嵐のあとさき
強い風の音に目を覚ますと、カーテン越しに薄明かりを感じる。夜明けの時間か。眠れないと思っていたのに、気がつけばリビングで眠っていたらしい。腕を伸ばしてラジオをつければ、素敵な声のアナウンサーが今日の天気を告げる。
まるで私の非であるかのように、私を切り捨てたつもりになった人。
「ほら、だから俺には検査なんか必要じゃなかったんだ。子供ができないのは、おまえのせいだと言ったじゃないか」
予感していた終わりが突然訪れた日、彼は勝ち誇ったように言った。他の女に子供ができたと。
石鹸の匂いや帰宅の遅い言い訳、そんなものは子供さえできれば解決するのではないかと思っていた。必死にかき口説いての不妊検査、あのときにはもう互いの距離はどうしようもなくなっていたんだろうか。空洞になった夫婦の間に子供を差し挟んで埋めようと必死になった。あれは間違いだったか。
結果も待たずに出て行った彼は、荷物の後始末ですら私に押しつけて行った。そうやって家庭生活を送ることに甘んじていたのは、私だったかも知れない。考えてみれば、彼はゴミの分別すらできない男だった。
迂闊さが可愛いと思っていたころは確かにあった。世話を焼くのが楽しかったころがあった。それが不満になったのは、もう彼に愛情を感じていなかったからなのか。
それなのに、子を持ちたいと思ったのは何故なんだろう。かすがいに使い、この生活を手放したくないと願ったのは何故だ。
自分に問いかけながら、起き上がる。風の音に雨の音が混ざりはじめた。どこに行くこともできない閉塞感だけが、強く圧し掛かってくる。せめて、窓を開けたいのに。
急に強くなった窓を叩きつける雨に、驚いてカーテンを開ける。外は道路が川のよう、強い風に飛ばされた枝が流れて行く。誰も通らない道に、我が物顔で風が暴れている。自動車すら動いていない。
ガラスが割れてしまうのではないかと思うほどの、強い風の音が怖い。どんなに怯えても、この部屋には私しかいないのに。
外で唸る風に、さらわれてしまいそうだ。カーテンをもう一度引いて、耳を塞ぐ。誰もいない、私しかいない。
どうして。
どうして、私の手からこぼれてしまったの。愛しあって結婚して、幸福な日々を送ったこともあったじゃないの。私に何が不足して、他の女に向かって行ったの。
何も多くは望まなかった。普通の生活をして、間に子供を挟んで食事をして、子供が巣立った後は穏やかに暮らしたい。ただそれが欲しいだけだった。
風の音に煽られて、苦しさが増していく。なんていう息苦しさだろう。窓を開けることもできない部屋は、まるで檻のようだ。
今ごろ彼は女と同じ部屋で差し向かいでお茶を飲みながら、この嵐の話をしているだろう。私と一緒にいたときと同じように、テレビの報道だけでは物足りずにインターネットでまで得た情報を、分析して説明している。
彼の説明は丁寧で、理解しやすかった。他人に教えることの好きな男だった。その声を聴いていることが、私は好きだった。もう私には二度と向けられない声が、耳の奥に蘇る。
愛を囁く言葉や労わる優しい言葉よりも、それが好きだった。
なぜ。
なぜ、こんな結果になったの。纏っていた女の気配を追求せずに遣り過せば、何事もなく続いていくと思っていたのに。彼だってきっと、そう思っていたはずだ。でなければ、はじめから隠したりしなかったろう。少なくとも、こんなに急に私と終わらせようと思っていなかったのではないか。
一緒に不妊検査に行くことを、彼はとても嫌がっていた。それを頼みこむように連れて行ったのは、確かに私だ。思春期以降にひどい感染症に罹ったことはない、自分は健康で何の問題もないと言い張るのに、検査は夫婦揃わないと意味がないと説得した。
病院への行き返りに不機嫌だった夫を宥めるために、新しいシャツを購入した。あれは余計なことだったのか。それとももっと前の諍いが原因で―――
考えていたって、前になんて進めない。まだこんな部屋にひとりで住んでいるからだわ。早く引っ越しの手配をしなくては。彼の置いて行ったものを捨てて、自分が必要なものを纏めて、ふたりの生活が消えるように。
消して、いいの? 幸福だった日もあった。確かに愛だと思っていた日もあった。
この耳障りな風が、早く行ってしまえばいい。雨が止んだら、荷紐とゴミ袋を買って来よう。片付けろ片付けろ、終わったパーティーの残骸を始末しろ。
収拾のつかない痛みを伴って、飛び散った思考が戻りながら私を刺す。この痛みは誰のせいなの。
私が悪かったのでしょうか。私を残して出ていく彼は、後ろ髪を引かれたりしなかったんでしょうか。彼が新しい生活を得ているのに、私だけが取り残されている理由を、誰か教えて。
彼がもし、妊娠した女を捨てて私とやり直したいと言ったら、私は喜んだのか。たとえば今玄関が開いて、身体中から水を滴らせた彼が帰宅を告げたら私は喜ぶのか。そして私の手を取り、やはり私とやり直したいと。
ぞわりと腕に粟が立つ。彼の指にもう一度触れられると考えただけで、ひどい目眩がする。
持て余す喪失感の間に湧き出てくる劣等感と自己憐憫が、憎しみすら産ませてくれない。一際大きく唸った風に、ガラスに何か当たる音が聞こえた。いや、怖い。ひとりは怖い。
外の音が急に止んだ。カーテンを透かした空が、いつの間にか眩しい。嵐は去ったらしい。折れた枝が散らばった道に、車が走りはじめた。
ぽかんと突き抜けた青い空には、雲もない。
玄関のチャイムが控えめに鳴り、書留郵便が届いた。出て行った人と私の連名宛ての封筒の差出人に、もういらないのよと呟きが漏れる。原因が彼でないと知れた今、私を責める材料が減ったことを少しでも喜ぼう。
注意深く封印を剥がし、内容を確認した。やや子宮後屈気味だけれど、妊娠についての問題は見当たらず、特に治療を要しない。そして見てはいけないと考えながら見た、彼の検査結果。
ふっと笑いが洩れた。洩れた笑いが膨れ上がり、止まらなくなる。
残念ながら旦那様の状態での自然妊娠は、難しいと考えられます。つきましてはカウンセリング等のご案内を―――
丁寧に添えられた検査票の、基準値と夫の値との差の解説。
涙が出るほど笑ってから、窓を大きく開けた。急に高くなった気温の中に、セミの声がする。
ゴミ袋と荷紐を買いに行こう。不動産会社を訪れ、私の新しい部屋を探そう。そして、すべて捨ててしまっていいのだ。
私の復讐は、私の代わりに時間がしてくれる。
大きく息を吸って、夏のサンダルを履いた。
fin.