1.
「あの、殿下」
言って、アヤカーナは手に広げた本を閉じ、ドュランを見つめた。
ドュランは机に座り、ダズンと二人、書類に夢中だ。
アヤカーナが、タンギューの護衛解任に涙がとまらない、と伝えてから直ぐ、タンギューが護衛に戻され。勉強や図書室から持ち出した本の分からないところは、ドュランに教わるよう指示があった。
しかし、ドュランには執務があり、なかなか時間の都合が予測出来ない。従って、ドュランの傍で控えているよう沙汰があり、それ以来アヤカーナは、ドュランの執務室に本を片手に日参していた。
初めの日、アザレアが、自分も同室させろ、とドュランに詰め寄ったが、侍女や女官は用があればこちらから呼び出す、と一蹴され門前払いを見舞った。
アザレアはドュランの前では憤懣遣る方無いふうを装っていたが、アヤカーナにはしたり顔で、殿下に甘えるように、と耳打し素直に去って行った。
アヤカーナは、大好きなドュランの傍で過ごせるのが嬉しく、机に向かうドュランの、精悍で気品に満ちた横顔を、見ているだけで幸せだった。
ドュランの机の前に据えられたソファで本を読み、ドュランの時間が空くのを待つ。ドュランの邪魔をしないよう心がけ、何かと気遣ってくれるダズンやタンギューに笑いかけていたら、ふと、ドュランの様子が、おかしいことに気が付いた。
タンギューやダズンと話していると、必ずドュランの視線を感じる。何か?と笑いかけると視線を逸らされる。本を読んでいると首の辺りがちくちくし、顔を上げるとドュランが顔を背ける。何日もそれの繰り返しだった。
不安がつのり、隅で控えているタンギューの傍へ行き、そっとそれを囁いたら、タンギューから答えを貰う前に、ドュランに腕を摑まれソファへと運ばれた。
ふわりと身体が浮き、気付いたらドュランの膝に抱えられている。驚く間もなく、アヤカーナの唇へドュランの濡れたそれが降って来た。
「キスの時にすることは?」
唇の上で囁かれ、アヤカーナは思い出したように瞼を閉じる。
長いキスが続き、少しだけ唇が離れる。ドュランの唇が頬から耳へと肌を掠めるように伝っていく。
「タンギューとダズンに声を掛ける前に、俺に一言断ること」
「…っん」
「…返事は?」
言葉の間に何度も濃厚な口付けが降ってくる。
「…っ は、はい」
「それに男には、自ら触れない。腕に手を添えることも手を握ることも駄目だ」
「はい」
ドュランはにこりと微笑い、いい娘だ、と軽く音を立ててアヤカーナへ口付ける。我に返ると、アヤカーナはソファに身体を沈めるように座っていた、ドュランは何事もなかったように、机に着きペンを走らせている。ダズンもタンギューもいつもと変わらない様子に見えた。ただ部屋の空気は軽くなったように感じた。
それ以来アヤカーナは何事もドュランへ声を掛ける。
殿下、と愛らしい声で呼ばれ、何だ、とドュランが顔を上げる。仕事を中断され、嫌がっている様子はない。アヤカーナはほっとして続ける。いつ切り出そうか迷っていたのだ。迷っていたら、もう迎えがくる時刻になっている。
「明日は陛下の思し召しにより、アザレア達と近衛隊の稽古の視察に参りますので、お暇を頂きます。
兵隊さんの視察なんて、私初めてなので、とてもドキドキしています。」
恥ずかしそうに笑っているアヤカーナに、ドュランは言葉が返せない。視察なんぞ知らなかった。
それも騎士たちの視察…、意味が分からない。
近衛隊は上流貴族の御曹司の集まりであり、令嬢方の憧れでもある。なぜ、わざわざそいつらに、アヤカーナを見せなくてはならないんだ。
ドュランの目が据わっていく。
「おい、タンギュー…」
名を呼ばれタンギューは寄り掛かっていた背を起し、起立した。
「近衛隊からは何も申し出を受けていないが。」
「私も存じ上げませんでした」
タンギューの言葉を受け、ダズンへ目をやる。ダズンも首を横に振っている。
この二人が俺を謀ることは有り得ない。
ということは ― あのクソジジイ共め! ドュランの頭に父親とリキュウの顔が浮かぶ。一体何をしたいんだ!?
聴いていない!と抗議を申し出てもリキュウのことだ、報告したとか何とか言って、俺側の責任にするはずだ。何か来ていないかと、机の引き出しを順に開けていく。何もないな、と最後の引き出しが閉じられる瞬間、ドュランの目にクリーム色の封筒が映った。
これはフォンティーヌが置いていった封筒だ。目を通してここへ放り込んでいたのか。
それの中身は裏社交界の仮面舞踏会への案内状だった。彼女にはあの時、出席しないと断った。ドュランは封筒を開け日付を確認する。今晩だ―。
ドミモンド、それは社交界に入れない人間達が集う場である。と言っても、本物の貴族達が多く出入りしている。そして、そこに参加している女性陣は、高級娼婦とも呼ばれているが、全てが娼婦だと云う訳ではない。冒険心の強い貴族の女性達もこっそりと出入りし、顔のばれない仮面舞踏会で、羽目を外して遊んでいる。ドミモンドは格式ばらない格好の娯楽だ。
ドュランにとっても仮面舞踏会は身分を隠せる、最高の遊興の場で、翌日まで遊ぶというのは茶飯だった。だが、それも半年ほど前までの話。
確かにドュランはドミモンドで酒や女遊びを教わり、一旦はそれに浸った。だが、もうすでに厭きていた。
今では、いつまでもそれに留まり、浸っていられる諸侯に、ある意味畏敬の念を抱いている。また、彼らに苦笑を向ける自分がいることも事実だ。
顔を出さなくなり久しい、それなのに、未だに父とリキュウにドミモンドへの出入りを注意される。
成年へと変わる己の心境を無視し、小言を繰り返してくる父とリキュウへ対する反抗心が、ふつふつと頭を擡げてくる。
ドュランの瞳がキラリと光る。
仮面舞踏会へは、フォンティーヌに誘われ、何度か一緒に通ったこともある。もちろん彼女と連れ立っていた時は、彼女を護るためだった。
確か、アヤカーナはブンチョウへ行きたい、と申していたな。
ドュランの顔に口端を上げた皮肉っぽい笑みが広がる。頭の中で、今晩の手筈を組み立てる。慣れたもので、直ぐに組み立て完了である。
ドュランはにっこりと微笑い、アヤカーナに応える。
「明日は私も忙しい。アザレア達と近衛隊の勇姿を堪能しておいで。
そうだな、今日中に、近衛について、少し私が教えてあげよう」
アヤカーナはドュランに微笑みを向けられ頬を染める。ありがとうございます、と真っ赤になって応えた。
ドュランの頭の中は、ワガセヒロ帝と宰相リキュウへの意趣返しで一杯だった。
ダズンとタンギューは、アザレアの高笑いしている姿が、目に見えるようだと思っていた。近衛隊の視察など考え付くのはアザレアくらいだろう。ドュランの独占欲を刺激したつもりか…
甲高い笑い声まで聴こえて来そうだ、と二人同時に片手で耳を塞いでいた。