間に差し込んだ腕にググッと力を入れ、抵抗して押し返そうとするが、力が入らない。力を入れることができない。
あぁ、もうすでに、私は……彼女の毒に侵されてしまっているのだ。どうしようもないほど甘美で魅惑的な毒に。
彼女が水を口に含む前に言っていたことの意味をやっと理解する。
そして、その答えも同時に。
「はぁ——どう? 私の毒。ちゃんと効果あったかな?」
私は口の周りの、どっちのものかも分からない唾液を手で拭う。
ああ……もう、最悪。最悪の気分だと言わざるを得ない。
「なんで?」
「なんでって?」
「もう、貴女は、他の人のモノなのに」
すでに手に入らないのに、知ってしまうなんて、最悪だ。
私はきっと、蠱惑的な、永遠にも感じたあの数秒を、もう味わうことができないのに。
彼女はなんて、残酷なんだろう。
「本当はさ、私のモノにしたかったんだよ。私の毒で、侵して……本当に、犯したいくらいさ」
言われたことの意味はすぐに分かった。
それと同時に胸の奥からお腹にかけて、電流が流れたみたいに鋭い、強烈な痺れが駆け巡る。この溢れ出しそうになる衝動によって動いた両腕で、彼女を掴んで抱きしめてしまいそうになるのを……私は、歯を食いしばって止めるのだ。
なけなしの、ほんの僅かに残った理性が、自分の行動が倫理的によくないことだからと、私を止める。
「……駄目。彼氏、できたんでしょ。だったらそんなの、駄目なことだし、そんな貴女なら要らない」
「……そっか」
たとえ、他の人のモノになってしまっても、それだけは駄目だ。
裏切ることを良しとする貴女なんて、私は嫌だ。そんなことを覚えてしまうのなら、私が覚えさせてしまうのなら、私は貴女を拒絶する。
それに、貴女にはなりたいものがあるんだから。貴女の気持ちの為に、私が隣に居ては駄目なんだ。
「……普通って、難しいね」
彼女の言葉に、私は少し遅れて頷く。
普通の感性だったら、貴女も私を想わなくて済んだし、私も、なにも思わなかったのにね。
「アンタも、早く彼氏作りなよ」
「それはいいよ。私は別に、普通になりたい訳じゃないし」
「そっか」
それだけ言うと、彼女は地面に転がったままのペットボトルを拾って、ゴミ箱に入れる。
砂まみれになった手を水道で洗うと、滴る水でビチャビチャな手で、私の頬を包む。
「じゃあ、最初で最後」
一瞬だけ唇を合わせた。
それだけで、私はさっきまで抱いていた劣情も、やるせない気持ちも、何もかもを吸い上げられてしまう。そしてその代わりに、胸の中には大きな嫉妬の黒い塊が、渦巻いて去来する。
今にも溢れ出しそうな気持ちに戸惑いながら思う。こんな気持ちは知りたくなかったな、と。
「じゃあ、帰るね」
「うん」
背中を向けて去っていく彼女を見据えて、私は濡れた頬に伝う雫を舐めとる。蛇のように、その背を見つめて。狼のように、舌を舐めずる。私は……どうしてしまったんだろう。
止められない嫉妬が、私を塗り替えていく。
どうしようもなく黒い、未知の感情が、私を壊していく。
さらには彼女から貰った毒が、その巨大な感情と合わさって——強力なナニカに変わっていく。
そして、腹の底から煮えたぎる、黒い感情が私に言うのだ。
————侵してしまえと。
「え?」
彼女の戸惑うような声がした時には、もう、私は彼女の腕を掴んでいた。
気づくと私の中に少しだけ残っていた理性は完全に消え去り、私を止めるものはなくなってしまった。
こうなればただ本能のままに、獣のように荒れ狂う激情を表に出すしかない。
無様にみっともなく、手に入らないモノを前に、親に欲しいと強請る子供のそれみたいに。
私は華奢な体を力の限り抱きしめて————その口に、二度と消えない毒を流し込んだ。
普通になりたくないけど、欲しいものは普通にならないと手に入らない。
だから、手を伸ばして触れた掛け替えのないものさえ、彼女は捨てるしかなかった。
夏の終わりのような寂しさ、感じて貰えたら嬉しいです。