遠い平凡
【凡庸】ぼんよう
すぐれた点がなく、平凡なこと。また、そういう人。凡人。
好きなもの、割とある。得意なこと、胸を張れるほどのもの、なし。
船頭多くして船山に登るとはよく言ったもので、誰もが知った大富豪も、世界を変えた科学者も、周囲の人間すべてが同等の能力を持っていても乗算的に結果が伴うわけではない。彼ら支えているのは本人の類稀なるリーダーシップと、有能なサポーター、配置された場所で配置されたとおりに動くことができる従順な汎用パーツによるものだ。
マナーを守り、波風を立てず、その時に求められる人物像を演じ続けることができる汎用パーツ。家に帰れば「父親」になり、家を出れば「市民」として、電車に乗る「乗客」は会社に着けば「社員」となる。
特徴がなく、秀でたものがあるわけではない。
似ている。だが違う。
【凡庸性】(ぼんようせい)とは、よく「汎用性」と間違って使われる言葉である
その他大勢、社会の歯車の一つ。
能力もなく、凡人である僕は、汎用パーツになりたかった。
ちっぽけで特徴のないありきたりな歯車。それなのに、配置すれば小さな異音を響かせる存在。
僕はきっと、「凡庸パーツ」なのだ。
遮光カーテンの隙間から、刺さらんばかりの日差しがちらつく。窓を開けることがないのは、外の音を聞きたくないわけではない。外に音が、聞こえて欲しくないからだ。音からも日差しからも逃げ、午前11時を過ぎた頃。男はようやく、昨日まで過ごしたかった休日を思い出していた。
『まだ走っているのかな?』
珍しく鳴ったスマホの通知画面に、思わず指を触れる。
『暑くて、すぐ帰ってきてしまいました』
ベッドの上で返しながら、小さな見栄を張る自分に思わず笑ってしまう。
そう、今日は朝からランニングをして、新しくできた少し高級なスーパーで買い物をしたかったのだと思い出した。
SNS上ではもう走ったことにはなっていたから、次の目的地であるスーパーに向かおう。
やっとのことでベッドから腰を上げ、雑多なリビングに飾られたエスプレッソマシンをセットし、冷蔵庫に顔を突っ込む。
「あーーーー。冷蔵庫に住みたい。」
子供の頃、本気で願った真夏の願いを不意に思い出したりしながら、昨夜食べかけたサラダを手に取る。
わざわざ皿に盛り付けて、ランチョンマットを敷き、木製フォークを立て掛ける。男はマメな人間なのだ。
ちょうどエスプレッソも出来上がり、量の割に大きなカップに注がれた。
SNS用の写真を撮り終えた後、ご自慢のエスプレッソには1:9で牛乳を足す。男にはこのエスプレッソの美味さはさっぱりわからなかったが、アラサー独身男の朝食として、ほぼ真っ白の飲み物よりは、世間ウケすることを理解していた。
歯磨き、した。顔、洗った。着替え、シャツだけ替えていくか。髭…放置。
ドアを開けると5倍は重さを感じる夏の外気が男を包む。思わず顔を歪めて歩く男の行く先は、例の少しお高いスーパーだ。入り口で母と手をつなぐ子供も、少し、行儀がいい気がする。輸入菓子を選んでいるあの男性、なんだか、いい靴を履いている。学生カップルは有名ブランドのお揃いの財布でお会計。レジの女性ですら、なんだか客を品定めするかのような余裕を感じる。
いい気分になるために寄った高級スーパーで、男は小さく背を丸めていた。
トントンッ
右肩を軽く叩かれ、驚いた表情で振り返ると、その表情に驚いた表情の女性が目を丸くしていた。
「…高橋さん、ですね?」
突然出される自身の名前に驚くよりも、目の前の女性が誰なのかを、高橋の頭の中は必死に探し回っていた。
年齢でいえば、高橋と変わらないか、少し年下だろうか。休日のスーパーには似つかない黒のスーツに身を包み、それでいて鞄などは何も持たずに、高橋を見つめている。
どこの誰なのか。思い出せないことを正直に打ち明けようか。素知らぬ顔で挨拶だけして立ち去ろうか。返事の選択に高橋が迷っていると、女が先に口を開いた。
「とある企業から、ヘッドハンティングのご指名で参りました。企業名や職務内容につきましては、ご興味がおありの場合のみ、開示させていただきます。ご興味を持っていただけましたら、ご連絡ください。」
女は高橋の目を見ることもなく、握りしめていた黄緑色の封筒と、ポケットから名刺を差し出した。
凡庸パーツである自分に訪れた、突然のライフイベント。真夏の高級スーパーで、高橋の心臓は高鳴り続けていた。