第零話 タルジュ後編
闇に刀身が閃く。女が襲い迫ってくるまえに、アレンが鋭く打ち込んだ。
女の左肩から右脇腹を両断する。そんな殺人術を、彼は幼少から徹底的に叩き込まれている。
だが、
そこで――気付いた。
鋼の刀身が、夫人の血で溶けていたことに。
千切れた刀が床にぶつかって、金属音が立った。女が分厚い唇をつり上げる。さきほどアレンを絞め殺しにきた、三日月状の笑み。
「ぁ、ぁ……っ!」
体が震える、芯から凍えて、どうしようもなく止まらない。
柄を取り落とした。
アレンは首を振りながら後ずさる。腰から力が抜け、尻から床に転んだ。
声にならない呼吸の塊を吐く。
涙が、伝った――
「娘が、いたの。……カメオより下の子よ」
女は妖艶に微笑み、首を傾げた。太い綱が、床を打ちのめす。鈍い音で床が震える。アレンは這う這うの体で避けると、綱――に見えた女の下半身に驚いた。
蛇の尾だ。
二足歩行していた女の足が、いつの間にか蛇の胴尾に成り代わっている。月明かりがあっても鱗は黒く闇に沈んで光を吸収する。滑らかな蛇の尾が女の股の付け根から生え、一つの人頭蛇尾となっているのだ。
蛇尾の威力は、へしゃげた床が物語った。
すりすりと、蛇尾が床を這う。彼の首を絞めたのも、これだ。
「ぁ、ぁ……っ!」
絶望で視界が狭くなっていく気がした。暗闇のなか、琥珀色の目だけが爛々と光っている。
逃げようと這った。だがすぐ追いつかれる。
抑えられ、脚を絞められた。視界に火花が散る。
――これが、カガチ人……。
冷静なだれかが、心のうちでつぶやく。また笑い声が聞こえる。――けけけけッと。
アレンはギシギシと鳴る脚を放って、それでも逃げようと這った。足が千切れても構わない。どうにか――。
祈りは届かず、太い蛇尾が電光石火の勢いで彼の全身に巻き付き、縛り上げる。女の黒鱗のうえに彼の金髪が広がった。
「シャモアという、まだ十にもならない可愛い子だった」
女は蛇胴をうねらせ、音もなくアレンに顔を寄せると、左目を細め、右目をこれでもかと見開いた。
「お前の父が、殺したのよ。ほかの一族みなと同じように、あんなに幼かった可愛いあの子を心臓突き刺して殺したのよっ! 明るくて奔放で、歌と踊りが上手だった、あの子を!」
「……!」
胸、腰、腿を同時に絞め上げられ、アレンは顔を歪めた。それでも、さきほどの絞めより強くない。顔を歪めながらも様子を見ると女は微笑み、指先でそっと彼の首にできた絞め痕に触れた。
「そう、すぐにお前を殺しはしない。毎日毎日、お前たちへの恨みを晴らすためだけに生きてきたのだもの。どうやって殺すのが一番残酷か、ずっと悩んできたわ。――そうしてね、思いついたの。お前が壊れるまで、このままずっと弄んで――それから、お前の首をあの男に贈るのはどうかしら? 私の一族を根絶やしにし、末娘のシャモアを奪った――お前の父にね」
彼女が細長い蛇の舌をちらつかせると唾を一滴、落した。アレンの服が焼ける。ジュッと鈍い音がしてとっさに歯を食いしばった。
つんと鼻を突く肉が焼ける匂い。
胸板に一点、紅い爛れ。
女が指を滑り込ませると、オレンジ色のマニキュアが付いた爪でアレンの服を切り裂いた。
「っ……!」
女の顔を見据え、力なく首を横に振る。声が出ない。戦わねば。心が叫んでいる。
だが、どうやって。
思考が空転する。
怯えた蒼瞳、
命乞いする顔――
女が黒い舌を出し、笑う。
「坊や。私とキスするとどうなるか、知ってる?」
アレンは首を横に振った。無論、拒絶のために。白い胸板を滑る小麦色の指が、針金を縒り合わせたような躰の、田に割れた腹筋を抜けて臍をピンと弾く。
「硫酸を、口の中にぶち込まれるようなものよ。――どんな感じかしら?」
顔を白くする彼の前で、女は無邪気に唇をペロリと舐めた。その透明な、生温かい唾液がゆっくりと近づいて来る。石を溶かす、酸が。
――やめろ!
彼の絶叫は吐きだされることはなく――厚い唇が、彼の音を喰い殺した。
娘のカメオは自室で音を楽しんでいた。生前、妹がくれた未完の舞曲だ。カメオの屋敷はハガルで出来ているため、鼻歌を拾って遠く反響する。
蛇は夜行性だ。
人に比べて物はよく見えず、頭にあるピットと呼ばれる複数の穴を通して近くにいる動物の体温を感じ取る。ゆえに、少年がいくら息を潜めても、エーリカにはすべて筒抜けだった。
カメオは妹の曲に合わせて、しなやかに舞う。
気分が良い。
――今日屋敷に来た少年が、カメオが望んだとおりの穏やかな人間だったからだ。
(『あの男』の子どもだから、最初は私たちを殺しにきたんだろうって思ったけど……彼はきっと、そう言うのとは違うわ。今までどおり静かに暮していれば、あの男だって私たちを忘れるはず……。復讐なんてお父さまたちが望まないもの。お母さまはそれに気付いてないだけ――)
カガチ人は基本的に争いを好まない。このように自分が気に入った曲に合わせて、舞うのが好きな種族だ。
円舞のステップを終え、カメオは首を傾げた。そろそろ母が働き始める夜だと言うのに、一向に動く気配がない。近くに母の体温は感じられず、どうしたんだろうとつぶやきながら、部屋を出た。
(許嫁か……)
少年の顔をふと思い出して、カメオは頬を赤らめた。五年前に一族を亡くして以来、カメオは恋愛をしていない。
恋に恋する乙女、と言うのもあるだろう――。
あの少年を見たとき、カメオは惹かれるものを感じた。
血が飛ぶ。視界を覆うほどの大量の血。
「っ……!」
歯を食いしばる彼の顔は、それまでとは明らかに変わっていた。
紅い血が黒いカガチの血と交わる。
目を見開いた女は、己の心臓に深々と突き刺さった千切れた刀を見つめていた。
「そん、……なっ……!」
アレンは自分の指を斬り落とさんばかりの勢いで刃を握りこみ、女の胸に突き刺していた。怯え、焦り、恐怖――そう言った負の感情をすべて削ぎ落し、暗い瞳で女を睨んでいる。
白い煙が立った。アレンの右腕が黒い血を浴びて爛れていく。かまわず、彼は刃で女の心臓を十字に裂く、深く、正確に抉り抜く。
女の瞳がぐるりと回る、その腕が痙攣し、少年の全身を縛る蛇の力が抜け、だらりと床に落ちる。黒い血が噴き、床に広がった。
アレンは相手が完全に事切れたのを確認するまで、千切れた刃を離さなかった。
「はぁ……、はぁ……っ、……はぁっ……!」
肩でどうにか呼吸を整える。齧られたチーズのようにボロボロになった刃を捨てた。両腕が、ささくれた竹ほど細まり、見る影もない。
(あと、一人……)
ぼやけた思考で、カガチの娘の姿を思い浮かべた。青い薄暗闇のなか、蒼瞳が静かに底光る。
――気配がした。
客間の入口に駆けてくる気配。アレンはテーブルから燭台を手に取る。黄金の切っ先は月明かりを反射していたが、アレンの血にまみれるや闇に溶けてしまった。
客間に現れた次の女は、斃れた母親を見るなり目を瞠らせた。
少年は駆る。
――耳は、なんの音も拾わなかった。
カガチ人の水――『ナダ』。
それは地球人の神経を侵食する、毒。
二人目の女は何事か泣き喚いたあと、ケラケラと嗤った。
燭台を握り、女に向かって駆けながら少年は思う。――ああ、これか。先程から聞こえていた笑い声は、これだったのかと。
女は――娘のカメオは、血の涙を流して笑った。
「どうしても……――どうしてもあなたがたが許せないのです!」
ケラケラとけたたましい声を上げた娘は、太い蛇尾を出現させると、電光石火の速さで少年の首に巻き付けた――。
「ジェフさま」
部下に呼び止められ、アレンの父は足を止めた。折り目正しく着こなした軍服の下に、引き締まった体躯がある。人間の体脂肪率を極限まで擦り減らした男の眼差しが、鋭く部下をふり返る。
「先程、アレンさまが無事に戻られたようです」
「……ほぅ! ついにやりおったか、あやつめ!」
父が口端を三日月状につり上げると、満足そうに喉を鳴らした。
左手の窓から青空を見上げる。陽が昇ったと言うのに、まだ白い月が浮かんでいた。
父は部下に問いかけた。
「人を喰うのはなにか、知っているか?」
突然の問いに、部下は当惑しながらも答えた。――欲、でございましょうか? と。
父は一層笑みを深くしながら、首を横に振る。
「鬼よ……。人を喰らうは、古来より鬼の所業。情けを捨てれば、鬼の道を行く一歩となる」
「……鬼の、道……」
「そう。そして人の上に立つ者も、鬼でなければ務まらぬ。だが、あれは甘い。剣の腕は一流でも、情けを捨てきれずに居る。人のままでは、世に跋扈する鬼どもとは渡り合えぬというのに。
なれば、あれの人の部分を鬼に育て上げるのが親の務め。こたびは、そのための試練ぞ」
父が喉を鳴らす。
――カガチ人は、銀河連邦軍がいまだ解析できない特殊な会話法にて意志疎通を図る。その術を戦場に持ち込まれては、父の率いる軍勢が、甚大な被害を受ける火種となるのだ。
銀河最強は、『地球人』でなければならない。
情を捨て鬼と成った父は、脅威に対して一切手を抜かない。
ゆえに、
父は視線を左に転じた。机に花を一輪、差してある。
「蛇の生殺しは人を咬む、か……。覚えておかねばな」
「どうして……?」
アレンは問う。
目の前に娘がいた。その場に蹲り、両手で顔を覆って泣き叫ぶ娘が。
「どうして俺を――」
殺さない?
彼の問いに答えず、首に巻き付いた蛇尾がゆるりとほどけていく。くず折れたアレンは、娘をじっと見据える。
「ふ、ふふ――」
娘が喉を鳴らした。
顔を覆っていた手を退けて、娘は静かに喉を鳴らす。
アレンは床に手をついて、咳き込みながらも体を起こした。両腕は崩れて原型がなく、わずかな接触でも激痛を伴う。
娘は嗤い――微笑んだ。
タルジュの花のように密やかに、慎ましく。
「ねえ、お母さま。そろそろお夜食の時間ですよ、起きてください」
娘は朗らかに、床に倒れた母の下へ歩み寄った。蛇尾は人の足へと姿を変え、アレンが屋敷を訪れたときの姿で、母に話し掛けている。
物言わぬ夫人へ。
「今日はフレーズからジャムを作ってみたの。お母さまが好きなフレーズの実よ。シャモアが昨日採って来てくれて――あ、そうだ! お父さまにもおもてなししなくちゃね。遠出の狩りに出て行かれたから、きっとお腹がすいているわ。バルマーイのソテーなんかいいと思うんだけど、どうかな?」
アレンはうすら寒いものを感じながら、娘に声をかけた。
「おい、その人はもう――」
死んでいる。
俺が、
――殺した。
直接言えず、アレンは唇を引き結んだ。喉が熱い。ずっと悪寒に震えていたのに、今はとてつもなく熱い。
なにも考えられなかった。
娘は、妹が作った曲を歌いだす。流麗で穏やかな旋律。黒い血と、見開かれた琥珀の目と、肉塊と化した夫人の死体がなければ――きっと美しく響いた音。
その姿を見て、彼は不意に理解した。
自分がなぜ、この屋敷に呼ばれたのか。
父が一体、彼女たちになにをしようとしていたのか――。
「――ねえお母さま、シャモアの新曲お聞きになった? すごく穏やかで流麗なの。きっと皆も気に入るわ」
拳を握った。
アレンは強く、拳を握りしめた。
彼女を壊し――狂わせ、失わせたのは――ほかでもない。
「ねえ、綺麗でしょう? シャモアはね、こんなの子どもっぽい曲だって言って、続きを作ってくれないの。でも、私はとても気に入ってるわ。――ねえお母さま、今度のお祭り、この曲はいかがかしら?」
娘の弾む声を聞きながら、アレンは項垂れた。
(――すまない)
謝っても無駄だ、殺した事実は変わらない。変えられない。
彼女を壊し、
彼女から母を、最後の家族を奪ったのは――
(――俺は、あなたの――)
あのとき大人しくしていれば、こんな姿を見ずに済んだ。
だが――なにも知らないまま、アレンは死を選べなかった。きっと――すべてを知った、いまでも。
「ねえ、お母さま」
――コ……テ、
カガチ人は、銀河連邦軍がいまだ解析できない特殊な会話法にて意志疎通を図る。
アレンは視線を上げ、どこからともなく聞こえてくる『声』に耳を澄ませて――、顔を引きつらせた。
「庭のタルジュがね、少しずつ芽吹いてきたの」
(――出来ない、それだけは)
彼は首を振った。
――コロし……テ、
唇を噛んだ。
――視界が滲む。
――情けを捨てよ。
父の言葉が脳裡をかすめる。
アレンは震える手で、燭台を握った。だが彼には、これを振り下ろす覚悟など――ない。
――オネガ、イ……
『声』が言う。
「たたか、って……くだ、さい。あなたに、情けがあるのなら」
次第に、娘の瞳が光を取り戻し始めた。
その琥珀の瞳が合った途端、震えがぴたりと止まった。
(情けが――……)
アレンは心のなかでつぶやき、燭台を握りしめた。蒼瞳が力を宿す。娘を見据え返した。
娘はタルジュのように穏やかに微笑み、自分の足を蛇尾へと変える。
そして――高く、鋭く威嚇の声を吐いた。
迫り来る蛇尾を見据え、アレンも駆る。
暗闇のなかに、黒い血が飛ぶ。
心臓を貫かれた二人目の女が、どっと――石床に倒れて動かなくなる。
女たちの遺体を見据えて――、アレンは拳を握った。固く、固く。
月が薄く、青い闇を照らしだす。
彼は月に向かって喉が割れんばかりに吼えた。
――あリガ、とう……
蛇の夜は、こうして終わりを告げた。
惑星ウーアにのみ群生する花、タルジュ。
エーリカの誕生祝いにアレンが渡したこの花自身は、『希望、慰め、逆境のなかの希望』の象徴だ。しかし、この花はある行為によって、その意味が大きく異なってしまう。
アレンはタルジュを、どうあってもエーリカに贈るべきではなかったのだ。それはウーアの民のなかでは常識だった。
なぜならこのタルジュを他人に贈った場合、
『あなたの死を、望みます』
「よくぞ情けを捨て斬った、アレン」
父と立ち合う、いつもの道場で。
アレンが固く、拳を握りしめた。同時に振り切る。
轟音が立った。
みしみしと音を立てる己の手。父が目を見開く。繰り出された息子の拳を、片手で握っていた。だが止めた父の掌から、白い煙が立ち昇る。肉を焦がすほどの衝撃。それほど鋭い、息子の正拳突きだった。
「なんのつもりだ、アレンよ」
「………………ゆえに斬ったのです……」
「なに?」
震える声でつぶやく息子に、父が首を傾げた。
途端。澄んだ蒼い瞳が、怒りを湛えて父を睨んだ。
「情けゆえに、斬ったのです!」
圧倒的な剣気。
アレンの気迫に押され、父がわずかに目を見開いた。凛と、道場に静寂が舞い降りる。
汚れを知らぬ蒼の高潔さは、父にタルジュの花を想起させた。
ウーアの象徴たるその花は、白く、清らかなユリ科の花。
それは風にそよいで、月の下で可憐に咲く。