確かな温もり
過ぎ去る風を追いかけるように、ふわふわと舞い散る綿毛達。偶然に私達を引き寄せたこの場所が、まるで出会いのきっかけを授けてくれたかのよう。
小さなその一つ一つの身が離れない様に、緑と名乗った少年は、旅路を始めた綿毛達にそっと優しく乗せるように口を開いた。
その綺麗な名前と、言葉を交わしてくれた嬉しさで、自然と私は微笑みを零してまう。
「私は、青空 琴美。高一」
「僕は小六」
とても単調な、簡単な、短い言葉のやり取り。お互い顔を見合わせもせずに、視線はずっと正面の川へと向いているけれど、ぎこちないながらも私達の心はきっと、お互いに向かい合い始めているのだろう。
拒んでいるのとも違う、進んで関わろうとしているのとも違う。ただその場所に、ただその空間に、ただ一緒にいるだけの私達。
同じ景色を共有しているこの時間の流れの中で、私はこの少年に不思議と意識が向いてしまう理由を、どことなく悟り始めていた。
この少年は――私と似ているのだと。
「どうして一人でここにいるの?」
「……」
ほんの少しだけ心にくすぶっていたその疑問が、緑との類似点を感じ始めると大きく顔を出し始めた。
緑はその問いに沈黙で返してきたが、一呼吸置くと、物怖じせずに強い意志の力で口を開き出した。
「ここが、お母さんとの最後の場所だから」
”最後の場所”、静かに届いたその一つのフレーズが、私の心を小さく揺さぶった。
――そっか、同じなんだ。
この場所は、脳裏に唯一残る幼い頃の記憶。小さな私と父を描くその記憶は、この場所が最後なのだから。
それゆえに、私にはその言葉が心に突き刺さる。
とても悲しい意味合いの言葉、それは私にも分かるし、この子も悲しいことだって理解して言っている。だけれど私には、どうしてその言葉をこんなにも真っ直ぐに言い放つことが出来るのか、分からなかった。
「お母さんと、はぐれちゃったの?」
「違うけど……うん」
違うけど違わない、私の問いに、緑はそんな矛盾を返してきた。
私は顔を横へと向け、初めて緑という少年の顔をその目に捉えた。短い黒髪に、幼い顔立ち、やや釣り気味な目に生意気そうな印象を受けるが、光を失ったかのような覇気の無い瞳を見ると、何か強い意志の力だけでかろうじて生きているような、そんな孤独な印象を感じた。
私はその横顔を捉えたまま首を傾げると、緑は目を合わせずに静かに口を開き出した。
「お母さんと車で橋を渡っている時に……急に橋が崩れて落ちちゃったんだ。僕はお母さんのおかげで助かったけど……代わりにお母さんは……、車と一緒に沈んじゃった……」
その言葉の意味を、私はすぐに理解することが出来た。
――最後の場所って、そういう意味だったんだ……。
だけど、それこそ胸を切り裂くほどの悲しい思い出だと思う。母親との今生の別れを、どうしてこの子は真っ直ぐに見つめられるのか。
「そうだったんだ……ごめんね、辛い事聞いちゃって」
「いいよ……別に」
別に気にすることじゃない。まだ小学生なのに、私を気遣かって不愛想にそう返す緑に、私の心は居た堪れない気持ちで溢れた。
そっと緑の肩に腕を回して引き寄せ、頭を優しく撫でてあげる。
「強いんだね……君は」
私の一言に、緑は隠すように私の胸へと顔を埋めると、小さく一言呟いた。
「強く生きなさいって、言ってたから……」
緑はそれだけ言うと、小さく肩を揺らしていた。私は答えることが出来ず、ただ優しく撫で続けることしか出来なかった。
この子は強い。まだ小学生でありながら強烈な悲劇を経験し、それを受け止めた。母親との約束を守る為の強い意志が、この子の全てであり、心を成長させたんだ。
だけどそれは、大人へと辿るには茨の道。ましてやそんな急成長をしてしまったこの子は、他の同年代の子とは明らかに異質に育つ。すでに孤立した自分の世界が出来てしまったこの子は、どこまで想いを守り切れるのだろうか。
「一つ、私も自分の事を教えてあげる」
痛み分けではないが、この子の過去を知った私は、自分の事を話してもいいと思った。
「私ね、小さい頃から不思議な物が見えるの。妖怪、幽霊、化物……色々な言葉があるけど、私は妖と呼んでる。それが私には見ることができるの」
緑は腫らした瞳で私の顔を見上げると、静かに一言零した。
「怖く……ないの?」
私は微笑みを返し、緑の頭を撫でながらその言葉に繋げる。
「最初は怖かったよ。私にしか見えてなかったようだし、誰に言っても信じてもらえなかった。それが原因でいじめられたこともあったから……今では見ないフリをしているの」
なんでこんなことを話したのかは自分でもよく分からない。いつものようにきっと白い目で見られるだろう、そう思ったのだけれど、私を見上げる緑は真剣な面持ちを浮かべてた。
「僕のお母さんを、見ることが出来る?」
緑の言葉に、私は面を食らった。言葉を詰まらせて、きょとんとしてしまう私は、頭を撫でるその手すらも止めてしまった。
虚言だと捨て切らずに、的確に意図を把握するだけで留まらず、一瞬にして自分の利点に繋ぐことが出来るなんて、正直驚愕してしまった。
「緑がお母さんを求め続けるなら……きっと」
私の言葉に緑は安心したのか、頭を再び胸へと埋めると、小さく口を開いた。
「琴美お姉ちゃんは、どうしてここに来たの」
緑の素直な疑問に、私は若干苦い顔を浮かべてしまったが、川の景色を視界に捉えると自然と口が開き出した。
「急にね、お父さんがいなくなっちゃったの。探しても探しても見つからなくて、私はこの街に住む親戚の家に引き取られたの。あの橋はね、私が小さい頃にお父さんと来たことがあって、ここにくれば何かあるかもって思ったのかなぁ……気が付いたら橋の上にいたんだ」
「……お父さん、見つかるといいね」
小さく返す緑の言葉に、私は少し心に痛みが走った。その言葉は私の本心でもあるけど、緑の気持ちを裏切るような気がしたからだ。
私は――彷徨うのに疲れてしまったから。
「そう……だね。でも、もういいの。私はきっと、受け入れられないだけだから。周りの人はもう諦めた顔をしているし、私に諭すように言ってくる人もいる。だから私は――」
「諦めるの?」
緑が突然、私の言葉を遮って来た。顔を埋めて視線こそ合わせないものの、その強い口調に私は戸惑ってしまう。
「だ、だっていくら探しても見つからないから……」
私がそこまで言うと、緑は体を起こし私を正面で捉えて来た。今までとは違う、強い感情の表れが滲み出ている。
「あれも欲しいとか、これも欲しいじゃなくて、琴美お姉ちゃんが欲しいのはお父さんだけなんでしょ? 諦めるには、少なすぎるよ。たった一つを追いかけるのは、僕にだって出来る」
何も――言い返せなかった。
守るのは、追い求め続けるのは、たった一つの想い。私は宛てのない捜索の闇を彷徨い続けたことで、その想いすら霞んでしまった。疲れたからと言い訳して、私は自分の気持ちから逃げようとしていた。こんな小さな子に諭されるなんて、私はどれだけ弱いのだろうか。
呆然とする私を尻目に、緑は再び言葉を繋げて来た。
「大人達が探しても見つからないなら、違う探し方をすればいいと思う。琴美お姉ちゃんにしか出来ない、琴美お姉ちゃんだけの探し方を」
「私だけの……探し方?」
正直理解が及ばなかった。この子が何を言いたいのか読めない。だけど私は、次に緑が言い放つ言葉に、またしても驚愕してしまった。
「妖にお父さんのことを聞けば、何か分かるかもしれない」
私は目を見開き、言葉を失った。あまりにも馬鹿げた、私には考えもしない、なんて発想をする子なんだろうと。しかしそれと同時に、可能性を見出した私もいて、正直驚き固まるしかなかった。
「僕も手伝うから、一緒に探そう」
「……ありがとう」
諦めかけていた私の心に、緑という不思議な少年が心の穴を埋めてくれたように感じ、自然と涙が溢れ出していた。
私と緑は立ち上がり、お尻に付いた草を軽く払うと、土手の上に通った道へと上がっては、並んで歩き出した。
日が昇っては沈む一日の流れ。見上げる空は、昼間と夜とで顔を変える。それはどちらが欠けても成り立たない。
繋いだ手の青空と星空が、まるでそんな空と空を繋いでいるかのように思えた。
握った掌の中に伝う確かな体温。久しぶりに感じた人の温もりに、私には緑のこの小さな手が、とても愛しく感じたのだった。