悲劇の人魚姫と悪魔
「やあ、久し振りだね『夜空の君』」
「……あのさ、その『夜空の君』って呼ぶのやめてくれないかな? そう呼ばれるとむず痒い感じがする」
「では『夜闇の王』と呼ぶことにしよう。それとも『明けぬ空の主』と呼んだ方が好みか?」
「やめてこれまでので良いです」
「承知した。では、これまでのようにキミのことは『夜空の君』と呼ぶとしよう――――相変わらずだな、我が旧友よ」
「二十年ぶりかな? きみに会うのは」
「正確には二十四年と六ヶ月、十一日と四時間二十三分ぶりだがね……全く、旧友との再会をこんなに軽んじる友だとは思わなんだ!」
「普通分単位まで前回会った時間を記憶している人はいないと思うんだけど」
「それは私とキミの仲だ。ジョークの一つとして胸にとっておきたまえ」
「そうか。ではとっておこう」
「そういうキミの素直なところ私は好きだぞ」
「ありがとう。僕もきみのそういういつも愉しそうなところが好きだ」
「これはこれはどうも」
「――――で。今回はどんな話を聞かせてくれるのかな?」
「おやおや。偉大なる『夜空の君』は私がここに来た理由をお見通しで?」
「キミがわざわざ一人でここまで来る理由は、いつもうちの子に関しての話をする時だろう」
「ふはははははは――――その通りたがねっ! いやはや、流石はキミの子どもだ! 今回も面白いモノを見せてもらった! 非常に筆が乗ったよ!」
「紅茶のお供はイチゴジャムのパイとオレンジマーマレードのデニッシュで良いかな?」
「かたじけない、有難くいただくとしよう! ――――ところで、今回の茶葉は何かね?」
「セイロン。今回はヌワナエリアの物にした」
「道理でスッとした若々しい風味がすると思った。しかし、ふむ――――今回の話を語るに最適な茶葉だな!」
「ちなみに大雑把な内容はうちの子から聞いている。その上でこの茶葉を選んだ――――意味は分かるね?」
「はははははっ! 所謂プレッシャーというヤツだな! 良かろう! 期待に応え、私が今回観て、書き綴った物語を語りきかせるとしよう!
――――にしても良い茶葉だな。キミの兄が買ってきたモノだな? あの男は少々紅茶には煩いからな」
「いや。うちの子の旦那に紅茶好きな人がいてね。彼が贈ってきてくれた。うちの子直筆の美味しい紅茶の淹れ方マニュアル付きでね」
「それはそれは、その旦那とは良い話が出来そうだ! 今度キミの兄も呼んで共に語らいたいものだ!」
「……紅茶が冷める前に、話を聞きたいんだけど…………良いかな?」
「…………ふむ。懐かしい友の顔を見たせいかな、前座が長過ぎたな。
それでは――――語るとしよう。
悲しくも、幸せだった――――悲劇の恋の話を」
☆
むかしむかしの、とある海の底。
そこには海の王国がありました。
海の王国には世界中の魚が集まり、そしてその魚達を王様である人魚の一族が守っていました。
人魚の一族はみんな、不思議な力を持っていました。
王様は波を操る力を持っていました。
お妃様は潮を操る力を持っていました。
そして王様とお妃様の間に出来た六人の姉妹も、不思議な力を持っていました。
中でも末っ子の人魚姫は特別強い力を持っていましたが、幼い頃に力を誤って使ってしまい、以来人魚姫の尾びれには深い傷が残り、泳ぎがとても下手なのでした。
ある日、十五歳になった人魚姫はお姉さんに連れられて、海の外の世界を見に行きます。
十五歳になって海の外を見に行くことは、人魚の一族の中で大人になったという証なのでした。
一人では上手く泳げない人魚姫はお姉さんに支えられながら、海の外にある、陸地の世界を見に行きました。
初めて海面から顔を出した人魚姫は驚きます。
外の世界の、なんて美しいことでしょう。
夜の海に映る、陸地の煌びやかさ。
キラキラと夜空の星のように輝く陸の街は、まるで真珠の森のようでした。
お姉さんから聞かされた船と思われる大きな木の器からは、楽しげな人の笑い声と、賑やかな歌声が聞こえてきます。
それはまるで、寝物語で聞いたような楽園のようでした。
時間も忘れて陸地の世界に魅入っていると、嵐が来るとお姉さんが言いました。
すると間もなくして波が高くなり、風は勢いを増し、海が荒れてきました。
嵐の海を一人で泳ぐことが出来ない人魚姫のためにお姉さんは海の王国に帰ろうとしますが、海に潜ろうとした人魚姫はそのとき、大波に攫われた船から人間が一人海へ落ちていくのを見ました。
人間は海で息ができません。
また、波に抗う尾びれも持っていません。
このままではあの人間は溺れて死んでしまう――――そう思った人魚姫はお姉さんに頼み、海に落ちた人間を助けてもらいました。
一番上のお姉さんが波を静めました。
二番目のお姉さんが潮を流れを変えます。
三番目と四番目のお姉さんは人間を海から拾い上げ、陸地へ運びます。
五番目のお姉さんが人間の身体の様子を見て、人魚姫はお姉さんの言われた通りに怪我の手当をしました。
流木に当たってしまったのでしょうか。
腕が折れてしまっている人間の腕を、凍らせた海水で支える人魚姫は、ふと、視線を感じて気を失っているはずの人間の顔を見ました。
人間は目を閉じています。
美しい顔をした人間だと、思ったのもつかの間、お姉さん達に呼ばれた人魚姫は砂浜に横たわる人間を一瞥して海に向かいます。
お姉さんと合流した人魚姫は、海の王国へ帰っていきます。
心に焼き付けた陸地の世界に、思いを馳せながら。
十六歳になった人魚姫は、いつしか陸地の世界に住んでみたいと思うようになっていました。
十五歳の時に見た、星空のように輝く街の景色が忘れられなかったのです。
誕生日に陸地の世界に行くことをねだった人魚姫は、王様とお妃様の許可を貰い、陸地で住むための足を手に入れるため海の魔女の元へ行きました。
海の魔女はなんでも知っていて、どんな願いも叶える力を持っています。
お姉さんに案内され、海の魔女の家に着いた人魚姫は年老いた人魚の魔女に、陸地で歩くための足が欲しいと願いました。
海の魔女は人魚姫の願いに頷くと、水晶でできた小瓶を差し出して言います。
「この薬を飲むと、人間のように立って歩けるようになる」
「だけどかわりに、一切の声が出せなくなってしまうよ」
「それに水に浸かると、薬の効果が弱くなって人魚の姿に戻っちまう」
「――人魚になったお前の姿を、人間に見られてはいけないよ」
「そうなれば最後、二度と人の姿に戻ることは出来ない」
「そのうえ、海に戻ろうとすればあんたの身体は泡になって消えきまうし、陸地で生きようにも海の生き物である人魚は長生きできずに死んじまう」
「これはそういう、呪いの薬さ」
「それでもあんたは、陸地に行きたいと思うのかい?」
人魚姫の答えは、変わりませんでした。
普段から泳ぐのにでさえ、姉に支えてもらわねばいけない体です。
誰の手も借りず自由に歩けるなら、それ以上の喜びはありません。
それに人魚姫は元来無口な性格でした。
なので声が出せなくなったところで、いつもと変わりないと人魚姫は考えたのでした。
丁重に海の魔女へお礼を言った人魚姫は、人気のない砂浜までお姉さんに送ってもらいます。
いつでも帰ってきていい、海を少し凍らせたらすぐに迎えに行くからと、心配してくるお姉さんに心から礼を言った人魚姫は、お姉さんが海に帰るのを見届けたところで、海の魔女から貰った薬を飲みました。
薬の効果はすぐに出てきました。
どろりとした氷のように冷たい、鉄に似た味の薬を飲み込むや否や、尾びれのあたりが燃えるように熱くなりました。
ほんの少しの焦げるような痛みの後、熱が冷めたところで自分の足を人魚姫は「あ」と声を上げて――――喉から出た掠れた空気の音に、自分の声が出なくなっていることに気付きました。
ですが人魚姫は悲観しません。
なぜなら――――人魚姫には立派な、人間の足があったからです。
人魚姫の尾びれは、細い、人間の足に変化していました。
夢にまで見た人間の足。人魚姫は嬉しくてたまりません。
人魚姫は早速、二本の足で歩こうとします。
いつか見た人間のように、膝を立てて立ち上がろうとします。
ですが、足に力を入れた瞬間――――まるで刃物で刺されたような痛みが足の裏から膝にかけて走り、人魚姫は尻もちをつきました。
鋭い、痛みでした。
なにがあったのかと、人魚姫は出来たばかりの自分の足を見ます。
するとそこには、人魚姫にとって見覚えのある傷がありました。
人魚姫が幼い頃に、力の使い方を誤って傷付けた、あの尾びれの傷が――――両脚の内側に、深々と刻まれてきたのでした。
――――なんということでしょう。
せっかく、誰の手も借りることなく自由に歩ける足を手に入れたのに、その足にはあの深い傷があったのです。
その傷から来る痛みのせいで、人魚姫は一人で歩くことはおろか、立ち上がることすらできません。
助けを呼ぼうにも、そこは人気のない、崖の下にある砂浜です。
声を上げることの出来ない人魚姫は、誰かがやって来るのを待つしかありません。
海に帰ろうにも、ほんの少し、足に力を入れるだけで泣きそうなほどの激痛が走るのです。
嗚呼これは――――欲張りにも、陸地での生活に憧れた罰なのでしょうか。
波の押し寄せる音だけが聞こえる孤独と、ナイフで刺されたような痛みに、人魚姫は声もなくぽろぽろと涙を零します。
人魚姫が流した涙は真珠になり、人魚姫の足元に転がっていきます。
嗚咽を上げることも、泣き叫ぶこともできず、静かに涙を流す人魚姫。
そんな人魚姫の目の前に――――人が降ってきました。
人間が、崖の上から降ってきました。
見事に、その上綺麗に砂浜の上に着地する、人間。
驚いて一瞬涙が止まった人魚姫が見ている中で、崖の上から降ってきた人間――――背中に籠を背負ったその男の人は慣れたように籠を砂浜の上に下ろすと、浜辺の奥へ視線を向けました。
人魚姫と男の目が合います。
そして暫くの沈黙がありました。
「……………………」
「……………………」
人魚姫は元々、無口でした。
というのも、周りのお姉さん達が末っ子である人魚姫を構い倒して、口を挟む隙がなかったからです。
なので大概待っていれば向こうから話しかけてくるのが人魚姫にとっての常でしたが――――見つめ合う男が話し出す気配が無いのを見て、人魚姫は困り果てました。
話しかけようにも、今の人魚姫は声を出すことができません。
これが人間であるならば、砂浜に文字を書くことでコミュニケーションを図れたのでしょうが――――残念なことに、海の王国には言葉を文字に書くという文化がないため、そもそも文字という概念がありません。
どうしようかと、すっかり泣き止んだ人魚姫が考える中、ようやく動き出した男がゆっくりと人魚姫に近付いてきました。
服を脱ぎながら、男は近付いてきます。
そして男は人魚姫の前に腰を下ろすと、脱いだ上着を人魚姫に被せました。
「着ろ」と短く、低い声で男が言いました。
少し雑に被せられた上着の下から、男の顔を見上げた人魚姫は、泳いでいる男の目に、そういえばと、今になって気が付きました。
そういえばわたし、裸だったな――――と。
それから人魚姫は砂浜で出逢った男と一緒に暮らすことになりました。
男は山に暮らす猟師で、週に一度浜辺に行き着いた漂流物を加工して使うために、あの日崖の下にやって来たのでした。
そして人魚姫を見付けたのです。
言葉を話すことも出来ず、歩けない人魚姫に何かわけがあると思った男は、ひとまず人魚姫を自分の家で保護することにしたのでした。
人魚姫は男と住む中で、いろんなことを知りました。
食器の使い方、料理の仕方、服の着方に洗濯の仕方、買い物の仕方や、街にある店や陸地の世界の人々のことなど――――それは海の王国にはなかった、あらゆる人間の文化と生活の知識でした。
人間の文化や生活について教えてくれたのは、人魚姫を拾った男でした。
服の着方や、フォークの使い方すら知らなかった人魚姫に、男は一つずつ丁寧に教えてくれました。
男は無口でしたが、歩けない人魚姫を抱えて街まで連れて行ってくれましたし、服も靴も、人魚姫に与えてくれました。
人魚姫は言葉少なですが、触れてくる手の優しい男を、好ましく思っていました。
――――ある日の夜、妙な呻き声を聞いて目を覚ました人魚姫は、ソファーの上で魘されている男の姿を見つけました。
顔は真っ青で、息は荒く、うわ言のように何かを呟いています。
苦しそうな男の姿を見て、いてもたってもいられなくなった人魚姫は痛む足を我慢して、這いずるようにして男へ近寄りました。
魘されている男を起こそうにも、声をかけられない人魚姫は男の身体を揺さぶりますが、男は起きません。
喘ぐように息をする男に、人魚姫はそれならせめて、少しでも苦しみが楽になるようにと、震える男の手を握り、そっと身体を抱き寄せて、寝かしつけるように背中を叩きます。
どれだけの時間、続けていたでしょうか。
やがて男から、穏やかな寝息が聞こえてきました。
震えも止まり、うわ言も静かになりました。
まだしばらく男を抱き締めていた人魚姫が見守る中で、ゆっくりと男が目を覚まします。
ぼうっとした様子で見上げてくる男に、「ああ良かった」と微笑みかける人魚姫は、男にとっても悪夢が去ったことに心の底から安堵しました。
少しして、人魚姫に抱かれていることに気付いた男は、人魚姫が知る中でずっと顰めていたその顔をくしゃりと歪ませると、人魚姫の肩口に顔を埋めながらぽつりぽつりと話し出しました。
それは男を長年蝕んできた、悪夢でした。
――――男は母親を殺して、産まれてきました。
そのうえ、母や父に似つかない澱んだ髪色と暗い色をした目を持って産まれてきたため、父親からはひどく嫌われていたのです。
村の誰も持っていない髪と目をした男を、村の人たちは『悪魔の子』と呼んで蔑みました。
石を投げらたこともありました。
火を押し付けられたこともありました。
父親は逃げるように、別の女性と結婚し、村を出ていきました。
そうして自分がこの世に一人であると知った時、男は自分が産まれてきてはいけなかったのだと悟ったのです。
それから男は、一人で生きてきました。
村から遠ざかるようにして海に近いこの街にやって来て、人目につかない山の中で、ひっそりと暮らしているのでした。
今の暮らしは平穏でした。それでも、時折夢を見るのです。
『悪魔』と罵られながら、同年代の村の子どもから石を投げられたことを。
除霊と称して、村の呪い師に松明を押し付けられたことを。
村人の蔑んだ目と、果てのない嫌悪を夢に見るのです。
人魚姫はひどく悲しい気持ちになりました。
何も悪いことをしていないのに、まるで化け物のように接せられてきた男が、あまりにも痛ましくて。
それ以上に――――こんなに傷付いた彼に、たった一言の言葉もかけられないことが、悲しくてたまりませんでした。
たった一言。
男を慰めることも、温かな言葉をかけることも叶わない人魚姫は、言葉を話すことの出来ない苦しみを知りました。
心臓のあたりが切なくて、痛いほどでした。
胸が張り裂けそうな思いを抱えながら、ただ手を握ることしか出来ない人魚姫を見て――――男は笑いました。
それは、初めての人魚姫が見る、男の笑顔でした。
「これでいい」と、男が呟きます。
非力な人魚姫を抱き締めて、「これでいいんだ」と、男は微笑みます。
とても安らかな表情で人魚姫を見詰める男は、まるで、なにもかもが満たされたように微笑みながら、人魚姫に寄り添い、そっと目を閉じました。
その日から二度と、男が魘されることはなくなりました。
それからというもの、男はいっそう人魚姫に優しくなりました。
触れてくる手が、とても優しくなりました。
見詰めてくる目が、温かくなりました。
紡がれる言葉は、慈しみに満ちていました。
二人でいる時間が、長くなりました。
なんともなかった日々が鮮やかに色付いてみえ、世界がとても美しく感じるようになりました。
人魚姫はいつしか、穏やかな表情でいることの多くなった男に想いを寄せるようになっていました。
叶うなら、この先もずっと、彼と一緒に――――
いつからか、人魚姫はそう願うようになっていました。
ですが、そんな優しい日々は呆気なく終わってしまうのでした。
それは狩りに出た男の帰りを待ちながら、人魚姫が家で料理をしていた時の事です。
ふと、騒がしくなった外を怪訝に思った人魚姫の前で、荒々しく扉が開かれたのでした。
目を見張っていると、たくさんの槍や剣を携えた衛兵と共に、一人の青年が家に入って来ました。
青年のことを、人魚姫は知っていました。
初めて海の外を見たあの日に、助けた人間でした。
青年は人魚姫を見て言います。
「彼女だ。まさしく私の命を救った、あの人魚だ」
海に投げ出され、溺れ死にかけた青年はあの時、朦朧とした意識の中で確かに見ていたのです。
自分を助ける人魚の姿を。
この世のものとは思えぬほど美しい――――人魚姫の姿を。
その日から青年はずっと捜し続けていました。
王子である自分の持てる力を全て使って、あの日見た人魚を捜し出し――――永遠に自分の手元に置くために。
王子は人魚姫に、恋をしていたのでした。
「さあ城に行こう。そこでずっと一緒に暮らそう」
手を引く王子に、人魚姫は首を横に振ります。
人魚姫にとって王子は助けただけの人間です。たとえどれだけのお金を積まれようとも、彼とどこかに行くつもりはありません。
お城での生活よりも、人魚姫は男との生活の方が大切なのでした。
ですが王子は歩けない人魚姫を無理矢理に連れて行こうとします。
怖くなった人魚姫は、心の中で助けを求めました。
その時、男が帰ってきました。
帰ってきた男は人魚姫が連れ去られそうになっているのを見て、すぐに人魚姫を助けようと王子の元へ向かいましたが、それを衛兵達が阻みます。
地面に取り押さえられた男に、王子が言います。
「突然こんな風に押しかけてすまない」
「その迷惑料として、いくらか金を支払おう」
「その代わりにこの娘を連れていきたいのだが……悪い話じゃないだろう?」
取り押さえられた男の前に、王子が懐から革袋を投げます。
地面に落ちた革袋から、たくさんの金貨が零れ落ちました。
男は王子に捕まった人魚姫を見ます。
人魚姫は不安に揺れる瞳で、男を見つめ返しました。
そんな人魚姫に、男はそっと微笑みました。
人魚姫を安心させるように、微笑みました。
そして男は力任せに衛兵を振り払うと――――衛兵の持っていた剣を奪い、その剣で近くにいた衛兵の首を刎ね飛ばしました。
赤い血が、ぱっと、広がります。
暴れ出した男に、衛兵達は一瞬どよめきました。
それから剣を捨て、猟に使っていた手斧で別の衛兵の首を刎ね飛ばしたところで、ようやく衛兵達は王子を守るために動き出しました。
そこから、男による惨劇が始まりました。
近付く衛兵を片っ端から男は手斧で斬り捨て、斬り付け、斬り落としていきます。
腕を、脚を、首を、次々と、刎ね飛ばし、散らせていきます。
それは銃を買う金もない男が生きていくために培った殺しの技術で、男独自の狩猟の手法でした。
それを使う相手が獣から、人間に変わっただけでした。
刹那の躊躇いもなく衛兵の首を刎ねながら、王子へ近付いていく男。
冷酷な表情一つ変えず、返り血に塗れていく男に、衛兵の誰かが呟きました。
「悪魔だ」と。
そしてもう少しで王子へ手斧が届くまでに距離を近付けた男は――――次の瞬間、運良く手斧による致命傷を避けた衛兵によって、背中から串刺しにされました。
人魚姫の見ている前で、男の胸を槍が突き抜けました。
別の衛兵が、男の腹へ剣を突き刺しました。
また別の衛兵が、男へ剣を突き立てます。
男は、血を吐いて、膝をつきました。
男が、倒れました。
倒れた場所から、みるみる、血が広がっていきます。
男は、動きません。
投げ出された手足はどこも血に汚れていて、人魚姫が願っても、ピクリとも動きません。
倒れて、血の海に、沈んでいきます。
動かない男の姿を見た人魚姫は、その瞬間、心臓が張り裂けるような胸の痛みと、目の前が真っ暗になるような、深い、絶望感を覚え――――――
――――気が付けば、人魚姫は透明な、ガラスの中にいました。
そこは絢爛豪華な部屋の中にある、大きなガラスの水槽でした。
部屋一つ分ある大きな水槽の中は、水で満ちていました。
人魚姫は自分が水の中にいることに気が付くと、すぐに自分の身体を見下ろして――――人間のものだった脚が、人魚の尾びれへ変わっているのを見て、全てを悟りました。
魔女から貰った薬の効果が、切れたのだということを。
人魚としての姿を、人間に見られたのだということを。
そして――――呪いによって、次に海に入った時、自分は泡になって死んでしまうのだということを。
人魚姫は悟って、心が深く、暗い場所へ沈んでいくのを知りました。
ですが、涙は出ませんでした。
とても悲しいはずなのに、その目から涙が零れることはありませんでした。
身体の半分以上を、白い包帯で包んだ王子が人魚姫の元を訪れて言います。
「まさかきみにあんな力があったなんてね」
「衛兵はほとんど死んじゃったし、わたしも身体のほとんどが死んでしまったけれど……やっときみが手に入ったんだ」
「身体の半分くらい、きみにあげよう」
「これからはずっと一緒だよ」
うっとりとした目で人魚姫を見詰める王子に、人魚姫はまた自分が力を暴走させてしまったことを知り、そのせいで怪我をした王子に罪悪感を抱きます。
ですが、なぜか王子に謝る気持ちになれませんでした。
ひどく心は痛んでいるのに、どうしてか、胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたような感覚がありました。
薬の効果が切れて言葉を話せるはずなのに、人魚姫の喉から声は出ませんでした。
ただ、ぼんやりと一つ、人魚姫は思っていました。
このまま、消えてなくなってしまいたい――――と。
最後に見た男の姿を思い出しながら、静かに人魚姫は思いました。
「明日になったら、きみのことを国のみんなに伝えよう」
「きみをこの国のお妃様にしてあげよう」
そう告げて部屋を出ていった王子と入れ替えに、一人の使用人が入ってきます。
部屋に誰もいないことを確認し、懸命に人魚姫の名前を呼ぶその人は、なんと人魚姫のお姉さんでした。
人魚姫の力が暴走したことを感じ取ったお姉さんが心配し、海の魔女の力を借りて人魚姫を助けに来たのでした。
お姉さんは必死に人魚姫へ語りかけます。
「今ならまだ間に合うわ」
「この短剣で王子の心臓を刺して、人魚の血を被れば、あなたにかかった呪いは解けるの」
「海に帰っても泡にはならないの」
「私が代わりにやってあげる」
「だから、一緒に海に帰りましょう」
ですが、人魚姫は頷きませんでした。
かわりに、「わたしのために姉さんがそこまでする必要はないの」だと、首を横に振りました。
人魚姫にはもう、生きようと思う気持ちがなかったのです。
人魚姫は、彼のいない世界を生きようと思えなかったのです。
人魚姫は、この世からひっそりと消えたかったのです。
人魚姫の思いを聞いたお姉さんは、悲しい顔をしながら帰っていきました。
これで良かったのだと、人魚姫は思います。
これで良かったのだと、人魚姫は目を閉じました。
――――人魚姫が生きることを諦めた、その日の夜でした。
人も、草木も、風さえも寝静まった頃に、何かが壊れる音がしました。
それは段々人魚姫のいる部屋へと近付いてきました。
何が起きているのかと身構える人魚姫の前に、扉を壊してそれは現れました。
――――真っ赤に濡れた全身に、血の気のなくなった肌。そしてうっすらと、笑みを湛えた表情。
そこには、悪魔がいました。
人魚姫の目から、涙が零れました。
はらはらと零れ落ちていくそれは、悲しくて零れているのではありません。
目の前の悪魔は、人魚姫が想う男でした。
人魚姫のために戦って、動かなくなった――――彼でした。
男が生きていてよかったと、嬉しくて人魚姫は泣いているのでした。
男の身体はボロボロで、誰のものか分からない血で汚れていました。
足を引き摺るようにして水槽へ手をかける男に、人魚姫は近付きます。
水槽のガラスにべったりと血が付きます。
間近で見た男の顔は真っ白で、虚ろな目をしていました。
その姿を見て、人魚姫は男の死期が近い事を悟りました。
そして、最後の力を振り絞って自分を助けに来てくれたのだということに、また涙しました。
「かえろう」
今にも消えそうな、掠れた声で男が言います。
虚ろな目は、優しく人魚姫を見ていました。
水槽の底に真珠をためながら、人魚姫は頷きました。
――――この人と一緒にかえろう、と。
人魚姫は心の底から願いました。
――――一緒に、かえろう………………と。
水槽を持っていた手斧で壊した男は、人魚姫を抱えて城から逃げます。
騒ぎを聞きつけた衛兵達から隠れるように、男は人魚姫を連れて城から出ました。
彼の足は自然と、人魚姫と出逢った――――崖の下の砂浜へと向かっていました。
砂浜に辿り着いた男は、浜に寄せてあった小舟へ乗り込むと、海へと漕ぎ出しました。
静かな夜の海を、緩やかに小舟は進みます。
やがて陸地が砂粒ほど小さくなって見えなくなった頃に漕ぐのをやめた男は、人魚姫を抱いて海を見下ろします。
呪いによって地上では長く生きられない人魚姫は、少しずつ、弱っていました。
身体が重くて、息をするのがやっとでした。
人魚姫を支える男の手も冷たく、震えていました。
人魚姫と男は、お互いに最期の時が近いのだと悟ってました。
ですが二人の心の中に悲嘆などなく、どこまでも穏やかな、温かさに満ちていました。
「かえろう」
夜明けに輝く海を見下ろして、男が呟きます。
人魚姫はそれにそっと微笑んで応えました。
二人を迎える海は、満天の夜空のようにきらきらと光っていました。
――――そして、人魚姫を抱いて、男は海へ飛び込みました。
海へ触れた人魚姫は、身体の端から泡へと姿を変えていきます。
人魚姫は最期に、男へ触れるだけの口付けをして、ありったけの想いを込めて言いました。
「――――」
そして、人魚姫の意識は白い泡になり、海の底へ潜っていきました。
――――悪魔、と呼ばれた男にとって、生きていることは苦痛でしかありませんでした。
石を投げられているのと変わらない、火を押し付けられているのと変わらない。
ただ、身体に痛みがないだけの、息が無くなっていくのを待つ日々でした。
そんな中で、男は人魚姫と出逢いました。
触れられる手の温かさを知りました。
向けられる瞳の優しさを知りました。
男を見た人魚姫が浮かべる慈しみの表情に、男はいつも胸が締め付けられて、泣きそうな気持ちになりました。
それを愛だと知ったのは、悪夢に魘されたその日、人魚姫が抱き締めてくれた時でした。
悪魔と呼ばれていたことを彼女が知って、その目に悲しみを浮かべた時。
そして男の苦しみを包むように、手を握ってくれた時に、男は初めて目に見えない愛というものを知り、そして触れたのです。
誰からも貰えなかった愛を知った男は、その日に誓いました。
彼女を――――人魚姫を護ろうと。
苦しいだけの人生に安らぎをくれた人魚姫のために、生きようと。
そう決めたのです。
男にとって人魚姫は、生きる希望でした。
苦悩の人生に差した、たった一つの光だったのです。
男にとって人魚姫は、何にも変えられないものでした。
だから、命を懸けて護りたかったのです。
ずっと傍にいたかったのです。
ですが、二つ。男には後悔していることがありました。
それは、人魚姫の名前を知らなかったということ。
そして――――溢れんばかりの人魚姫への気持ちを、何一つ言葉として伝えられなかったことです。
思えば男は、自分の名前も人魚姫へ伝えていませんでした。
最期まで口下手だった男は、それだけが悔やまれました。
ですから、
「だいすき」
という、人魚姫の最期の言葉にも、男は何も返せなかったのです。
ただ、泡になっていく人魚姫を抱き締めることしか、男には出来なかったのです。
海に沈んでいきながら、男は思います。
――――もっと想いを伝えられたなら、彼女ともっと長い時間を過ごせたのだろうか。
――――もっと強ければ、彼女を護れたのだろか。
――――もっと愛を囁けたなら、彼女は笑ってくれただろうか。
海底へ誘われながら、男はもう一度、誓います。
もし、また彼女に出逢うことが出来たなら――――
今度は、彼女にありったけの気持ちを全てを伝えよう。
今度こそ、彼女をあらゆるものから護り抜こう。
今度は――――溢れんばかりの愛を囁いて、たくさん彼女を笑わせて。
そして、ずっと一緒にいよう。
手を繋いで、身体を寄せ合って、いつまでも傍にいよう。
ずっと、傍に――――――
幸せな夢を見ながら、泡と共に悪魔と呼ばれた男は海の底へ落ちていきました。
どこまでも、穏やかな表情で、落ちていきました――――
☆
「――――様子はどうだ?」
「……どうだ、と訊かれると概ねいつも通りとしか答えようがないんだけど?
――――あ、いや。もう少しで仕事が始まるから夜が長くなりつつあるけど」
「貴様の夫婦事情を聞きに来たんじゃない。この前帰ってきた娘について訊いている」
「ああ、そっちか」
「それで、娘の様子はどうなんだ? 落ち込んでいるのか、それとも過ぎた日々を振り返り後悔してるのか――――」
「あの子なら昨日、次の転生に出たけど」
「……………………は?」
「いやぁ、我が子ながらタフだと思うよ。家に顔出して直ぐ『次のに行く』って言って、あっという間に準備して行っちゃったんだ。凄いよね」
「…………いや待て。貴様、娘に何があったのか知っているな?」
「うん、知ってるけど? 本人から聞いたし」
「そうか、なら話は早い。事実を確認させて貰おう。
――――童話並みの悲劇だったな?」
「悲しい人生だったね」
「想いが通じたのは最期の時だったな?」
「海に沈みながらだったね」
「……俺は貴様のところの娘が落ち込んでるんだろうと思い、こうして叔父として菓子折り持ってわざわざ様子を見に来たのだが?」
「全部うちの子の好きなお菓子だね。わざわざありがとう」
「言っとくが貴様の分は無いぞ」
「えっ」
「むしろ何故あると思った」
「えっ」
「今回ここに来たのは貴様の娘について話を聞くためだ。貴様の分など無い」
「えー……」
「包み隠さず全部話せば今度買ってきてやる」
「仕事に出る前にお願いします、おにーたま」
「誰が『おにーたま』だ」
「じゃあ、おにいさま」
「そういう問題じゃない」
「おに」
「――――ほう?」
「――――すいませんでした」
「分れば良い――――それで、娘は何故こうも早く転生したんだ」
「『彼』に逢うため、だって」
「…………あの男か」
「うん。うちの娘のために戦って、一緒に海に消えたあの人。あの人とまた逢いたいから、用件だけ言って直ぐに家を出たよ」
「確か『悪魔』と呼ばれていたな、あの男は。…………実際にはただの人間だったがな」
「見た目が周りと違う。それだけで差別され迫害されるのは、どこの世も同じだよ。
――――確かに彼は人間だったよ。ヒトよりほんの少し、愛に飢えていただけの、ただの人間だった」
「……あの文明の人々に、出産後の感染の危険性や隔世遺伝についての医学はまだ存在していなかったのか。
しかし、何故あの男はああも死にかけの身体で娘を取り戻すことが出来たんだ?」
「うちの子も不思議がってたけども……実は娘が出た後入れ違いで作家殿がやって来てさ、うちの子も知らなかった裏話をいろいろ聞かせてくれたよ」
「あの愉快犯か……」
「なんでも、お姉さん達が少し助けてくれたらしいよ」
「……娘の姉だった、あの五人の人魚か」
「うちの子が暴走して気を失って、城に運ばれた後に、うちの子の力を感じ取ったお姉さん達が魔女の力を借りて陸地に来たんだって。
だけどそこにあったのは、妹が暴走したであろう氷の破片と、真珠と、衛兵の死体と、今にも死にかけの男だった」
「人魚の姉達は、事情を聞くために男を助けたんだな」
「出来る限りの手当てをお姉さん達はしたそうだよ。
三番目のお姉さんの『流れを塞き止める』力で出血を抑えて、二番目のお姉さんの『潮を流れを操る』力で、生きている内臓に血液を送る。四番目のお姉さんは二人のお姉さんの力の制御をして、医学の知識が少しあった五番目のお姉さんが簡単な応急処置をしたらしいよ。
――――その間、直ぐにでもうちの子の元に行こうとする男を一番上のお姉さんがあらゆる言葉を使って引き留めてたみたいだけど」
「……よくもそんな細かいことが分かるな、あの作家」
「物陰から様子を伺いながら、盗聴器で会話を盗み聴いていたらしいよ」
「本当に何でもするな、あの作家」
「それからはあの作家殿が記した本の通り、五番目のお姉さんが城の様子を見に行って、それを聞いた男がうちの子を助けに行った」
「そしてあの結末か」
「うん」
「こうしてみれば、愛し合った男女の仲を引き裂こうとした王子が一番『悪魔』に思えるな」
「――――そうかな。僕は王子はうちの子が恋した男と変わらない、ただの人間に思えるけどな」
「……と、言うと?」
「王子は最初から最後までうちの子に恋をしていた、一人の男だった。方法は酷いように見えるけど、やっている事はうちの子を思ってのことだ。
彼は人魚の娘に恋をした。だから城の一室を丸々水槽にして、人魚の娘が住みやすい環境を作った。
そして彼は人魚の娘を妃にすると言った。それは人魚の娘の願いを叶えることに正当性を持たせるためだ。一国の王子が、拾ってきた異種族の娘に傾倒していると聞いたら、城の者や国民は人魚の娘に王子が誑かされていると思うだろう。そうじゃなく、王子は人魚の娘を妃に据えることで、娘の願いを叶えることに正当性を持たせたかったんだよ。……どちらにせよ国民からの不審感は拭えないだろうけど。まだこちらの方がマシだから、そうしただけだろう。
こうしてみると、うちの子のために躊躇いなく衛兵を殺した男と、そう変わりないだろう?」
「……人魚姫を連れていく時に金を出したのは、王子なりの誠意の証ってことか?」
「流石元貴族、階級有る人の思考回路が分かってる。
その通り。平民になくて王族にあるのは圧倒的な財力と正当なる血統だ。その中で、お金という分かりやすい対価を出したことで王子はその場を穏便に済ませ、また人魚の娘に対して『これ以上の関与は不要』という事にしようとした。
――――ただ、王子が知らなかったのは、うちの子と男の間に既にお金では解決出来ない感情が育っていたことだよ」
「娘は男に恋をしていた。男は娘を愛していた。
しかし、互いに口がきけない事から、その想いをついぞ最期まで伝えることは無かった」
「たとえ想いを伝えていたとしても、この結末は変わらなかったと思う。
たとえ二人が愛し合ったとしても、王子は人魚の娘を城へ連れて行ったし、男は衛兵に刺されていたと思う。
何せ、王子と男は根底が一緒だからね」
「……根底、か」
「そう。
――――“愛する者の為に全てを捧げる”。
王子と男はそういう意味で、同じ人間だった」
「……だから王子は娘に対し、『身体の半分をくらい、きみにあげよう』と言ったのか。
捧げる、か。成程。
確かに、王子と男は同じだな」
「王子は国の力である衛兵と富、そして自分の身体を人魚の娘に捧げて、男は命をうちの子に捧げた。
なんというか、我が娘ながら物凄い求愛をされているなぁ…………」
「……では訊くが、もし娘を助けたのが男ではなく王子であったら、娘は王子に恋したと思うか?」
「それは無い」
「即答か」
「いや、無い。うん、どう考えても無いと思う。それでうちの子が王子に恋してたら、うちの子の目を疑う」
「そこまで言うのか……」
「だって、王子が愛したのは『人魚の娘』だ。
けしてうちの子ではない、“嵐の日に命を助けてくれた、『人魚の娘』”を王子は愛したんだ。だから愛の証として、“『人魚の娘』が住みやすい場所”を作ったんだ。そこにうちの子に対する愛は無い」
「……言われてみれば、そうだな」
「それに対して男は、“『娘の全て』を愛した”。
口がきけない娘を愛した。手を、眼差しを、温もりを、共に過ごす穏やかに時間を愛した。その事は、男が最期に夢見た事にも表れている。
それに、人魚に戻った娘を見ても、男は変わらなかった。共に『帰る』ことを望んだ。
その願いは、うちの子の最期を悟って『還る』ことに変わったんだけど」
「やけに男の肩を持つな」
「それはそうだよ。
『人魚の娘』を愛した王子と、『娘の全て』を愛した男。
どちらの方がうちの子を任せられる?」
「後者だな」
「だろう?」
「だから、今回直ぐに転生させるのを許可したんだ。『彼』になら、うちの子を任せられると思ってね」
「『冥府』のヤツは何と言っていた?」
「結構渋い顔してたけどね……死にかけてまでうちの子を護ろうとしたのが、高評価だったみたい。転生の許可だけじゃなくて、男の方にも少し『オマケ』をあげたみたいだよ」
「『オマケ』?」
「最期に彼、誓っただろう? 次に逢ったら、何があってもうちの子を護り抜こう、と――――その想いを、叶えることにしたんだよ」
「……与えたのか。誓いを守るだけの力を」
「正確には、“呪い”だよ。『死後』を監理する者だからね、祝福を与える権限は無いよ。
代わりに、それに近い“呪い”を男に架したんだ」
「ちなみに、その“呪い”の内容は?」
「【愛する者を喪うことで死に至る】――――即ち、“うちを子を護り抜けなかった場合にのみ、死ぬ事を許される呪い”だよ。
これによって男は何があっても死ねない、いや、“死ぬ事が出来ない”。全身を火で焼かれても火傷で死ぬ事は無いし、手脚をもがれ首を切断されても、壮絶な痛みの中で意識を保ち続ける。
病気にかかることは無いし、うちの子に逢って愛する事を決めた時点で、老いる速度は急激に遅くなる。
彼の『ずっと傍に』という願いも叶う呪いだと、『冥府』は言ってたよ」
「…………趣味の悪い呪いだな」
「僕もそう思った」
「……その“呪い”は貴様の娘に逢うことで発動すると見た。
では、発動するまでに男が死んでしまった場合はどうなる?」
「それはそういう運命だったとしか言えないよ。
二度と出逢うことが出来ない運命だった、としか」
「娘と出逢ってからの男の老いるスピードは?」
「うちの子に合わせて、という形になるみたいだよ。うちの子の方が歳上なら、ある日を境に急激に老いるみたいだし。逆にうちの子の方が歳下なら、ずっと若いまま、という事になるみたい」
「出逢い、愛することを決めた時点で発動する呪いか…………男が娘以外を愛した場合、呪いは発動するのか?」
「しないよ。あくまでもうちの子を男が愛することになった場合の呪いだからね」
「しかし……『冥府』のヤツにしては、随分と不確定な“呪い”を与えたものだな。
普通死んだ者が生まれ変わる際に、それまでの記憶は肉体の物として扱われ、無くなることになっているだろう? ゼロの状態でまた娘に逢うことなど出来るのか?
……いや、娘の方が前の記憶を持って転生すれば、まだ確率は高いか…………」
「ああ、言っとくけど今回うちの子は前の記憶は持たずに転生するらしいよ」
「……何?」
「なんでも『前の記憶を持ったまま、また前の運命を繰り返したくない』って」
「確かに、記憶を持って産まれた場合は本人が意図せずとも『前の記憶』に沿って運命が動いていくが……しかし、それでは娘と男は出逢えないのではないか? それこそ何度も転生を繰り返さなければ、二度と出逢うことは無いのではないか?」
「心配無いよ。だって、僕の子だからね。それぐらいの障害、呆気なく乗り越えるよ」
「……貴様が言うと妙に説得力があり過ぎて、俺は何も言い返せん」
「それに――――たとえ忘れてしまっても、大切なものって言うのは忘れられないものなんだよ」
脳を弄られたって、自分の名前すら無くしなって――――生まれ変わったって。大切なものっていうのは、脳でも、心でもない場所に――――」
「――――魂ってやつに、刻まれるものなんだよ」
☆
――――母を殺して産まれた。
石を投げつけられた事もあった、火を押し付けられた事もあった。
大人達に囲まれて、骨が折れる程痛めつけられた事もあった。
温もりを求めて女を襲った事もあった。飢えをしのぐために、獣を狩った事もあった。
殺されかけたために、人を殺した事もあった。
人生なんて糞に塗れた掃き溜めの様なもので、打ち捨てられたぬいぐるみの様に、ヒトは汚いものだった。
それでも男は、何かを求めて生きていた。
物心付く時より、男には何かが欠けている感覚があった。
ゴミ捨て場の様な場所で育ったが、幸いにも手足の指は揃っていた。身体の中で動かない場所は無かった。
だが、男は何かが欠けていると、常に感じていた。
欠けているものを探して、男は生きてきた。
足りたいものを埋めるように、マトモに生きてみた。
飢えにも似たそれを満たす様に、人と繋がりを持った。
渇きに変わりつつあるそれを癒す様に、女を抱いた。
そして、胸の中にある空虚の正体を思い出すように――――人を殺した。
不思議な事に、人を殺める時が一番欠けた物に触れそうだと感じる時だった。
だから、殺した。
色々なものを、殺した。
何度も何度も、あらゆる方法で――――殺した。
無いものを探し求めるように殺した。
そのためにあらゆる場所を転々と移動した。
そして行く先々でまた殺し、まだ欠けているものを埋めるように、殺した。
そんな日々を続けていた男は、とうとう追い詰められたのだった。
怪我をした。致命傷ではないが、手当てをしなければ出血多量で死んでしまう傷だった。
少しずつ、男は自分の身体が動きにくくなったいるのを感じていた。産まれてから、どれだけの時が経っただろう。
少なくとも男は、肉体の全盛期と呼ばれる歳をとうの昔に過ぎていた。
故に、油断をしたのだろう。思えば、十年前に比べて筋肉の伝達が悪くなった気がする。
それに最近は、執拗に男の足跡を辿ろうとする者がいる。
まだ男は欠けたものを見つけていなかった。なのでまだ捕えられ、自由を奪われたくはなかった。
傷を負った男は山を越えて、ある小屋に辿り着く。
少し遠い場所に煉瓦造りの家があった。きっと納屋だろう。
しかしあまり使われてない様子から、男はここに暫く身を潜めようと決めた。
それに、先客がいれば殺せば良いのだ。
男は静かに、手斧の柄に手をかける。
納屋の中は存外に広かった。
長年使われていないだろう農作の機械があり、干し草がいくらかか積まれており、その上には布が被せてあった。
とりあえず寝床には使えそうだと考える男は、その反面納屋の中にある人の気配を感じ取り、足音を殺して息を潜めた。
先客がいたのだ。
――――ならば、殺そう。
姿は見えないが確かに近くにいる先客に対し、男は自らの気配を絶って、先客が自分のテリトリーの中に入るのを待つ。
数歩で距離を縮め、身体を押さえ、確実に首を掻き斬れる領域。
男が瞬時に殺せる範囲内に向こうから先客が近付いてくるのを待った男は――――その一歩、範囲内に入った足音と気配に反応し、物陰から姿を現した。
獲物を捕らえるのは、思いの外簡単だった。
小柄な標的の首を掴み、足を引っ掛けて床の上に倒す。
視界の端にもう一人、獲物がいるのを確認した男は腰のベルトから使い慣れた手斧を引き抜き、押さえ付けた獲物の首を切断しようと振り上げた。
その時初めて、男は床に固定した獲物の顔を見た。
その顔を、男は知っていた。
振り上げた腕が止まる。同時に、自分の呼吸が止まった気がした。
息を呑んだ。思わず、首にかける手の力が緩む。
初めて見る、顔だった。東洋系の顔立ちで、幼い。
だが、男はその顔を知っていた。
その目を、その鼻を、その口を――――知っていた。
――――長年の飢えが、満たされる感覚がした。
もう一人の獲物が声を上げた。がちゃりと拳銃を構える気配がする。
だが、そんなことは男にはどうでもよかった。
目の前の存在に比べれば、そんなものは些細な事だった。
『……けが、してる』
幼い声が、男の脳を揺らす。
初めて聞く声だった。
だが、ひどく懐かしい声だった。
泣きそうになるような、声だった。
――――身を焼くような渇きが、癒される感覚がした。
目の前の幼子が手を伸ばし、男の頬に触れる。
その温もりを知っていた。
その手の優しさを、男は知っていた。
初めて知るはずの温もりと優しさを、男は前にも触れたことがあった。感じたことがあった。
『……だいじょうぶ?』
注がれる瞳の、慈しみを。
男は、知っていた。
――――欠けていたものが、埋まった。
男は手斧を手離す。
代わりに両手で、目の前の彼女を抱き締めた。
引き攣った喉から、嗚咽が零れた。
目の前が真っ白に焦がれて、涙が滂沱と溢れる。
嗚呼――――捜していたものは、ここにあった。
ようやく、男は見付けた。
ただ一つ、胸に空いた虚を満たすものを。
溢れんばかりの想いを――――生きる希望を。
その日、男は誓った。
ずっと彼女の傍にいることを。
もう二度とその光を手離さないことを。
己の全てを懸けて、彼女を護ることを。
とめどない想いを零す男と、男に抱き締められきょとんとしている幼女を――――全くもって状況の把握できない少年が呆然と見守っていた。
☆
「結局、この話に『悪魔』など存在しなかったという事か」
「いや、『悪魔』はいるよ」
「……男はただの人間で、一見悪魔の所業の様な事をした王子もただの恋に目がくらんだ人間だったのだろう?」
「この話に出て来る登場人物の、それぞれの結末は?」
「? 人魚の娘は泡になって消えた。男は娘と共に海に沈んでいった。
王子は人魚の娘と身体の半身を失った。人魚の姉達は妹を失い、同様に海の王国の王と妃は娘を一人失った。衛兵は命を失った。
海の魔女は薬を渡し――――待て」
「魔女は何も失ってないぞ?」
「――――そう。
この話において、“海の魔女”だけが悲劇に見舞われていない。
逆に“海の魔女”はむしろ、悲劇の火種になっているんだよ」
「そうか……人魚の娘が泡なる原因を与えたのは、魔女だ。魔女の薬によって人魚の娘は人間の脚を手に入れたが、代わりに声を失い、人間に人魚の姿を見られると泡になる“呪い”を受けた」
「そして妹を助ける為にお姉さんが用意した短剣を提供したのも、魔女だよ」
「王子を刺せば呪いが解けるという……いや、条件はもう一つあったな。確か、『人魚の血を被る』だったか――――それは、つまり」
「呪いを解くにも、最低二人の命が必要だったって事だよ。
王子の命と、人魚であるお姉さんの命。
お姉さんは言葉を濁していたけど、『被る』ほどの血が必要だってことは、そういう事なんだと思う。うちの子はそれを理解して、言ったんだろうね。
『わたしのために姉さんがそこまでする必要はないの』って」
「……何故、魔女はそこまでする必要があった? こうして見ると、まるで魔女自身が悲劇を求めているような解釈になるのだが…………」
「そりゃあその通り、魔女は悲劇を見たかったんだからね」
「何……?」
「願いを叶える前、魔女は必ず選択させていた。
人魚の娘にはリスクを説明した上で、薬を使うのか選ばせた。
そして短剣を使って呪いを解くか否か、姉を介して娘に選ばせた。
魔女は登場人物の選んだ選択の先にあるものを――――この場合は悲劇を見たかったから、こんなに遠回しな方法で大きく物語に関与したんだよ」
「……何故、貴様は魔女の気持ちがそこまで詳細に分かる?」
「だって、魔女からこの話を聞いたんだ。そりゃあ全部知ってるよ」
「――――――」
「本にも海の魔女について、こう書いてあっただろう?
――――『海の魔女はなんでも知っていて、どんな願いも叶える力を持っています』」
「……海の魔女は、作家か」
「だからこうなったんだ――――作家殿は自分が観たいモノのためなら、なんだってするからねぇ…………まあ、今回ばかりは少し僕も怒ったけど」
「娘が悲劇に巻き込まれたからか?」
「自分の子どもが辛い目に遭って、怒らないわけが無いだろう? ――――ペナルティとして、作家殿にはしばらく退屈な時間を過ごしてもらうことにした」
「……相当貴様、怒ったんだな。アイツにとって退屈は死ぬ程嫌なことにしか過ぎん。下手すれば死ぬぞ?」
「問題ない。何年かしたら僕が直接逢いに行く事にしてるし、妙なことはしないように監視も付けた」
「相当怒ってたんだな、貴様…………」
「ちなみに作家殿が知らない場所で色んなことが起きてるっぽい世界に送っといた」
「マジでキレたんだな貴様」
「誰だってそうするだろう?」
「俺だってそうするな」
「――――というわけで、この話における『悪魔』は“海の魔女”だったってことだよ。本人も案外ノリノリでやってたみたいだし」
「その様子が目に浮かぶな」
「作家殿曰く、『願いを叶える代わりに悲劇を与える――――まさに悪魔の所業であろう?』……だって」
「……すまんが、今回のペナルティで作家が懲りる様子が想像出来ないのだが」
「僕も話して思った。多分あの人懲りずにまたやらかす気がする――――確か前にもこんな事あった」
「……………………」
「……………………」
「…………さっさと行ってきた方が良いんじゃないか?」
「うん。僕も今そう思ったところだよ。
――――ただ、問題が一つ」
「……何だ?」
「…………仕事の期間が早まったと聞いて、僕に安らかな夜の時間は与えられると思う?」
「…………連日朝までコース確定だな」
「だよね…………早くても出発に十年かかるかなぁ……」
「……手続きは俺はしておこう」
「助かるよ……」
「あと……何だ…………幸運を祈る」
「死地に行くわけじゃないんだけどなぁ…………はぁ……憂鬱だなぁ……」
「――――まあ、逢いに行けるとしたら二十年後かな。
それまで、何もなければ良いんだけどね」
<了>
☆あとがき☆
三年程前から構想していたシリーズのまさかの一作目となってしまいました。
過去の短編のあとがきを見直すと異常にテンションの高いことがよく分かる文群です。
夏のホラー企画に応募し内容を考えていたところ、「そういえば冬は童話なんだよな」と思い、流れで有名な童話を読み直していたところ人魚姫のところで不意に「あれ、これって別に人魚姫王子に恋しなくても良くね?」と思った結果、今回のお話が出来上がりました。
勢いだけで書いたので凄まじい疾走感を味わえるだろうと思います。実際執筆時間は三日でした。
その上構想としては『プロローグ』と『エピローグ』があり、間に三部ぐらいの本編で済ませる予定でしたが、本編がなんと五部にまで及びさらに『エピローグ』の後に『over life re:prologue(この名前で作品管理してました)』が続き、『顛末』が後付けされました。
一番書いていて楽しかったのは『エピローグ』〜『顛末』までの間です。
そこで物語の内容をほとんど解説してしまっているのであとがきを書いた気になってましたが、投稿する際に「そういやあとがき書いてないや!?」となり、このあとがきに至ります。
ちなみに量としては400字詰め原稿用紙約51枚分になりました。
この通り短編としては多すぎる気がしたので、『お兄ちゃんとキョーダイ』のように長編として投稿しようかなと思いましたが、短編にした方が一気に読み易いかなと思い短編として投稿させて頂きます。
個人的には最後に生まれ変わった男と娘を出逢わせることが出来て満足です。
なお、生まれ変わった男と娘が出逢う話はまた別に書こうと思っています。
では、今回の主要登場人物について紹介します。
まずはプロローグで出てきた二人、『夜空の君』と『旧友』について。
全てを読んた方にはお分かりですが、この『旧友』はエピローグに名前だけ登場する『作家殿』であり、本編では『海の魔女』として登場した愉快犯です。
この『作家殿』についてですが、実は別の短編では語り手として登場しています。
その話を読んだ方なら「あれ……?」と思ったかも知れません。
そうです。繋がってます。
次に本編の方での主要登場人物、『人魚姫』と『男』、そして『王子』についてです。
『人魚姫』は最後に『幼女』となって『男』の生まれ変わりに出逢い、
『男』は最後に『人魚姫』の生まれ変わりである『幼女』に出逢います。
なお、年齢的には『幼女』は七歳、『男』は三十八歳ぐらいです。
そうです、ロリコ(ry
ちなみにこの二人も七年後ぐらいの設定で別の短編に登場していたりします。
探してみるのも面白いかもしれません。
『王子』に関しては完全に新キャラですが、彼もまた別のところで再登場させようと考えてます。
そうですね、今後の空想学園シリーズに出て来る可能性が高いと思います。
彼の活躍にご期待ください。
最後に、エピローグに登場した『夜空の君』と『おにいさま』ですが、『夜空の君』は置いておき。
『おにいさま』はこれまでの全作品の中でも初登場となります。
『おにいさま』は話している人物から分かるように『夜空の君』や『作家殿』の関係者でありますが、基本的に裏方の役割を担っているので、滅多に出てくることはないレアキャラです。ちなみに眼鏡キャラです。
彼をメインにした話を今後書く予定はありません。なお、『夜空の君』も同様です。
しかし『夜空の君』はわりと脇役で登場する予定なので、今後の作品で探してみるのもいいかもしれません。
今回の話で、色んなシリーズとの繋がりが明らかになってきましたが、これらの繋がりがもっと明確になるのはまだまだ先になりそうです。
また今後短編や長編で彼らの話を書いていけたらなと思います。
長くなりましたが、今回はこのあたりであとがきを終わらせていただきたいと思います。
それでは。
ご閲覧ありがとうございました!
<完>