第零話 タルジュ前編
以前、テーマ『狂気』企画のために執筆した作品を本作用に改稿しております。
(前の題名は『タルジュ ~慰めの花~』でした)
むき出しの刀身が鈍色にきらめいた。頭上。衝撃を直下に受け流さんと剣を柳のごとくしならせるや、翻ったアレンが苛烈に打ち込む。
太刀風が、アレンの頬をかすめていった。
覇気に満ちた蒼瞳。精悍な顔立ち。剣を持たぬときの雰囲気は母に似たが、この生意気な眼光だけは父に似た。
「また、腕を上げたな」
父の剛剣は、まともに受ければ剣ごと面を両断せんとする強烈さだ。だが、先に動いたはずの父の手許にはいま、ぴたりとアレンの剣尖が吸いついている。
満足そうな父には答えず、アレンは刃を退けた。
ともに真剣だった。一歩間違えれば怪我ですまないが、ともに臆す様子もない。父子で信頼し合っているというより、一定の実力を持たぬ者はこの家に不要、という暗黙の了解があるためだ。
金髪蒼眼。
アレンが籍置くガード家は、銀河連邦でもっとも理に適った戦闘術を編み出した武家として、いま急速に名を馳せている。父の代になるまでは無名に過ぎなかった弱小家系だ。
だが父が当主となって以来、家に継がれていた旧時代のさまざまな戦闘術を体系・理論化し、連邦に仇なす者たちへの対抗手段として昇華させた。
その結果、父は三十七歳という若さで銀河連邦軍准将の地位に就いたのである。
「アレンよ、話がある」
父ジェフ・ガードの嫡男、アレン・ガードは今年で十六歳だ。ガード家きっての天才と目され、実力だけならば父を凌ぎかけている。
稽古後、一礼して道場を去ろうとしたアレンを、ジェフが呼び止めた。父もアレンと同じ金髪蒼眼。二メートル近い巨躯の軍人で、鋼を縒り合わせたような逞しい筋肉を黒いトレーニングウェアの下に隠している。
強い眼差しを返すアレンを見て、父は口端を広げて言った。
「――ついて参れ」
惑星ウーアは『時の惑星』と呼ばれる。
ジェフが管轄するゲーボ宙域の西側にあり、敵対勢力キヴォロワ帝国との宙境上、連邦領域最外縁を成す惑星だ。
ここは宇宙から見ると恒星の光を反射し、スター効果によってウーア自身が十二条の光を発しているように見える。その複雑な光模様が時計の文字盤を彷彿とさせることから、ブラックホール帯がすぐ近くにあるにもかかわらず、著名な写真家や冒険家たちが押し寄せる絶景の名所であるのだ。
この星には昼と言う概念がない。アレンは父に指定された座標に従って惑星に降り立つと、薄暗い枯れ木林を黙々と進んでいった。
やがて木々の合間から、石造りの朱色の屋敷が見えてくる。
「これはアレンさま。本日はわたくしのためにご足労いただき、ありがとうございます。ささやかではございますが、宴の準備が出来ておりますのでどうぞお寛ぎくださいませ」
石畳の玄関先で、三十前後の女性が出迎えてきた。エーリカ夫人という。
小麦色のグラマラスな肢体を紅いドレスで包んでいる。エキゾチックな目鼻立ち、大きな琥珀色の瞳がまばたきもせずに、じっとアレンを見つめてくる。
髪は肩口でバッサリと切りそろえられ、夫人が恭しく頭を下げるとむきだしの細い肩にさらりと零れた。
なるほど、噂に聞く『カガチ人』だ。濃紺色の髪、小麦色の肌、琥珀色の瞳は、惑星ウーアに住む稀少民族『カガチ』の特徴なのだ。
「エーリカさま。御自らの歓迎、痛み入ります」
一礼して、父の言いつけどおり胸ポケットに入れた収容キューブから花束を取り出した。
「これを」
「……まあっ!」
エーリカ夫人は琥珀色の瞳を見開き、楚々と微笑んだ。表情はあまり動かないのに、花束に顔を寄せる仕草だけで空気が華やがせる不思議な女性だ。
男所帯しか知らないアレンは、少し萎縮してしまった。
「素敵なお花を、ありがとうございます」
「い、いえ」
気恥ずかしく、会釈混じりに視線を下ろすと、夫人の手に渡った花束が目に留まった。
父が選んだユリの花はタルジュというらしい。地球には生息しておらず、この惑星ウーアでしか咲かない、白く可憐な花だ。
エーリカ夫人は父の旧友だと聞いている。今日は彼女の誕生日で、アレンが忙しい父に代わり祝いの品を届けに来たのだ。
朴訥で冷厳な軍人の姿しか知らないアレンは、意外にも洒落た父の贈り物に、夫人と一体どうやって知り合ったのだろうと不思議に思った。
通されたリビングは、森を想起させる淡い色合いでまとまっていた。磨いた白水晶の床石、クリーム色の壁、緑色の窓枠。調度類もすべてが色彩淡く、角に丸みがあって、まるで川底の美しい石をより合わせてつくったような室だった。
(妙だな……)
アレンはだだっ広い屋敷を見渡して、首を傾げる。ここに来るまでに長い廊下を通ってきたが、使用人の姿をまったく見ない。静かすぎる室内は、アレンと夫人の二人で使うにはあまりにも広過ぎる。
室中央に据えられた翡翠のテーブルには、所狭しとパーティ用の食事が並んでいる。どう見てもたった二人で食べきれる量ではなく、宴会が始まる予感だけがあった。
夫人がしなやかな指を口許に当てて、石扉のほうに向かって言った。
「カメオ。いらっしゃい」
「……はい、お母さま」
か細い声が返ってくる。石扉が静かに開き、桜色のドレスを着た娘が姿を見せた。夫人と同じくアオザイやチャイナドレスに近い、体の凹凸がはっきりと出るデザインだ。少女は胸許で両手を重ね、うつむきがちにやってくる。
夫人は娘の背を押して、言った。
「アレンさま。この子が私の一人娘のカメオ。気立てが良く、内気ですが優しい子です」
「カメオです」
娘は可愛らしい高音でボソボソと言った。体を小さくして震えている。軽くウェーブした濃紺の髪は腰まで流れ、娘の琥珀色の瞳が上目遣いにアレンを見た。
怯えた視線だった。
アレンには、この娘がなにに怯えているのかが分からない。
「ご用の際は、この子になんなりとお申し付けください」
夫人が変わらぬ笑顔で言ってくる。
娘に会釈した。
「少しの間、世話になります」
「……よろしくお願いいたします」
様子を探ろうとカメオを見ていたが、娘はすぐに目を伏せてしまった。
その後、いくら待てども客は来ず、家の者もおらず。
結局、夫人と娘のカメオ、アレンだけのささやかな宴が開かれた。
「それにしても――意外です」
「どうなさいまして?」
アレンがようやく夫人たちの空気に馴染み始めたころ、夫人が首を傾げてこちらをふり返った。
「父は、恨みを買うだけの人間と思っていましたから」
「滅多なことを。この屋敷に住む者は皆、アレンさまのお父上に深い温情を受け、以来、恩を返すために日々を暮らしているのですよ」
夫人は眉間にしわを寄せ、アレンを叱る。だが叱られたことよりも、アレンにとっては言葉の意味に対する興味の方が大きかった。
「あの父が、本当に?」
「ええ」
「信じられない」
耳を疑うアレンを、夫人が不思議そうに見つめた。アレンは「なんでもない」と首を振る。
人を褒めず、仏頂面で居丈高に物を言う――それがアレンのなかの父の印象だ。
家を再興させるために、アレンが立派な後継ぎになるように。
父はアレンが幼いころから剣術を始め、あらゆる格闘術を現在進行形で叩きこんでいる。五歳のときから母と別離させ、私生活でも甘えを一切許さないのも息子を最強の軍人に育て上げるためだ。
ゆえに、アレンは十六歳の少年とは思えぬほどの卓越した剣術の腕を持っていた。まだ剣術に限って、であるが。
「母に会いたくば、私が認めるほどの軍人となって見せよ」
それが父の口癖だ。
母親がだれより好きだったアレンは、厳しい稽古の日々に何度も心折られそうになったが、父に「会ってよし」と言われるまでは、母に会う気はなかった。
母はいつも稽古で血みどろになるアレンを見ては泣き、父に「もう無茶なことをさせないで」と乞い願った。
そうやって母を泣かせる父に、アレンは負けたくなかったのである。
そして母を泣かせてなんとも思わない父を、血の通った人間とも思えなかった。
だから父が、こんな風にだれかを――本当に、一個人を祝うためだけに珍しい花まで用意するとは、夢にも思わなかったのだ。
厳しい以外の父の一面。
それに初めて触れ、父を、もっと知りたいと思った。いままでは分からなかった――母が愛した父の一面を知ることができれば、もっと父と、母を身近に感じられる気がしたのである。
背の低い翡翠のテーブルには食事が並び、大きめソファが周りを囲っている。
アレンは夫人に促され、ソファに座った。傍らに夫人が寄り添い、果実を搾ったものを手酌してくれる。香りはマンゴーに似ているが、色は透明で、飲んでみると味がない。
「ナダ、と言います」
アレンがよほど不思議そうな顔をしてナダを飲んだからか、夫人はクスクス笑いながら説明した。アレンはナダの入った陶器を掲げる。
「これですか?」
「ええ。私たちカガチにとって馴染み深いものです。あなたがた地球人にとっては、水のようなもの」
「なるほど」
うなずきながら、視線を娘のカメオに向けた。
アレンが食事をしている間、カメオが舞を披露してくれているのだ。
カガチの習慣はなにもわからないが、カメオの舞は、ひどく情熱的に見えた。
「――これではまるで、私のほうがもてなされていますね」
本来ならば、こちらが夫人を祝わねばならないのに。
申し訳なくアレンが視線を落すと、夫人は穏やかに微笑んだ。
「当然ですわ。今日は、あなたの婚約祝いでもあるのですから」
「え?」
「五年前。私たちを救ってくれたあなたのお父上に、私たちがそう約束したのです」
初めて聞いた話だった。
固まるアレンを余所に、夫人が二つ、手を叩く。カメオが舞をやめて、楚々と走り寄ってくると、アレンの前にひざまずいた。
夫人が穏やかに言った。
「このカメオは家事が得意です。律義な性格で、交わした約束はどんなことがあれ、守ります。テーブルに並んでいる食事は、彼女がすべて作りましたわ。アレンさまより一つ年下で、今年で十五歳になります」
「そんなことを……急に言われましても」
頭を下げるカメオを見やって、アレンは当惑した。今日は父の代わりにプレゼントを届けに来ただけだ。
――十六歳の少年が人生の伴侶を決めるには、あまりにも唐突過ぎる切り出しである。
固まっているアレンに、夫人がにこりと笑った。
「ご心配には及びませんわ。カメオのことを少しずつ、知っていただければよろしいのです」
夫人はしなやか微笑んで、宴の幕を下ろした。
客間に通される途中、アレンは案内役のカメオに訊ねた。
「あなたも突然、この話を?」
「いいえ。私は十一のころより、ガードさまのお力となるよう母に申しつけられておりますから」
カメオはボソボソと答えた。『ガード』と言うのは、アレンの家の名だ。こんな僻地にまで妙な影響力を持っているのかと父にうんざりする一方、カメオが家のために婚約を迫られたのだと知り、表情が暗くなる。
「……すみません、こんなことに巻き込んでしまって。それも今日会ったばかりの相手と婚約なんて」
馬鹿げた話だ、と言おうとした彼を、カメオは止めた。内気と聞いていたが、カメオはアレンの唇に人差指を添えて発言を止めた。大胆な彼女に驚いていると、カメオが頬を染めたまま、言った。
「私は自分が不幸と思いません。アレンさまは母が教えてくれたとおり、深いお慈悲をお持ちのようですから」
カメオが初めてまっすぐにアレンを見て、タルジュの花のように密やかに、慎ましく笑った。
客間に一人残ると、アレンはベッドで眠ろうとして、やめた。
カガチ人のベッドとは、風呂なのだ。人一人ゆったりと入る水槽に、先程飲んだナダを満たしている。ここで彼女たちは眠ると言う。
(ふやけないのか?)
一晩も水に浸かるなど、地球人にはない発想だ。見た目が似ているからと言って、同じ存在ではない、彼女たちは『カガチ』という異星人だと思い出した。
長い溜息を吐いてベッドではなく、ソファで眠ることにする。
乱暴に身を投げ出して目を閉じると、カメオの微笑みが思い浮かんだ。
「一体、なにがどうなってるんだ……」
まるで現実味がない。今日という時間が悪い夢に思われて、額に手の甲を当てる。
そう言えば、刀を振らずに一日を終えるのも初めてだった。
ふと、腰に差した刀に触れた。黒鞘無銘の刀だ。
――情けを捨てよ。
父の声が脳裡を掠める。
人を斬るために情けを捨てよ、と。
アレンには、五つのときから刀を握る義務があった。
木刀ではなく真剣。必ず一日の終わりに父と真剣で切り結ぶことを決められている。死闘を身近に置くことで戦場で恐怖を、微塵も感じないように訓練されていたのだ。
アレンにとって剣の腕を磨くことは、習慣だった。それが他人からすれば珍しいことだと最近まで知りもしなかったほどに。
科学万能の宇宙時代。
十五、六歳の子どもの一月分の小遣いがあれば、一星系内ならどこにでも行ける。そんな数百億の星々がひしめき合う銀河社会で、『宇宙人』と言うのはもう珍しくない。
その時代にあって、まだ刀など――。そう一笑に付されることも少なくない。
それでも、思う。
幼少からの影響もあるだろうが、刀を握ると気分が凛とした。銃にはない緊迫感を、刀からもらっている気がする。
「一体どういうつもりだ? 父め」
刀を握りしめ、状況を整理するためにつぶやくと、しばらく考えを巡らせた。だがどうにも、眠気が強い。
思ったよりも疲れているのかもしれない。
仕方なく眠った。
音。
音がした。いや――笑い声だ。だれともつかない、けたたましい笑い声。
アレンは瞼を震わせ、うっすらと目を開く。
――青い。
床石が、暗闇で青く光っている。さしづめ蛍光塗料と同じ原理か。周りを視認できるほどの明るさではないが、水面に似た床石の網目模様が幻想的で、思わず相好が崩れた。
照明のない室内では、窓から差す月明かりだけが頼りだ。
「すごいな……」
つぶやきながら、ソファから身を起こして降りようと手をついた。
そのとき、
琥珀色の瞳と、目が合った。
他にだれもいないはずの部屋で、白い眼球が大きくせり出した琥珀色の瞳が、室の隅にいた。
アレンが息を詰める。
――見てはならない、ととっさに思った。
悪寒が急速に背筋を這い上がり、ひゅっと飲んだ息を吐き出せず、ソファにかけた手を素早く後ろに下げた。それでバランスを崩した彼は背もたれで頭を打ち、痛みを感じるより先に、背もたれがあったことに驚いて、慌てる自分に更に慌てた。
どすん、とソファが揺れる。
その音で正気に戻った脳が、琥珀色の瞳――憎しみに燃えた憤怒の顔を捉えた。
「ぁっ、――」
首が激しく揺れた。叫ぶ間もない。鋭い音。肌が叩きつけられ、喉が急速に絞まった。目を白黒させながら首を縛る『なにか』に触れる。
固い。
にたぁ……、
強張った視界に、三日月状の笑みが見えた。禍々しい嗤い。血走った眼球のなかで琥珀色の瞳が爛々と光っている。暗闇のなか、青く照らされた女の顔がぼうと浮かび上がっていた。
ぎりぎりぎり、
首の締め付けが強くなる。彼は喉に力を込め、顔を歪めながら女から視線を逸らした。
――見てはならない。
震える理性がそう言う。心臓が早打つ。固く瞼を閉じた。頬に風が当たる。いや、これは憤怒の顔をした女の息遣いだ。ふぅふぅと荒い呼吸で、生温かく触れてくる。
――見てはならない。
そう思いながらも、わずかに目を開けた。
「!」
鬼女。
視神経、筋肉のすべてが固まってしまった。
肩まで伸びた濃紺色の髪が女の顔にへばりついている。白い双つの眼球は迫り出し、血管が膨れ上がって真っ赤に染まっていた。収まった琥珀色の瞳がギロギロとアレンを見下し、にぃ、と細まる。憎悪に燃え、見開かれた目が弓形状に平たく伸びたとき、蠱惑的な女の唇がゆっくりと耳まで裂けていった。
アレンは金縛りにあって動けない。
全身から血の気が、引いた。
――お前が、
お前がお前がお前がっ!
その手で
――私の子を、
琥珀色の瞳が怒りでつり上がる。首がさらに絞まった。急速に。
ぎりぎりぎりぎりっ、
まるで革ベルトを雑巾絞りするような悲痛な音だ。急速に視界がぼやけていく。景色が回り、体の奥からなにかがせり上がってくる――
(死、)
『死ぬ』と自覚した途端、頭が白くなった。
――逃がさない。
女が言った。ゴロゴロと喉を鳴らし、見下ろしてくる。アレンの喉が細まっていき、骨がギリギリと悲鳴を上げる。血の通わない顔がみるみる紫に変色していく。
意識が遠退いた。
……キン、
鍔鳴り音が聞こえたとき、アレンの視界が一瞬クリアになった。
手許に確かな感触。
女の心臓ーーそこに、おのれが剣を突き刺している。
磨き上げた戦闘習慣が、脅威を取り払おうと脊髄反射を起こしたのだ。
「ぐっ……!」
闇のなかで、琥珀色の目が見開かれる。憎悪に満ちた瞳は閉じず、アレンを睨んだまま転がった。ドッと鈍い音。喉を絞る力がゆるりと解け、重い何かが床に倒れ込んだ。
二度、三度、引きつけを起こしながらもアレンは空気を貪った。くひぃぃ、くひぃぃと喉が鳴り、首を右手で触る。凹んでいた。黒々とした絞め痕だ。人の手でなく、紐状の長い物で絞められた痕。
血の通っていない、自分の白い手を見る。女の胸を貫いた肉の感触が、ありありと蘇った。
「ぁ、うっ……!」
自分でも分かるほど、手が震えていた。止まらない。
そこで初めて、自分が女を殺したのだと自覚する。
鼓動が、荒れ狂った。
(ころ、こロッ、コロッ、殺っ――……!)
息を潜めて目を見開く。
手にはびっしりと敷き詰めたかのような冷汗。
堅く、刀を握りしめた。
心臓が鳴りやまない。
殺される。
――殺した。
二つの相反する想いと、昂奮と緊張で頭の中がかき乱され、正常に思考できない。
傍らの、肉塊。――大の字で倒れている。肘から先をふにゃりと曲げて、目を見開いている夫人の死体だ。大ぶりな胸から血がどろりと流れ、濃紺の髪を汚している。
床石から煙が上がった。夫人の血で、石が溶けていた。
アレンが驚きの息を殺す。昂奮と緊張、恐怖が神経を逆撫でて鼻から吐く音を耳で拾わせる。
そのとき、扉がまるで意志を持っているように、ゆっくりと開いた。
脊髄反射で顔を上げ、アレンは声を抑えた。
月が、硬い石の床に妖しい影を引く。
なま暖かい風が足下をすり抜ける。
「逃、が……さ、ない……っ」
死んだはずの夫人が、つぶやいた。
アレンが息を飲む。胸に風穴を開けて倒れたまま、あらぬ方角を見つめる夫人が口をうごめかせている。
とっさにアレンはひしゃげたソファに身を潜め、震える呼吸を整えることに集中した。
夫人が倒れていた場所から、メキメキと奇怪な音が、血が飛び散るような水音が聞こえてくる。なにがどうなっているのか見る勇気はない。
ただ、月明かりでできる影絵のなかで、夫人がぎこちなく立ち上がり、その厚い唇から長い舌をチロチロと覗かせ、笑っているのが見えた。
「隠れても無駄よ……? 私たちはずぅーーっと、お前を待っていたのだから」
すりすりと床を擦る音。アレンが息を飲んだ。――震えが止まらない。悪寒のせいで深く考えられない。
影絵が、きょろきょろと首を巡らせる。
距離、一メートル。
このまま、大人しくしていれば――
固く目を閉じ、祈った。
(――頼む、行ってくれ……)
影絵が傍らを過ぎて行く。
部屋をそろそろと徘徊して、――諦めたのか、ぴたりと止まった。
静寂。
(――頼む、もう、出て行ってくれ……!)
アレンは祈った。溜息が聞こえる。
「逃げたのかしら……」
と夫人がつぶやいた。彼女は、すりすりと何かを引きずる音を立てて部屋を出て行く。
影絵が遠ざかる。
(――行った、のか? ……もういない?)
アレンがゆっくりと瞼を開けた。歯の根が合わず、唇がまったく一所に定まらない。
ソファからゆっくりと顔を出してみると、艶やかな鬼女が、琥珀色の目を見開いて彼を睨んでいた。
「シャァッ!」
牙をすり抜け、女が鋭く吐く。同時、アレンは引きつった顔で首をひねった。唾液が顔の真横を過ぎ、床石を溶かす。
だが、そんなさまを見る暇などなく、這う。這って這って、這いまわった。
指が、刀に触れる。
これで斬れば――思った途端、肉の感触が蘇った。夫人の血にまみれた顔。宴のとき見た微笑み。恐怖と緊張が、体を縛る。斬るか、斬らざるか――息を飲む。
迷っていられなかった。
死にたくない。
生きたい。
その想いが、躊躇を掻き消していく。
――情けを、捨てよ。
父の声が聞こえる。
彼は握り込む寸前、自分に言った。
(俺はもう――戻れないんだっ!)