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Nobody's Home

作者: 田中浩一

*この投稿はフィクションです。


「Nobody's Home」


森孝信は、爆音マフラーを、静かに、静かにさせながら、スズキGSXを、4階建ての集合団地の、2階の我が家の前の上がり口に、停めた。

2段飛ばしで、階段を駆け上がり、家の鍵のついたキーホルダーのワイヤーを、シューと音をたてながら、伸ばす。

上がると、タンスの上段の3つ並んだ、左端の引き出しの中を、ゴソゴソやる。

玄関を出るとき、六女の小学2年生の妹の美樹とすれ違った。

「タカ兄ちゃん、おかえり、行ってらっしゃい」妹の言葉に、二本指をたてて、敬礼しながら、

「オンっ」と、投げるように、前につきだした。

下りは三段飛ばしで、駆け降りた。

「おらよっ」と、2速に入れて、ゆるゆる押して、走り出したら、クラッチを放して、跳んで、股がって、アクセルを開く。バックファイヤーを鳴らしながら、スズキGSXは、逃げるように、走り去った。

夕方、森家の住人が、次々と帰って来た。

小学4年生の好子、続いて、同6年生の蘭。中学2年生のみづえ。高校3年生の淳子が、帰って来た。

少しおいて、母の雅子と、同じスーパーで働いている、長女の百恵も帰宅した。

父の、慎一は9時にしか、戻らない。営業は、どこも大変だ。


「あっ、ない。タカ兄ちゃん、帰ってきたでしょ?」母の雅子が、開きっぱなしの引き出しを不審に思い、覗いたあと、みんなを振り返りながら、ぼやいた。

「うん、夕方、帰ってきてたよ、オンっ」美樹は、孝信の真似をして、敬礼を投げた。

「また、やられたの?」百恵が、舌打ちをしながら、雅子に駆け寄る。

「一万ないわ」やられたぁと、言う雅子に、

「家の鍵って変えられないの?」と、淳子が、聞く。

「公団って変えていいのかな?」百恵が、雅子を見るけど、雅子は、外国人がよくやる、手のひらを上に向けるポーズで、

「さあね、とにかく、夕飯の準備。できるまでに、宿題済ませてぇっ」と、号令を掛ける。百恵と淳子以外が、

「オンっ」と、敬礼をした。

「バカの真似はいいからさ~」雅子は、苦笑した。

学校に通っていれば、孝信は、高校1年生のはずだけれど、頭と素行が悪かったので、今は、親戚の伯父さんの、電気工事職人見習いをしている。


仕事が終わって、職場から少し離れた駐車場の、自分のバイクに向かっていたとき、森孝信は、目の前をいく、青いランドセルを背負った女の子を見つけた。

離合できない狭い道路幅の先の、交差点に差し掛かるところだった。

その時、孝信の後ろから、4トンユニックトラックが走ってきて、傍らを、走り抜けていった。

信号のない、背の高い、加治木石と言われる、石垣の塀の家々の並ぶ、交差点を、左折のウインカーを出して、減速する。

ランドセルの女の子は、交差点の、こちら側の、左の角にいた。後ろから、大きな音をたてながら、走ってくる、ユニックトラックに、振り向きざま驚いて、ちょうど角に、止まってしまった。

減速する、トラックのミラーに映るドライバーが、携帯をしてるのを、孝信は見つけた。

「おぉいっ、もっと向こうにいけ!」孝信は、大声で女の子に叫びながら、一気にダッシュした。

「おぉいっ、止まれっ、人がいるぞ」叫びは、ガタガタ轟音をさせる、トラックの運転手には、届かなかった。

轟音と、大きな黒いタイヤが迫ってくる。女の子は、ただ、両手を胸の前で、握りしめるしかなかった。

孝信は、たくみに、トラックと、塀の角をすり抜け、女の子に手を掛けると、力任せに、向こうに、押しやった。

「よしっ」そこまで行けば、大丈夫だと思った、孝信の一瞬の安堵した心の隙を、大きな黒い悪魔が、襲った。


それだけだった。呆気なく、孝信は、この世から、いなくなった。

自分の、お通夜に、訪れる、人達を見ていた。親戚の人たちや、中学校の時の担任、その頃の悪友も、数人来てくれた。

死んだ人は、こうして、みてんだな。孝信は、なんだか、死んでることが、不思議で、すぐにも、悪友たちが、

「おいおい、なに悪ふざけしてんだよ」って、駆けよってきて、身体のあちこちを小突いてくるんじゃないかと、待っていたけれど、ずっと、泣いているばかりだった。


一通り、終わった。それぞれの、思い出を語りあい、お悔やみをのべて、寿司を食べて、帰り際は、悲しいんだか、腹一杯なんだか、わからない顔で、帰る人もいた。


家族が残った。暖房が効いてるはずの葬儀場が、急に寒々としてきた。

一晩、明かせる畳の部屋に、みんなが集まっていた。

みづえが、さっきから挙動不審だった。ほとんどが学校の制服に、寒くないように、上着を引っ掻けていた。

「あ、あのさ、言っていいかな?」みづえが、思いきったように、喋り出した。

みんなは、一斉に、みづえを見た。

「そ、そこに、タカ兄ちゃん・・・が、います」円をかいて座っていた、美樹と好子の間を、指差した。

「だよね。確かに、いるよね」そういったのは、長女の百恵だった。

みづえは、私と同じ、見える人がいるんだ、助かりましたと言わんばかりに、百恵を見やった。

「マジっ、二人は、見えるの?」淳子が、すっとんきょうな声を上げた。

「イタコ、霊媒師だっけ?」父の慎一が、嘘だろうって顔で、二人を交互に見やりながら、冗談めかして、小さな声で、言う。

誰も、笑わなかったけれど。

「さっき、胸の大きな人の、オッパイ、覗こうとしてたよね?」みづえが、百恵に同意を求める。

「ウンウン、お経を詠んでるお坊さんの、頭を撫でてたわ」

そこを、バラすかな~。孝信は、頭をかいた。

「あと、」

「みづえ、もういいよ。勘弁してくれ」

「ウワッ、声まで聞こえた」百恵とみづえが、おもいっきり、のけ反った。

そんな状況でも、そこはやはり、家族だった。いるんなら、明日、燃やされる前に、いろいろ、話そうじゃないかとなった。

「なんでもいいから、言って。あんた、幸せだったかい?」雅子が、そこにいるんだろう方向に向かって、語りかけた。

百恵とみづえが、頷いている。孝信の、話を聞いているみたいだ。

「あのね」百恵が、イタコよろしく、代弁する。

「小学校の運動会の時、お弁当の唐揚げをひとつも食べれなかった。それが、2年続いた。って」

「そりゃひどいよ」小学生組の3人が、口を揃えて、言った。

「そうだったっけ?」淳子が、顎に手をやりながら、首を傾げる。

「あと、初詣の時は、いつも、留守番だったって」

「えっ、それってあたしもだよ」蘭が、手を挙げながら、見えないタカ兄ちゃんを、見る。

「ほんとは、行きたかったって」

「そんとき、なんで言わないの?」母の雅子が、百恵に向かって、叱った。

「あっ、いや、あたしに言われてもさ~」

百恵が、少し長く、話を聞いてるようだった。やがて、おもむろに、話し出した。

「うちは、兄妹っていうか、ほとんど、女ばっかで、お父さんは、帰りが遅くて、朝は、僕が出ていくまで寝てるし、話すこともなかったよね」

慎一は、思わず、目頭を押さえた。

「すまない、一生懸命働くことが、お前たちのためになると思ってたんだ」絞り出すような、声だった。

百恵が、続けた。

「そうじゃないんだ。それはわかってンだよ。思わず、つまんないこと、愚痴っちゃったけど、そこそこ、幸せに生きてきたんだ。

そりゃ、僕にだって、思春期があって、うちに帰ったって、こんだけたくさんの家族の顔が、まるで、影絵のようにしか見えない時期があった。大家族なのに、家には、たった一人、僕しかいないような、気持ちで、いたときもあった。

でもね、社会に出て、働くようになって、僕なりに気づいたんだ。

お父さんもお母さんも、僕らのために一生懸命なんだ、百恵姉ちゃんも、働きだして、給料貰っても、ほとんど、家に入れてること知ってる。美樹が、食べたいお菓子を我慢してるのも、好子が、ノートをできるだけもたせるために、小さな字で、書いてることも。蘭が、友達と行った夏祭りに、屋台でなにも買わずに、我慢してたことも、淳子が、好きな男子に、コクられてんのに、家の手伝いがあって、まともなデートもできないことも」

そこまで、話して百恵は、お茶を飲んだ。

「うちに帰れば、温もりが、ある。くじけそうな時も、家族のみんなが、背中を押してくれた。

ツッパってるときも、どんなに遅く帰っても、ご飯を用意してくれてた。

お父さんの浮気疑惑が持ち上がって、家族がバラバラになりそうなときでも、僕にはなにもできなかったけど、ひとつ屋根の下にいたから、誰も逃げずに、向き合って、布団を並べて寝てたから、なんとかなったんだよね。

お父さん、お母さん、今まで、迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。

なんとか、働いて貯めたお金で、二人の結婚記念日のプレゼント、買ったよ。ちょい、お金が足らなくて、拝借したけど。

僕の机の中に、入ってるよ、プレゼント。

今まで、ありがとう。

みんなも、ありがとう。

さよなら」

百恵が、しゃくりあげるように、泣き出した。泣き声のこだまする、円陣のなかで、孝信は、静かに、目を閉じていた。


「また、きてんの?」淳子が、こそっと、先に帰っていた、みづえに、聞いた。

「うん。もう、十日連続だね」

孝信が、亡くなって一年。たびたび、帰って来ては、一般的には、化けて出ては、いろいろ、アドバイスをしてくれていた。

「本人は善かれと思ってンだよね。でも、お風呂とか、覗かれてんじゃない?」そう言ったのは、蘭だった。

「行くとこないし、みんながピンチの時には、助けるから、イイでしょ、いても。飯も食わないし、屁もこかないし。みづえの入試の時は、教えてやるよ」

「中卒のアドバイスは、結構です」みづえは、きっぱり断った。

「さあ、お父さんも、今日は早く帰ってくるから、準備して」雅子が、両手を広げて、やれやれと急かす。

慎一が帰って来た。

全員で、食卓を囲むのは、何年ぶりだろう。誰もがそう思っていた。

慎一と、雅子の小指には、孝信から贈られたシルバーの、「プロミスリング」が輝いていた。


形がなくなったって、そこには、あなたの大好きな、人がいますよ。だから、悲しまないで。みんなが、あなたの笑顔を待ってます。おかえりなさいって、言える日を、待ってますよ。


おわり

森孝信は、爆音マフラーを、静かに、静かにさせながら、スズキGSXを、4階建ての集合団地の、2階の我が家の前の上がり口に、停めた。

2段飛ばしで、階段を駆け上がり、家の鍵のついたキーホルダーのワイヤーを、シューと音をたてながら、伸ばす。

上がると、タンスの上段の3つ並んだ、左端の引き出しの中を、ゴソゴソやる。

玄関を出るとき、六女の小学2年生の妹の美樹とすれ違った。

「タカ兄ちゃん、おかえり、行ってらっしゃい」妹の言葉に、二本指をたてて、敬礼しながら、

「オンっ」と、投げるように、前につきだした。

下りは三段飛ばしで、駆け降りた。

「おらよっ」と、2速に入れて、ゆるゆる押して、走り出したら、クラッチを放して、跳んで、股がって、アクセルを開く。バックファイヤーを鳴らしながら、スズキGSXは、逃げるように、走り去った。

夕方、森家の住人が、次々と帰って来た。

小学4年生の好子、続いて、同6年生の蘭。中学2年生のみづえ。高校3年生の淳子が、帰って来た。

少しおいて、母の雅子と、同じスーパーで働いている、長女の百恵も帰宅した。

父の、慎一は9時にしか、戻らない。営業は、どこも大変だ。


「あっ、ない。タカ兄ちゃん、帰ってきたでしょ?」母の雅子が、開きっぱなしの引き出しを不審に思い、覗いたあと、みんなを振り返りながら、ぼやいた。

「うん、夕方、帰ってきてたよ、オンっ」美樹は、孝信の真似をして、敬礼を投げた。

「また、やられたの?」百恵が、舌打ちをしながら、雅子に駆け寄る。

「一万ないわ」やられたぁと、言う雅子に、

「家の鍵って変えられないの?」と、淳子が、聞く。

「公団って変えていいのかな?」百恵が、雅子を見るけど、雅子は、外国人がよくやる、手のひらを上に向けるポーズで、

「さあね、とにかく、夕飯の準備。できるまでに、宿題済ませてぇっ」と、号令を掛ける。百恵と淳子以外が、

「オンっ」と、敬礼をした。

「バカの真似はいいからさ~」雅子は、苦笑した。

学校に通っていれば、孝信は、高校1年生のはずだけれど、頭と素行が悪かったので、今は、親戚の伯父さんの、電気工事職人見習いをしている。


仕事が終わって、職場から少し離れた駐車場の、自分のバイクに向かっていたとき、森孝信は、目の前をいく、青いランドセルを背負った女の子を見つけた。

離合できない狭い道路幅の先の、交差点に差し掛かるところだった。

その時、孝信の後ろから、4トンユニックトラックが走ってきて、傍らを、走り抜けていった。

信号のない、背の高い、加治木石と言われる、石垣の塀の家々の並ぶ、交差点を、左折のウインカーを出して、減速する。

ランドセルの女の子は、交差点の、こちら側の、左の角にいた。後ろから、大きな音をたてながら、走ってくる、ユニックトラックに、振り向きざま驚いて、ちょうど角に、止まってしまった。

減速する、トラックのミラーに映るドライバーが、携帯をしてるのを、孝信は見つけた。

「おぉいっ、もっと向こうにいけ!」孝信は、大声で女の子に叫びながら、一気にダッシュした。

「おぉいっ、止まれっ、人がいるぞ」叫びは、ガタガタ轟音をさせる、トラックの運転手には、届かなかった。

轟音と、大きな黒いタイヤが迫ってくる。女の子は、ただ、両手を胸の前で、握りしめるしかなかった。

孝信は、たくみに、トラックと、塀の角をすり抜け、女の子に手を掛けると、力任せに、向こうに、押しやった。

「よしっ」そこまで行けば、大丈夫だと思った、孝信の一瞬の安堵した心の隙を、大きな黒い悪魔が、襲った。


それだけだった。呆気なく、孝信は、この世から、いなくなった。

自分の、お通夜に、訪れる、人達を見ていた。親戚の人たちや、中学校の時の担任、その頃の悪友も、数人来てくれた。

死んだ人は、こうして、みてんだな。孝信は、なんだか、死んでることが、不思議で、すぐにも、悪友たちが、

「おいおい、なに悪ふざけしてんだよ」って、駆けよってきて、身体のあちこちを小突いてくるんじゃないかと、待っていたけれど、ずっと、泣いているばかりだった。


一通り、終わった。それぞれの、思い出を語りあい、お悔やみをのべて、寿司を食べて、帰り際は、悲しいんだか、腹一杯なんだか、わからない顔で、帰る人もいた。


家族が残った。暖房が効いてるはずの葬儀場が、急に寒々としてきた。

一晩、明かせる畳の部屋に、みんなが集まっていた。

みづえが、さっきから挙動不審だった。ほとんどが学校の制服に、寒くないように、上着を引っ掻けていた。

「あ、あのさ、言っていいかな?」みづえが、思いきったように、喋り出した。

みんなは、一斉に、みづえを見た。

「そ、そこに、タカ兄ちゃん・・・が、います」円をかいて座っていた、美樹と好子の間を、指差した。

「だよね。確かに、いるよね」そういったのは、長女の百恵だった。

みづえは、私と同じ、見える人がいるんだ、助かりましたと言わんばかりに、百恵を見やった。

「マジっ、二人は、見えるの?」淳子が、すっとんきょうな声を上げた。

「イタコ、霊媒師だっけ?」父の慎一が、嘘だろうって顔で、二人を交互に見やりながら、冗談めかして、小さな声で、言う。

誰も、笑わなかったけれど。

「さっき、胸の大きな人の、オッパイ、覗こうとしてたよね?」みづえが、百恵に同意を求める。

「ウンウン、お経を詠んでるお坊さんの、頭を撫でてたわ」

そこを、バラすかな~。孝信は、頭をかいた。

「あと、」

「みづえ、もういいよ。勘弁してくれ」

「ウワッ、声まで聞こえた」百恵とみづえが、おもいっきり、のけ反った。

そんな状況でも、そこはやはり、家族だった。いるんなら、明日、燃やされる前に、いろいろ、話そうじゃないかとなった。

「なんでもいいから、言って。あんた、幸せだったかい?」雅子が、そこにいるんだろう方向に向かって、語りかけた。

百恵とみづえが、頷いている。孝信の、話を聞いているみたいだ。

「あのね」百恵が、イタコよろしく、代弁する。

「小学校の運動会の時、お弁当の唐揚げをひとつも食べれなかった。それが、2年続いた。って」

「そりゃひどいよ」小学生組の3人が、口を揃えて、言った。

「そうだったっけ?」淳子が、顎に手をやりながら、首を傾げる。

「あと、初詣の時は、いつも、留守番だったって」

「えっ、それってあたしもだよ」蘭が、手を挙げながら、見えないタカ兄ちゃんを、見る。

「ほんとは、行きたかったって」

「そんとき、なんで言わないの?」母の雅子が、百恵に向かって、叱った。

「あっ、いや、あたしに言われてもさ~」

百恵が、少し長く、話を聞いてるようだった。やがて、おもむろに、話し出した。

「うちは、兄妹っていうか、ほとんど、女ばっかで、お父さんは、帰りが遅くて、朝は、僕が出ていくまで寝てるし、話すこともなかったよね」

慎一は、思わず、目頭を押さえた。

「すまない、一生懸命働くことが、お前たちのためになると思ってたんだ」絞り出すような、声だった。

百恵が、続けた。

「そうじゃないんだ。それはわかってンだよ。思わず、つまんないこと、愚痴っちゃったけど、そこそこ、幸せに生きてきたんだ。

そりゃ、僕にだって、思春期があって、うちに帰ったって、こんだけたくさんの家族の顔が、まるで、影絵のようにしか見えない時期があった。大家族なのに、家には、たった一人、僕しかいないような、気持ちで、いたときもあった。

でもね、社会に出て、働くようになって、僕なりに気づいたんだ。

お父さんもお母さんも、僕らのために一生懸命なんだ、百恵姉ちゃんも、働きだして、給料貰っても、ほとんど、家に入れてること知ってる。美樹が、食べたいお菓子を我慢してるのも、好子が、ノートをできるだけもたせるために、小さな字で、書いてることも。蘭が、友達と行った夏祭りに、屋台でなにも買わずに、我慢してたことも、淳子が、好きな男子に、コクられてんのに、家の手伝いがあって、まともなデートもできないことも」

そこまで、話して百恵は、お茶を飲んだ。

「うちに帰れば、温もりが、ある。くじけそうな時も、家族のみんなが、背中を押してくれた。

ツッパってるときも、どんなに遅く帰っても、ご飯を用意してくれてた。

お父さんの浮気疑惑が持ち上がって、家族がバラバラになりそうなときでも、僕にはなにもできなかったけど、ひとつ屋根の下にいたから、誰も逃げずに、向き合って、布団を並べて寝てたから、なんとかなったんだよね。

お父さん、お母さん、今まで、迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。

なんとか、働いて貯めたお金で、二人の結婚記念日のプレゼント、買ったよ。ちょい、お金が足らなくて、拝借したけど。

僕の机の中に、入ってるよ、プレゼント。

今まで、ありがとう。

みんなも、ありがとう。

さよなら」

百恵が、しゃくりあげるように、泣き出した。泣き声のこだまする、円陣のなかで、孝信は、静かに、目を閉じていた。


「また、きてんの?」淳子が、こそっと、先に帰っていた、みづえに、聞いた。

「うん。もう、十日連続だね」

孝信が、亡くなって一年。たびたび、帰って来ては、一般的には、化けて出ては、いろいろ、アドバイスをしてくれていた。

「本人は善かれと思ってンだよね。でも、お風呂とか、覗かれてんじゃない?」そう言ったのは、蘭だった。

「行くとこないし、みんながピンチの時には、助けるから、イイでしょ、いても。飯も食わないし、屁もこかないし。みづえの入試の時は、教えてやるよ」

「中卒のアドバイスは、結構です」みづえは、きっぱり断った。

「さあ、お父さんも、今日は早く帰ってくるから、準備して」雅子が、両手を広げて、やれやれと急かす。

慎一が帰って来た。

全員で、食卓を囲むのは、何年ぶりだろう。誰もがそう思っていた。

慎一と、雅子の小指には、孝信から贈られたシルバーの、「プロミスリング」が輝いていた。


形がなくなったって、そこには、あなたの大好きな、人がいますよ。だから、悲しまないで。みんなが、あなたの笑顔を待ってます。おかえりなさいって、言える日を、待ってますよ。


おわり

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