第四章 2)アリューシアの章
ギャラック家の軍勢が敗走していき、その戦いは完全に終結したにもかかわらず、あの魔法使いはボーアホーブ家の屋敷から出ていきはしなかった。
アリューシアはその辺りの事情に詳しくはないのであるが、どうやら約束の報酬をきっちりと回収するため、彼は屋敷に居座り続けているということらしい。
ボーアホーブ家はその魔法使いへの報酬を出し渋っていたのである。
しかしそれも仕方のないことであった。その報酬はあまりに膨大。ボーアホーブ家といえども、簡単に供出出来る額ではない。
「当初の約束通りの報酬を馬鹿正直に支払えば、我々は破産してしまうだろう。領民の財産の半分を宝石にして支払うなど無茶なこと」
「わかっています父上。それでも約束は約束。違えることは出来ません」
「もちろんだ、ボーアホーブ家の評判に関わる。しかしお前はあの男と共に戦い、その信を得たのであろう。交渉の余地はあるはずだ」
どうにかして値引きして貰えと、父は兄のアランに言うのである。
もちろん今はアランが領主。最終的な決断は彼が下すことになる。
「出来る限りのことはしています。しかし期待に応えることが出来るかどうか」
アランは、屋敷に仕える会計士、領地に住む豪商や裕福な貴族たちと連日会い、掻き集められるだけの宝石を掻き集めていた。
もちろん、それらは収奪するのではなく、ボーアホーブ家が買い取るのである。
いずれ、税金を上げてその分を緩やかに賄うことになるだろうが、ボーアホーブ家の貯め込んだ全ての財産を投げ打っても、約束の報酬に届きそうにない金額。
やはり父のアドバイス通り、交渉して何とか値下げしてもらうしかなさそうである。
実際、アランは何度も交渉に及んでいた。しかし魔法使いは首を縦に振ることはない。
だからと言って、向こうが痺れを切らすまでダラダラと交渉を引き延ばせばいいという問題でもない。
その間、あの魔法使いはボーアホーブの屋敷に居座り続ける。
彼の存在は、ボーアホーブ家に対して、大変なる圧迫、心理的負担をもたらしていた。
誰も彼もが一刻も早く、あの魔法使いがここから去ってくれることを望んでいる。
ボーアホーブ家は、彼の魔法の凄まじさを間近で体験しているのだ。その扱いを間違えてしまえば、敵の軍勢を鮮やかに虐殺した手際を、次はこちらに向けてくるかもしれない。
ボーアホーブが彼を恐れ、忌み嫌うのも当然。
しかしこの屋敷でただ一人、あの魔法使いがこの屋敷に居座り続けているという現実を、心の底から喜んでいた者がいる。
アリューシアだ。
あの魔法使いは昼過ぎまで眠り続け、日が沈み始める頃、手持ち無沙汰に、屋敷の庭を歩いたりしていた。
アリューシアはその姿を窓から見ている。
(これほど美しい人間がこの世に存在していたなんて。しかも彼は私たちを救ってくれた)
天使でしょ? 翼は見当たらないけれど。
しかも純白の衣装ではなく、闇よりも濃い黒だけど。
彼の姿が目に入るたび、アリューシアの心臓は跳ね上がる。頬は上気して、呼吸するのが苦しくなる。
そしてなぜだか苦しくて堪らないのに、全てのものに感謝したくなる。
太陽に、花に、風に、空に。いや、戦争すら、アリューシアは感謝したくなるのである。
(だって彼と出会えたのは、ギャラック家のおかげでしょ? 彼らが私たち領土に侵入してきたから)
アリューシアはこっそりと彼の姿を窓から眺めるだけでなく、彼の影を踏むことが出来るくらいに近づいたことだってある。
その魔法使いはボーアホーブ家の夕食会に、気まぐれに列席することがあったのだ。
もちろん、ボーアホーブ家と親交を深めるためなどではなく、嫌がらせのためであったようであるが。彼は自分の存在を周囲に示すことで、さっさと報酬を支払えと催促していたのである。
ボーアホーブ家に連なる一族、家臣、その家族などが列席する夕食会に、あのいつもの黒い装束を身に纏って現れる。
彼はボーアホーブ家を救った救世主である。その事実を認めない物は誰一人いない。
多くの者がこの魔法使いに深い感謝を捧げている。彼が尊敬されているのは間違いのないことであろう。
しかしそれ以上に、恐れられ、忌み嫌われている。
アリューシアが魅力に思うのは、この魔法使いがその事実に少しの気後れもしていないこと。
むしろ、恐怖と嫌悪に満ちた視線が心地良いとでも言うかのように、ふてぶてしい態度で、それを受け止めている。
その傲慢な態度が堪らないのである。
身のこなしは優美で華麗、食事をする姿も美しい。
どうやら完璧なマナーを身につけているようである。この魔法使いはアリューシアと同じ階級、上級貴族の生まれなのではないか、そんなことを思わせる。
しかし彼は貴族的であるようでいて、それとはまるで別物だということが、その傲慢な態度からよくわかるとアリューシアは思う。
貴族たちは、女性からの温かい言葉を冷笑で報いたり、無視したりしない。男性からの握手の手を振り払うわけがない。貴族が貴族たりえるのは、その礼儀正しさによるのだから。
しかしその魔法使いはそのようなものにまるで顧慮しないのだ。
(本当に素敵だわ)
アリューシアは熱い眼差しを魔法使いに送る。
周りの大人たちは、彼と食卓を同じにすると食事が不味くなると言いたげであるが、アリューシアは彼らと違う理由で食事が喉を通らない。
果てしない胸の高鳴りが、育ち盛りのアリューシアから食欲を奪うのだ。




