思ひ
夏休みも終わり、新学期が始まろうとしていた。まだ夏の暑さは残っており、汗の滴る日々だ。
その後も桜子とはよく会っていたが、光子の影は無かった。だがいつ何時見ているか分からない為、気を抜ける日は一度もなく、妙に疲れが溜まってしまっていた。桜子に至っては、護身用にと、小刀を身に潜めていたのだ。あのホテルの事件があったのだから、分からなくもない。
桜子との甘い夏を終え、受験に向けての日々が待っている。普通はそう思うだろう。だが私と桜子は違った。甘い夏は、まだまだ続く。それ程までに、私達の恋は燃え上がっていたのだ。
平和と言うものは、簡単には来てはくれない。登校日早々、私は光子に早速声を掛けられたのだ。しかも、学校の門の前で、待ち伏せをされていた。逃げおおす事など出来まい。
「受験勉強は、一緒にしましょうね。あ・な・た。」
再び気持ち悪い呼び方をされ、悪寒が走る。あれだけはっきりと嫌いだと言い、桜子との初夜を見せ付けてやったにも関わらず、全くめげていない。それ所か、光子の猛アタックは、更に加速していた。
教室では授業中以外、ずっと私の後を付いて回る。昼休み、桜子と清次郎の三人で、弁当を食べていると、自らが作って来た弁当を差し出し、無理矢理食べさせようとする。そんな日々が毎日続いた。
流石の桜子と清次郎も飽き飽きとしてしまい、言う言葉も無い。私は必至に、抵抗するのみだ。
「おい、凛太郎は桜子さんとお付き合いをしているんだ。いい加減しつこくするのは止めろ。」
何度も清次郎が光子に注意をするも、一向に言う事を聞こうとはしなかった。しまいには、「早く子供を作りましょう。」などと言い始め、ついに歯止めが利かなくなってきたのだ。
「子供」と言う言葉に、私はハッと思い出した。確か重左エ門が言っていた。『今命がある事に、子が出来た時感謝するだろう』と言う言葉。きっと光子は、その『子』が、私との間の子だと思い込んでいるのだろう。益々状況が悪くなって来たものだ。
このままでは、私の人生は光子により、滅茶苦茶にされてしまう。事は重大だ。
私は、桜子と二人、清次郎の自宅を訪ね、三人で作戦会議を開く事にした。光子の存在を、どう始末するか、が議題だ。
一口に、諦めさせるというのは、難題な事。あれ程までに熱烈では、桜子の存在のお構いなしの上、他人の聞く耳も持たない。三人で頭を抱え、悩み続けていた。
「おい、その重左エ門と言う人は、子供も切るのか?」
私達の今までの経緯を聞いた清次郎は、突然物騒な事を言い出した。桜子と私は、互いに顔を見合わせた。
「確かに…又何かあれば頼れと言う様な事は言われたが、切るかどうかまでは…。」
「それは、光子さんを殺してしまうと言う事かい?」
「そうでもしなければ、あれはどうにもならん。この際だ、死んで貰った方が平和だろう。」
「確かに、解決方法と言えば、それしか思い当たらない気がする。時間が経てば何とやらと言うが、あれは百年経っても今のままだろう。」
私は清次郎の提案に乗ったが、桜子はどうもまだ乗る気ではなさそうだった。
「でも、まだ子供じゃないか。私達と同じ。」
桜子の言う事も、最もだ。光子も、私達と同じ、まだ子供だ。死ぬには、余りにも早過ぎる。だからと言い、これと言って他に良い案も無いのは事実だ。
「一度重左エ門に聞いてみよう。切らぬと言うなら、他の方法を探せばいい。」
清次郎の案に、渋々桜子も乗る事にした。桜子は優しい女だ。心苦しのは、よく分かる。だが、被害者である当人からしたら、どんな方法を使ってでも、光子から解放されたい。
「もうすぐ暗くなる。今日にでも、その重左エ門とやらに訪ねてみよう。」
行動力の早い清次郎だったが、夏休みの海で、光子を連れてきてしまった責任も感じてだろう。
「そうしよう。」
私は頷くと、そっと窓から外を見渡した。するとやはり、玄関先には光子の姿がある。参ったものだ。ここでも待ち伏せだ。
「どうする?だが光子がいるぞ。」
「光子は俺が引き付ける。その隙に、二人は裏口から出ればいい。」
私と桜子は、物音を立てぬ様、そっと静かに一階に下りた。清十郎は、わざと足音を大きく立て、一階へと行き、そのまま玄関へと向かう。
玄関へと行った清十郎は、光子の腕を掴み、怒鳴りつけた。
「こんな所で何をやっているんだ‼」
「あなたには関係無いでしょう。」
抵抗する光子だったが、清次郎も引かない。
二人が言い合いをしている隙に、私と桜子はこっそりと裏口から家を出て、下駄の音が鳴らぬ様、素足で駆けて行った。しかし、不幸にもその姿を光子に見られてしまい、光子は清十郎を突き飛ばす。
「あなた‼」
後ろから、光子の叫ぶ声が聞こえる。だが私達は足を止める事なく、一直線に泪橋へと向かった。
息を切らせながら、必死に走る。泪橋までは、四十分程掛かるが、ずっと走り続けていたせいか、に十分で着いた。
早速桜子と初夜を迎えたホテルに向かうと、入り口に重左エ門の姿が見えた。私達の足は、更に加速する。それと同時に、光子の声も大きくなった。あの巨体で、ずっと走り続け、追って来たのだ。
「あなたー‼」
物凄い大声で叫ぶ光子に、思わず振り返った。するとその姿に、度肝を抜かれてしまう。何てことだ、着物を全部脱ぎ、裸で追いかけているではないか。肉と言う肉が、大きく揺れている。正に悪夢だ。
私は必死に重左エ門の元に駆け寄り、真っ青な顔で叫んだ。
「頼みがある‼あの化け物を殺してくれ‼」
重左エ門は、突然の私の言葉に驚いた様子だったが、後から追って来る肉の塊を見て、更に驚く。
「君はいつぞやの少年。何と‼あの巨体は、天井に居た女か‼」
「頼む‼このままでは、私の人生は滅茶苦茶にされてしまう‼」
必死に私が頼み込むと、重左エ門は少し考えるも「仕方あるまい。」と、鞘から刀を抜いた。
「女よ、引くがよい。一度助けたその命、無駄にするな‼」
刀を構え、重左エ門が叫ぶも、光子の突進は止まらない。それ所か、益々加速する。もう誰にも止められない。全員がそう思った。
光子が重左エ門の目の前まで来ると、「えいっ‼」と言う掛け声と共に、そのまま刀を振り下ろした。刀は光子の頭から下へと切り裂かれ、光子は真っ二つになってしまう。大量の血しぶきと共に、臓器が地面へと流れ落ちる。光子は重左エ門に、切り殺された。
桜子の悲鳴が響く。私は悲惨なその光景に、顔を引き攣らせるも、どこか安堵してしまう。これでやっと、光子から逃れられたと。だがそれは、甘かった。光子の想いは、とても重かったのだ。
地面に血と臓器をまき散らし、倒れる光子の二つの体の間から、煙の様な物が出て来たのだ。それは段々と、光子の姿に変わり、空を漂う。光子の幽霊だ。死して尚、成仏等せずに、私に付き纏おうと言うのだ。
「己、化けて出たか‼」
重左エ門は、懐に入れていた塩を、光子の幽霊に向かってばら撒いた。だが、光子の幽霊はビクともしない。
光子の幽霊は、ケラケラと不気味な笑い声を上げると、桜子に一直線に向かった。桜子の悲鳴と共に、光子は桜子の体の中へと入っていく。
「桜子さん‼」
私が桜子の元に駆け付けると、桜子はぐったりとしていた。何度も体を揺さぶると、突然パチリと目を開け、私にしがみ付いてくる。
「大丈夫か?桜子さん。」
桜子は無言で頷くと、ケラケラと不気味な笑い声を上げた。この笑い声は、光子だ。光子が桜子さんに、乗り移ったのだ。
「己、光子か‼」
私は桜子の体を、自分から遠ざけようとした。だが物凄い力で、しがみ付いてくる。
「あ・な・たぁ~。」
桜子の口から、不気味な言葉が出た。私は悪寒が走った。顔はにやけ、口元からは涎が垂れている。私は思わず、桜子の頬を叩いた。すると桜子は、私の左耳に噛みつき、思い切り、力を入れて、耳を引き千切る。
「うわあああああ‼」
私の叫びと共に、左耳からは、大量の血が流れだす。余りの痛さに、涙もボロボロと流れてくる。
「こいつめ‼耳を食い千切ったな‼」
私は桜子を、突き飛ばした。すると途端に、桜子は苦しみ始める。唸りを上げながら苦しむと、悶えた声を出しながら、桜子の体から、光子の幽霊は抜け出していった。
突然桜子は光子から解放され、唖然としていると、重左エ門がせかしてくる。
「今のうちに、二人ともホテルの中へ‼ホテルには、結界がある。」
私は左耳を押さえながらも、ふらふらの桜子を抱え、ホテルの中へと入っていった。すると、重左エ門の言う通り、光子の幽霊はホテルの中には入る事が出来ないらしく、周りをうろうろとしている。
「早く手当をしよう。」
重左エ門は、支配人を呼び、私の耳の手当をしてくれた。桜子の方は、もう何とも無い様子だ。
「何故…急に光子の霊は…。」
痛みと耐えながら聞くと、支配人が答えた。
「きっと血の魔除けのお陰でしょう。そちらのお嬢さんは、血を口に含んでいたので。」
そう言えば、ホテルに入る前に、血を飲むように言われ、桜子は躊躇なく飲んでいた。あれは本当に、魔除けに効くのか。
「これから…どうすれば…。」
私は呟いた。本当に、これからどうすればいいのだろうか。生身の光子だけでなく、今度は幽霊となった光子に付き纏われるはめになってしまった。
「支配人、払い屋に連絡を。」
重左エ門に言われ、支配人は無言で頷き、どこかへと電話をかけ始めた。
「払い屋?」
不思議そうに私が訪ねると、重左エ門は説明をしてくれた。
「このホテルは、元々寺の者が密会をする為に作られている。その為、ここから寺へと行く隠し通路があるのだ。そこへ行き、払い屋が居るから、あの霊をお祓いして貰おう。お祓いには準備がある。寺に着く頃には、終わっているだろう。すぐさまお祓いが出来る。安心しろ少年。私達は、元々寺に使える者だ。」
何とも心強い言葉だった。あの恐怖の光子の幽霊を、祓ってくれる。そして私は、本当に光子から解放されるのだ。
「凛太郎さん…?」
桜子が我を取り戻すと、私の耳を見て驚いた。私はこれまでの経緯と、これからの事柄を桜子に説明をすると、桜子は顔を青ざめながら、頷く。
「光子さんは、凛太郎さんを殺すつもりよ。」
小刻みに体を震わせながら、桜子が言う。分かっている、きっとあの世とやらで一緒になろうとしているのだろう。だが、そうはいくものか。これからの私の人生、光子などに滅茶苦茶にされてたまるものか。
重左エ門に案内をされ、寺へと繋がる隠し通路へと向かった。通路は地下の一室にあった。扉を開けると、薄暗い洞窟の様に、延々と先へと続いている。灯りを持った重三郎を先頭に、私と桜子は後を辿る。
長い長い洞窟を歩くと、突き当りまで来る。そこには赤い小さな扉があった。扉を出ると、丁度寺の中心部へと繋がっていた。寺の中心部は外に繋がっており、そのまま外に出ると、何やら数人で、作業をしている。地面には、二つの円陣が描かれ、四方には木の棒が立てられ、その棒の周りに紐が巻き付けられている。紐で円陣を囲っている感じだ。
「住職。」
重左エ門が、頭が丸坊主で、僧の服を身に纏った老人に声を掛けた。どうやらこの老人が、この寺の住職で、払い屋らしい。
「準備は出来とる。柚子。」
住職が名を呼ぶと、中から若い巫女が出て来た。整った美しい顔立ちで、凛とした趣だ。
柚子は静かに、円陣の内一つの中に入ると、ゆっくりと座った。
「柚子が移り身になる。それから悪霊を、地獄へと返すのじゃ。」
住職から説明を受け、私達は頷いた。
「少年、君は隣の陣へ。」
重左エ門に言われた通り、私は柚子の隣の円陣へと座る。と、そこで悪寒が走る。この悪寒は、光子だ。
予想通り、空から物凄い形相で、光子の幽霊がやって来た。
「出たあああ‼」
私は思わず、叫んでしまう。
「私の物よ‼私の物よ‼」
何度も叫びながら、私に向かい突進して来た。だが、円陣の中に居るお陰か、光子は入って来る事が出来ず、何度も弾き飛ばされる。
「やった‼円陣が効いているぞ‼」
私の喜びもつかの間、光子は再び、陣へと入っていない、桜子の体へと乗り移った。
桜子は、再びケラケラと光子独特の不気味な笑い声を上げる。
「しまった‼」
私が叫ぶと、すぐさま周りに居た僧達が、数珠を手にし、お経を唱え始める。すると桜子は、途端に苦しみ始めた。
「糞う糞う‼この女が恨めしい‼」
苦しみの中叫ぶと、桜子が護身用にと持っていた小刀を取り出し、自らの腹に突き立てる。
「やめろっ‼」
私の声等届かず、何度も何度も、小刀を腹に突き刺した。血がどくどくと噴き出している。その間も、僧達は必死にお経を唱えていた。
「桜子さん‼」
私が陣から出ようとすると、「ならぬ‼」と住職に止められてしまう。
光子の幽霊が桜子の体から出る頃には、すでに桜子は息絶えてしまっていた。私は愕然とした。私のせいで、桜子さんを死なせてしまった。愛する人を、奪われてしまった。
「桜子さん…。」
私はその場に泣き崩れた。いい男が、声を上げて泣いた。だが、まだ終わってはいない。光子の幽霊は、空を物々しく漂っている。そしてケラケラと笑っている。憎い。憎らしい。光子が憎い。
光子の幽霊は、柚子の姿を見ると、にんまりと笑った。
「次はこの女。凛太郎さんの周りの女は皆殺してあげる。」
そのまま柚子の体を目掛けて、一直線に突撃していく。円陣の中に居るにも関わらず、柚子の体の中に、光子はすんなりと入る事が出来た。今度は柚子が、ケラケラと不気味に笑う。
「よしっ‼入ったぞ‼」
重左エ門が叫んだ。それと同時に、僧達は一斉に柚子の周りを囲み、数珠を掲げてお経を唱え始める。
もがき苦しむ光子は、私へと手を伸ばす。だが、陣の中から出る事が出来ず、更にもがき苦しんだ。
「柚子の円陣は内に閉じ込め、少年の円陣は外に閉じ込める。」
住職が説明をすると、納得をした。だから光子は、私に手が出せず、桜子を使っておびき出そうとしたのか。だがそのせいで、桜子は死んでしまった。
お経がより一層激しさを増すと、柚子の体から、光子の幽霊が顔を出し始めた。それと同時に、頭上には竜巻の目の様な、渦がぐるぐるとこだまする。
数珠を何度も上下に揺らし、音を出す度に、光子の幽霊は渦の中へと吸い込まれていった。それでも藻掻く光子は、内の結界も、外の結界も強引に破り、私の左頬に爪を立てる。
「うわあ‼」
私は左頬を思い切り引っ掻かれ、血がぽたぽたと滴った。住職が、柚子の手を数珠で叩くと、悲鳴と共に、手は引っ込める。やがては、物凄い断末魔と共に、光子の幽霊は渦の中へと吸い込まれて行ってしまう。
完全に渦の中へと吸い込まれ、渦自体が無くなると、薄暗かった空から、光が漏れる。柚子はその場に倒れこみ、意識を失っていた。
「どうなったんだ?」
私は周りを見渡した。光子の幽霊は、どこにも居ない。
「無事、地獄へと帰ったのじゃ。」
住職はそう言うと、倒れた柚子をそっと抱き上げる。
終わった。本当に終わったのか?未だ疑問が残るが、あの嫌な悪寒はもうしない。
柚子が目を覚ますと、住職はすかさず尋ねる。
「あの者は?」
「天へと召されました。物凄い憎悪の塊でした。」
柚子の答えを聞き、皆が安堵した。
私は円陣から出ると、桜子の亡骸を抱いた。
「すまない…すまない…。」
何度も謝りながら、私は涙を流した。
こうして無事、光子の呪いから解放された私だったが、完全にとはいかない。桜子の死を悼み、左耳を失い、左頬には大きな傷跡が残ったのだ。