再会
妖の記憶の欠片を見終わると、私はゆっくりと瞼を開いた。
私には、妖の姿だけじゃなくて記憶も見ることが出来る。読み取るように把握できることから、『読視取る力』。そんな風に自分で呼称している。
「どうやらこの妖は生前、ちかって子に拾われたみたい。親が厳しくてペットを飼うことを禁止していたみたいだけど、隠れて飼っていたようね。それが見つかってここに置き去りにされて、ちかちゃんが来るのをずっと待ちながら……そのままこの子は命を落とした」
「……」
妖の記憶についてを簡単に話した所、緑は黙ってただ妖のことを見つめていた。そして静かに妖へと問いかける。
「名前は?」
「ぼくね、シロ! ちかが付けてくれたの!」
シロは尻尾を振りながら、元気に緑の問いに答えている。名前を付けてもらったことが、よほど嬉しかったのだろう。
「そっか、僕は緑。ちかって子に会ったら……成仏しない?」
「しないよ! 僕はね、狛犬になったの! だけどまだ見習いなんだぁ。ちかがいつか会いに来てくれるから、ここから離れられないの!」
「狛犬?」
聞きなれない単語に緑は首を傾げる。
「神様のお手伝いをするの! ここの神社の神様は、街を守るのがお仕事だから、ぼくもそのお手伝いをするんだぁ! ちかが来てくれたら、僕はここから離れられていつでもちかの側にいられるの!」
シロの言葉に、私は納得していた。緑もおそらく理解したのだろう、表情では読み取れないけど首を傾げずにシロを見つめている。すると、緑は呟くように、静かに口を開き出した。
「ずっと、一人ぼっちだったんだね……」
緑は立ち上がり、私を見上げて来た。その瞳は力強く、何か決意の象徴にも思える。
「琴美お姉ちゃん、ちかちゃんを連れてこよう」
それは、予想していた言葉。きっと緑はそう言いだすのだろうと、瞳を見た瞬間に感じていた。
私が微笑みを向けて一つ頷くと、緑はシロへと振り返る。
「シロ、僕達がちかちゃんを連れてくる。だから待ってて」
「ほんと!? うん! 待ってる!」
シロの頭を撫でる緑は、表情こそ変えていないものの、どこか柔らかい雰囲気を纏っているように私は感じた。
そして、私と緑は並んで歩き出す。現世に取り残されたシロの想いを、ちかちゃんへと繋げる為に――。
ほど揺れるバスの中、窓際に座る緑は流れる景色を見つめている。立ち並ぶ多くの家屋や店、笑い合いながら歩く男女や街の人達、すれ違う車といったごく普通の景色。今では見慣れた街の風景も、緑と共に妖と関わることを決めた私の目には、どこか違って映り込んでいた。
色が――ハッキリしているからだ。妖を見ても見なかったことにしていた私は、妖と共に他の景色まで薄っすらとしたものになっていた。まるでモノクロの世界。自分が今まで否定していたものを受け入れると決心したことで、私の世界に色が戻ったように感じた。
バスから降りた私達は、しばらく並んで歩道を歩き、一つの家の前で立ち止まった。
私はその家の外観、周りの景色、そして近くにある公衆電話に目を配らせて、一つ確信の声を漏らす。
「ここだ」
シロの記憶を見たときに映り込んでいた景色から、私はちかちゃんの家をそれとなく把握していた。今では少なくなった公衆電話を目印に、通ったことのある場所だったから推測は安易だった。都会ともなれば難しいだろうけど、この田舎なら大体の地理は頭に入っているからだ。
緑は私の言葉を聞くなりそそくさと足を進め、すでに玄関の呼び鈴を押していた。
「はーい。あら? ちかのお友達かしら?」
玄関の扉を開けて中から出てきたのは、ちかちゃんの母親だった。目の前に立つ緑の姿を見て、娘の友達だと思ったようだ。
「はい。ちかちゃんはいますか?」
少し驚いた。なぜなら、緑は表情一つ変えずに、当たり前のように友達だと言いのけたからだ。まぁ、そう言うしかないだろう。友達でもないのに、知らない家にいきなり訪ねるなんてことはないのだから。
「ちかー! お友達が来てるわよー!」
ちかちゃんの母親は家の中へと振り返り、奥にいるのであろうちかちゃんへと呼びかけていた。すると間もなくして、フローリングの床をバタバタと踏み鳴らす音が響いた後、妖の記憶の中で見たちかちゃんの姿が玄関へとやって来た。
笑顔を浮かべながら走って来たちかちゃんだったが、玄関に立つ母親の横に位置すると、きょとんとした面持ちで緑を見つめた。
「あれ? 私のお友達じゃな――」
「ちかちゃん急に来てごめんね。どうしても伝えたいことがあったんだ」
ちかちゃんは、おそらく友達ではないと言おうとしたのだろう。だがその言葉を、緑は強引に遮った。
「伝えたい……こと?」
そのフレーズが気になったのか、ちかちゃんは首を傾げている。緑はそんなちかちゃんを真剣な瞳で真っ直ぐ捉え、静かに口を開いた。
「シロが、待ってる」
「――っ!」
ちかちゃんは目を見開き、衝撃を受けたかのように困惑の表情を浮かべ、両手で口元を押さえた。そして母親の顔を見上げる。
母親は少し困ったように苦笑いを浮かべ、ちかちゃんへと諭すように口を開く。
「も、もう一年前のことよ」
「でも、ずっと待ってたのかも……」
ちかちゃんは徐々に涙目になって、唇を震わせている。
「そんなわけないでしょ。”ただの犬”なんだから」
しかしその言葉は緑の癇に触れたのか、珍しく静かに怒った表情を露わにさせた。
「ただの犬なんかじゃない。シロはちかちゃんのことが大好きで、会いたいから、側にいたいからってずっと待ってるんだ。今でもいつかきっと会いに来てくれるからって、ちかちゃんを信じてずっと待ち続けてる――”立派な犬”だ」
緑の真剣さが滲み出ているからか、母親は黙り込み、困った表情を浮かべている。
隣にいるちかちゃんは母親の脚へとしがみつき、涙を浮かべながらも、その滴を零さない様に我慢しながら力強い目線を放っている。
「お母さん、シロのところへ連れて行って。あんなお別れの仕方、私は絶対にずっと後悔する」
ちかちゃんの必死の思いに、母親は何を言っても聞かないと感じたのか、頭を抱えて一つ大きな溜息を漏らした。
「はぁ……、気の済むようになさい。それでもお母さんはペットを飼うことを許しませんからね」
「うん……分かってる。きちんとお別れする為に、もう一度シロに会いたいの」
キーを回し、動き出すエンジンの音。ちかちゃんの母親の車に乗り、シロの待つ『犬神神社』へと向かい始める。助手席にちかちゃんが乗り、私と緑は後部座席。
静かに家から出発し、あの日――ちかちゃんがシロを追いかけ続けた道を、今度は終着点まで走り抜けていく。
辿り着いた先は、神社の入り口にそびえる一際大きな鳥居の前。どうやら徒歩用の山道の他に、車で登れる車道が通っていたようだ。
私達は車から降り、ちかちゃんも降りてきた。鳥居の先にある、数段の大きな階段の前まで来ると、ふと緑が立ち止まった。そして踵を返して車まで戻り、運転席のドアを開け放った。
ちかちゃんの母親はきょとんとした面持ちで、急に開け放たれたドアの先に立つ緑を視界に映した。
「ちかちゃんのお母さんも一緒に来て」
「え……私はここで待ってるわ。ちかが満足したら一緒に戻って来てちょうだい」
「だめ」
緑は母親の腕を掴み、強引に引きずり出そうとしていた。
抵抗していた母親も緑の強引さに負けたのか、浮かない顔をしているものの、後ろから静かに付いてくる形となっていた。
拝殿の横まで足を進めた私達は、そこで立ち止まると緑が縁下へと潜り出した。そして、一つの古ぼけたダンボールを外へと引きずり出した。
ちかちゃんはダンボールに近寄り、足元にある中身のないそれを見ては、俯いたまま静かに口を開き出した。
「シロは? シロはどこなの」
ダンボールを挟んで向かいに立つ緑が、その言葉に静かに答える。
「シロは……ここにいる」
静かに告げる緑の言葉を耳にしたちかちゃんは、ぎゅっと下唇を噛み締め、両手でスカートの裾を強く握りしめた。
「うそつき! いないもん! シロは、シロはっ――」
ちかちゃんはポロポロと涙を零し、ゆっくりと顔を上げて緑と視線を合わせると、声を振り絞るようにして唇を震わせた。
「シロは……死んじゃったんでしょ?」
緑は何も言葉にはせずに、ただ静かに俯いた。
「うわぁぁぁぁぁんっ」
ちかちゃんはしゃがみ込み、ダンボールを両手で抱えるようにして、心の底から溢れる気持ちを放出した。大粒の涙が頬を伝い、ただ感情に任せるように泣きじゃくる声が、その場を包み込んだ。
「ごめんね、ごめんねシロっ……。遅くなっちゃって、ごめんね……」
ちかちゃんの母親も思うところがあるのか、少し離れた後ろから、泣きじゃくる娘の姿を目にして静かに俯いていた。
緑はしゃがみ込み、ちかちゃんを真っ直ぐ捉えるとおもむろに口を開き出した。
「でもシロは消えたわけじゃない。街を守る犬神になったんだ」
「……え?」
ちかちゃんが静かに顔を上げると、緑が私に目配せをしてきた。その意味を、言葉なくとも私は理解した。
私はちかちゃんの側に寄り、静かに小さな肩へと手を添えた。
――クゥン。
真っ赤に瞼を腫らすちかちゃんを見上げるように、ダンボールの中からシロの鳴き声が小さく響いた。
「シロ!」
ちかちゃんは先ほどまで何も無かったダンボールの中に、急にシロが現れたことに少しビックリしたようだが、その姿を再び見れた嬉しさで笑顔を取り戻した。
無邪気な笑顔を浮かべてシロを抱きしめ、頬をペロペロと舐めるシロの舌がくすぐったいのか、その度に更に笑顔を浮かべている。
首を傾げながら覗き込もうとしている母親に、私はそっと寄り添ってその背中へと触れた。
「えっ――! うそ……でしょ」
急に楽しそうにして何かを抱える娘の腕の中に、先ほどまでいなかったはずのシロの姿を目にしたことで、母親は驚愕の面持ちを浮かべている。
ちかちゃんはシロの両脇を抱えるように目線を合わせると、静かに口を開き出した。
「ごめんね、シロ。一人ぼっちにさせちゃって……、ずっと待っててくれたんだよね?」
「ううん! ちかはきっと来てくれるって信じてたから! もう一度ちかに会うことが出来て、ぼくは凄く嬉しいよ!」
ちかちゃんは胸の中へとシロを包み込む。
「私も嬉しい! ずっと、ずっと会いたいって思ってた」
優しく胸の中へと包まれるシロは、目を閉じて穏やかな表情を浮かべると、安堵の息を漏らすようにクゥンと一つ鳴き声を漏らした。
「ちか、あの日ぼくを助けてくれてありがとう。一緒に過ごした楽しかった思い出、ぼくずっと忘れないよ」
そして、シロの体が段々と薄くなっていく。
「シロ? やだ……行かないでシロ!」
「泣かないで。姿が見えなくなっても、側でずっとちかを守り続けるから」
その言葉を最後に、シロの姿は無数の小さなシャボン玉のようになって、ちかちゃんの腕の中から天へと昇っていった。
風に揺られることも無く、ふわふわと遠く彼方へ消えゆくその姿に、とても綺麗な魂の結晶のように感じた。そしてそれと同時に、想いを遂げて訪れた幸福の果てに、儚さを感じたのだった。
緑は静かに立ち上がり、母親の前へと足を進めた。見上げる瞳には、真剣さが漂っている。
「ちかちゃんを本当に大切に想うなら……いつも前に立つんじゃなくて、たまには一緒に横を歩いてあげてください」
緑の言葉にちかちゃんの母親は俯き、瞳に少し涙を潤わせた。
「えぇ、そうね」
そして呆然と天を見上げるちかちゃんへと寄り添い、優しく声をかける。
「帰りましょう、ちか」
ちかちゃんはゆっくりと立ち上がり、母親と共に元来た道へと歩み出した。その中で、母親はおもむろにちかちゃんの手を握り、優しい口調で口を開いた。
「お母さんと一緒にきちんとお世話するなら、犬を飼ってもいいわよ」
その言葉に、ちかちゃんは首を横に振ると、満面の笑みで母親を見上げた。とても清々しく、太陽のように明るい、とびきりの笑顔を。
「大丈夫! だって私には、”シロ”がいるから」