All Green
味噌が切れた。
「買い物に行ってくるね」
留守番を頼むつもりで声をかけると、テレビの前に寝そべっていた彼が、のそりと起きあがった。
「一緒にきてくれるの?」
「嫌か?」
着替えをしながら彼が眉をひそめる。
「ううん。ちっとも」
私は、自分でも大げさに思えるほどプルプルと首を横に振った。全然嫌ではない。むしろ嬉しい。それどころか、とっても嬉しい。この場でピョコピョコと跳び上がりたいぐらいに嬉しい。それほど、今日の彼の行動は、私にとっては珍しいものだった。一緒に暮らし始めて2年、その後、結婚して3年。仕事が忙しい彼は、買い物につきあうどころかゴミ出しさえしたことがない。非番の日の彼は、食事と風呂の時間を除けば、ナマコかスライムのように一日中床に張り付いたまま微動だにしないのが普通なのだ。
「行くぞ」
私が驚いているわずかな間に着替えと戸締まりをすませた彼が、靴を履きながら玄関で私を呼ぶ。
「あ。ごめん! ちょっと待って」
上着のボタンを留めきらぬまま外に飛び出そうとしたものの、財布を忘れたことに気が付いて慌てて部屋に駆け戻れば、すかさず、「遅い!」という彼の声が飛んできた。その声の大きくて厳しいこと! 普通の女……いや男でも、思わず身をすくめずにはいられないほどの恐ろしさである。だけども、愛想の欠片もない彼の表情や声の中に微かな照れが含まれていることに、私はちゃんと気が付いていた。要するに、この人は、普段し慣れないことをしているのが非常に恥ずかしいのだ。「ごめんなさい!」と、謝る私の声が、知らず弾んだ。
暖かな日差しに誘われたのか、駅前のスーパーまで続く緑道を歩く人の数は、普段よりも多く思えた。
「すっかり葉桜だな」
「今年のこの道の桜は、特にきれいだったよ」
上を向く彼の声の中にほんの少しだけ残念な気持ちが混じっているのを感じて、私は、もっと彼を残念がらせてやろうと意地悪をする。
「今年の春は、急に暖かくなったでしょう? だからかな。一気に咲いたの」
だが、そのまま暖かい日が続いたので、花が散ってしまうのも早かった。けれども、だからこそ、花の盛りの美しさが強烈に印象に残ったのかもしれない。
「満開の桜も好きだけど、私は、葉桜も好きよ」
彼の視線の先を目で追いかけつつ、私は微笑んだ。
花の衣を脱ぎ捨てて淡く柔らかな若葉を繁らせる桜の木々。夏に向かう日差しに手をかざすようにして陽光を遮る枝葉は、花とは違った安らぎを私に与えてくれる。
「そうだな。花より落ち着くな」
上を向いたまま立ち止まった彼が、笑みらしきものを見せた。
「そうでしょう? これはこれでいいものよ」
私は、桜の代理人でもあるかのように誇らしげに胸を張ってみせた。
どれぐらいそうしていただろう。
「すまないな」
彼が、ポツリと言った。
「はい?」
彼から謝られることをされた覚えはない。怪訝な顔をする私に、「当たり前以下だと言われた」と、彼が打ち明けた。
「夫として最低だと……」
「誰から?」という問いかけに、彼は答えなかった。きっと、仕事がらみ。聞いてはいけないことだと判断した私は、それ以上の質問を控えて、彼の話の続きを待った。
「家に帰れば食って寝るだけ。家のことは、お前に任せきり。家事のひとつも手伝わない。結婚式以来……というよりも結婚式以前もだが、いつだって仕事優先で、デートらしきものをしたことがないし、花見すらした覚えがない。おまえの誕生日だって結婚記念日だって、一ヶ月経過した頃にやっと思い出すのが関の山だし、思い出したからといってプレゼントをするわけでもない。そのうえ、出てきた料理を誉める愛想もない」
「それが『当たり前以下』だって言われたのね?」
なるほど、こうして羅列されると、確かに私は標準以下の旦那さまを持っているような気がしてくる。ついでにいうと、私の友人たちの彼への評価もこれに近い。つまり、下の下の下。彼に話したことはないが、「あんたは家政婦代わりにされているのよ」と、よく同情される。
「『奥さん可哀想』、『奥さん我慢しすぎ』、『奥さんが出ていかないのが不思議』、『あんたの奥さんは、聖人に違いない』、『普通は逃げ出すよ!』と、寄ってたかって……」
「言われちゃったんだ?」
笑うまいと思っても、私は、頬が緩むのを抑えきれなかった。この強面のお兄さんに向かって、寄ってたかってそんなことを言える人々が存在するとは…… なんて怖いもの知らずな人々なのだろう。
「笑うな」
私のニヤニヤ笑いから逃れるように、彼が早足で歩き始める。
「笑ってないよ」
嘘つきな私は、笑いながら小走りで彼を追いかけた。
そして、いくらも行かないうちに、唐突に立ち止まった彼の背中に顔をぶつけた。
「『ちゃんと伝えてやれ』と言われた」
「え?」
鼻をさすりながら、彼の広くて逞しい背中を見上げる。
「『わかってくれていると思って安心するな。ちゃんと相手に伝えておかないと、いつか伝えなかったことを後悔することになるかもしれない』。そう言われた。『でないと、いつか後悔することになるかもしれない』」
ためらうような間が少し空いて、彼が「『自分たちみたいに』ってな」と続けた。
細かいことはわからないものの、彼の口調から、その言葉の重みは、私にも充分に伝わってきた。いささかしんみりした気分になりながら、私は彼の腕に手を回した。
「でも、わざわざ伝えてくれなくても、大丈夫だよ」
「本当に感謝しているんだ。いつも」
私の声に彼の硬い声が重なる。
「家に帰るとホッとする。家なら、なにもしなくても、おまえが全部やってくれる。勝手に飯が出てきて風呂が沸いて……なにもしないでいいことが無性に嬉しい。飯も、なに食ってもうまい。食ったら眠くなる。俺の帰る所はここしかないと思える。この場所があるから、俺は出かけられる。ちゃんと仕事して絶対に生きて帰ってこようと気合いが入る。こんな生活は、俺にとっては極楽かもしれないけど、おまえにしてみれば、いい迷惑だよな。これからは……」
「もういいよ」
私は、笑いながら彼の話を遮った。
「でもな……」
「いいの」
私は、彼の前に立つと、手と背を精一杯に伸ばして彼の口をふさいだ。
「頼むから、『これからは、ちゃんと女房孝行する』とか、『これからは、いろんな所へ連れて行ってやる』とか、『これからは、誕生日にはプレゼントを忘れない』とか、できない約束はしないでよ。後で、ガッカリしたくない」
厳しい顔で牽制すると、これ以上ないというほど彼が情けない顔をした。もっとも、この顔を見て『情けない顔』だとわかるのは、私ぐらいなものだろう。
「いいんだよ。本当にわかっているんだから」
強がりでも慰めでもなく、私は彼に念を押した。
ひとたび家を出れば、彼が非常な緊張を伴う現場で多くの危険と責任を引き受けながら、誰よりも敏捷に動き回り誰よりも大きな声を張り上げて働いていることを、私は知っている。そんな男が、家に戻れば無駄に床面積を占有し、声も動作も超省エネモードで、表情筋を動かすことさえ億劫がる。つまり、それだけ、彼は、この家に…… なにより私に気を許しているのだ。
「いない時のほうが多いけど、あなたが、家が大好きだってことも知っている。いちいち感想をいう必要がないほど、私の料理を気に入ってくれていることもわかっている」
そして、どこまでも無表情な彼の微妙な『美味しい』の表情を読みとり、かつ、それを楽しめる女は、世界広しといえども私しかいないだろうということを、私は自信をもって断言できる。他の女では、この無愛想な男と暮し続けることに耐えられるはずがないのだ。
「だから、あなたが帰るところは、私の所しかないってことも、実は、よおおぉぉく知っている」
私は、堂々と言いきった。
「だから、今までどおりでいいよ。家でぐらい、私に全部任せてゆっくりしてらっしゃい」
「いいのか?」
「うん。私はね」
彼の声に僅かに滲む不安を、私は笑い飛ばした。
だって、それが私の誇りだから。
外で神経をすり減らして、命を危険にさらして、必死に他人さまの『当たり前』を守っているあなたが唯一くつろげる場所。それが私であることが、私の誇りだから。
「私は、家でスライム化しているあなたを見ていると落ち着くし、好きなの」
「スライムが……か?」
『スライム』呼ばわりされた彼は、なんとなく傷ついているようだった。
「そうよ。だから、好きなだけ床に張り付いててちょうだい。デートしたくなったら、友達を誘うし、欲しいものがあったら、自分で買いに行くから」
『もちろん、経費は、あなた持ちで』と、私は心の中で舌を出す。
「……。微妙に『俺なんか必要ない』と言われているような気がするんだが」
しばらく黙りこんだ後、彼が言った。どうやら拗ねているらしい。
「違うよ」
『全然わかってないね』と、私は首を振った。あなたがいてくれるからこそ、帰ってくるとわかっているからこそ、できることだ。
「それだけ信用しているってことよ」と、一応彼を持ち上げておいてから、「でも、皆が皆、私みたいに物わかりがいいと思わないでね」と、念のために釘を刺しておく。
「例えば、夏実ちゃん。このまま放っておくと、そろそろブチ切れるかも」
私は、去年結婚したばかりの彼の部下の妻の名をあげた。
「わかった。奴に言っておく」
私の警告を、彼は神妙な顔で受け止めた。
「それで……その、おまえは、本当にいいのか?」
「うん。でも、たまに、こうして買い物につきあってくれれば嬉しいな」
「欲のない奴だな」
「でも、今までに比べたら大した進歩だと思わない?」
「……」
私の嫌味に、彼が怯んだように息を止める。珍しく彼が動揺している。そのことに気を良くした私は、「特別なことなんかいらないの。本当よ」と言いながら甘えるように彼の腕に頬をすり寄せた。
小さな幸せをかみ締めつつ、当たり前以下かもしれない日々を、あなたと送っていけることが幸せ。
自分がそんな境地に至ることができるまで、だいぶ時間がかかったのは本当だし、彼の知らないところで葛藤があったことも本当である。でも、それはもう過去のことだ。今さら彼を責める気にはなれない。
私は、本当に、今、とても幸せなのだ。
言葉にすると陳腐になってしまいそうな私の気持ちを代わりに伝えてくれようとするかのように、桜の若葉が、さわさわと涼やかな音を立てながら揺れる。一緒に風の音に耳を傾けているうちに、彼の肩から次第に力が抜け、少し悩ましげだった顔が、私が大好きな、おそらく私しか見ることのできない、『スライム』状態のときの穏やかさを取り戻していく。とはいえ、他の人が見たら、彼が和んでいるのか怒っているのか判断がつかないだろうけれども……
「そうだな、できることから始めるか」
桜の樹を見上げながら、彼が小さく息を吐いた。そして、肩に手を回して私を引き寄せると、「なあ、少し遠回りしていくか?」と、照れたように笑った。
END
この話は、「オンライン作家によるチャリティ本(有料電子書籍)プロジェクト」
One for All , All for One ……and We are the One オンライン作家たちによるアンソロジー~(発起人 / 代表:立花実咲さま)に寄稿していたものです。 (販売終了にともない、2013.1.1から再掲載解禁となっております)