7.
「ご機嫌麗しゅう存じます、殿下、皆さま」
前に歩み出たアヤカーナの言葉で、ドュランは我に返り、席をはずして背筋を伸ばした。
目の前ではダズンとタンギューが、こちらへ、と突然の来訪者二人に席を勧めていたが、アザレアは、にこりと微笑い遠慮する。
「何やらお取り込みのご様子。
直ぐに、お暇いたしますわ。ね、アヤカーナ様」
「はい」
白い花の様にふわりと微笑っているアヤカーナの様子に、大丈夫そうだ、とドュランは安堵した。何が大丈夫なのかは判らなかったが。ともかく、息を整えるとアヤカーナを指先で招き、フォンティーヌの腰に軽く手を添える。
「アヤカーナ、フォンティーヌの紹介がまだだったな。
こちらは私の父方の従姉妹、マリ・フォンティーヌ・ドュ・タリエだ。」
アヤカーナは、フォンティーヌの腰に添えられている、ドュランの手をちらりと見やり、口角にうっすらと笑いを含めている赤毛の女性に笑顔を向けた。
「宜しく、フォンティーヌ」
「あら、こちらこそ、宜しくね。」
どちらの身分が上なのか、分からないような応答だった。
今朝、ドュランの寝台から助け出されたアヤカーナは、待ちかまえていた女官長とアザレアによって、直ぐ様、湯あみをさせられた。
痛くなるほど肌を擦られ、男女が寝台で致す行為とその意味を教えられた。
アヤカーナが、閨房学とはキスの方法なのね、と呟くと、女官長が‘貴女の所為’とばかりにアザレアを睨みつけ、閨房術の意味もやんわりと教えてくれた。
身拵えの間もアザレアが、閨房術は女の武器だが、結婚前は知識として蓄えておくのが望ましい、知識と実践は違うものだ、などと繰り返していた。
しかし、はじめて知った子の生し方に衝撃を受け、今一つ、アザレアの話す事がアヤカーナには理解できない。その上、父と母も…、と有らぬ想像まで浮かび、深く考えることが躊躇われる。
ケセンでは、殿下の仰せに従えば何の問題もないと教えられてきた。ここはやはり、ドュランを信頼して任せるしかない。
うだうだと考えず、子供を沢山生むために頑張ろう、と頬を染めて割り切った。
お茶の時間になり、腰を下ろした途端、アザレアからなぜドュランの寝室に居たのか説明を求められた。
恥ずかしくて、ドュランにブンチョウへ行きたいと強請ったことと、閨房学の教授を依頼した話だけは省いて聴かせる。
しどろもどろに話し終え、勝手に部屋を抜け出した事を叱責される、と身を竦ませていたが、目を上げればアザレアが、興味深そうに瞳を煌めかせていた。
「良い兆候よ。」
満足そうに微笑うアザレアを、アヤカーナはぽかんと見上げた。
その後はどちらも口を開かなかった。熱い茶を口に運び、ゆったりと流れる時間に身をまかせる。
アヤカーナは、昔からこうしてアザレアと共に、時を過ごしているように思えた。
突如、おだやかな空気を裂くように扉が開き、ハンスイとケイトがアザレアの下へ早足に寄る。ハンスイがアザレアに何事か囁き、アザレアは冷たい微笑を浮かべた。
「アヤカーナ様、おさらい致しましょう」
「おさらい…ですか?」
戸惑うアヤカーナにアザレアは一気に続けた。
「殿下が仰られた通り、臣下に敬称はつけない。
私どもを呼ぶ時は、アザレア、ハンスイ、ケイト。
もちろんフォンティーヌもです。それと、臣下に対する言葉遣いもお考え下さい。
それから最後に、肝心なことを一つ。
殿下はフォンティーヌに恋慕したことはございません。彼女に無用な嫉妬心など、一切お抱きになりませんよう。
何があっても、いつものアヤカーナ様のように朗らかで居て下さい」
「はい!」
アザレアの勢いに押され、アヤカーナも大きな返事を返した。
アザレアは、よろしい、と頷くと立ち上がる。
アヤカーナはアザレアと並んで廊下を進んでいた。ケイトとハンスイはその後から付いてくる。
「今から、本宮の殿下の執務室へ参ります。
タンギューとダズンの二人を、アヤカーナ様のお茶に招待する許可を、殿下から頂くのです」
「殿下はご招待申し上げないのですか」
つと、アザレアは立ち止まり、はい、と溜息をつく。
「殿下は今、フォンティーヌとご一緒です。
ニコルが、わざわざハンスイに‘フォンティーヌ様が殿下の執務室へ渡った’と、告げに参ったそうです。」
一旦言葉を途切らせ、アザレアは考えるように顎へ手をやる。
「あちらの挑発に乗って差し上げるのも、一興かと思いまして。」
アザレアは軽く笑って、また歩みを始めた。
「殿下は昔から、女性に恥はかかせません。きっと、フォンティーヌの好いよう振舞って居られる筈、アヤカーナ様はお二人を無視して、タンギューとダズンにお心をお配り下さい。」
アザレアは淡々と話しているが、アヤカーナは不安だった。
ケセンに居た頃は、パーレスへ嫁げば幸せが待っているのだと信じていた。殿下に愛され宮廷人に愛され、自分がパーレスを愛するように、愛が返ってくるのだと疑わなかった。そんなアヤカーナは、駆け引きなど考えたことも、したこともない。
今、殿下の部屋の前に立ち、自分が甘い幻想を抱いてパーレスに来たことを実感する。控えの間にはフォンティーヌの侍女たちが、主を待ち、控えている。その複数もの冷たい瞳が、静かにこちらを眺め回す。私は、一体どんな世界に踏み込んだのか、殿下に私は必要とされているのだろうか。アヤカーナは怯懦な思いに捕らわれながら、静かに控えの間を通り抜けた。
殿下の近習が、アヤカーナの来訪を大声で告げる。しかし中から聞こえてくるのは、女性の嗚咽だけ。
果たして、アザレアが近習に扉を開けさせ、真っ先にアヤカーナの目に飛び込んできたのはフォンティーヌとドュランの抱擁だった。
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こうして、アザレアの助言通り、平素に構えフォンティーヌと対峙しているが、アヤカーナの小さな両手は震えていた。自分に負けまい、と必死だった。
ドュランは、座るよう、口を開らきかけた。が、アザレアの方が早かった。
「殿下、お話し中、申し訳ありません…」
アザレアの背が、アヤカーナの目の前へフォンティーヌの姿を遮る様に、滑り込んできた。
「タンギュー隊長とダズン閣下を、王女殿下の茶会に、ご招待致したく参じました。」
アザレアの申し出に、ドュランは驚いたように眉を上げ、いつ?と返した。
只今です。とアザレアはドュランに微笑むと、アヤカーナの顔を振り返り困ったように笑う。
「アヤカーナ様が、タンギュー隊長の護衛解任を淋しがり、お泣きあそばすので、皆でお茶をご一緒しようかと思った所存です。
隊長と閣下のお暇を、お願い致します」
アヤカーナが胸の前で両指を絡ませ、アザレアの話を繰り返す。
「お願い致します殿下。
タンギュー隊長のことを想うと、涙が止まりません。
それに隊長から伺っていたダズン殿とも、是非お話がしたいのです。」
ドュランへ縋るように、潤んだ瞳を向けると、とろけるような甘い微笑を湛え、タンギューとダズンの傍へ行く。
「お茶をご一緒していただけませんか。
昨日の図書館で頂いた宿題も、皆でお話したほうが楽しいと思います」
アヤカーナはお願いします、と白い手を伸ばし、タンギューの硬い手を取っていた。
ダズンは唖然とした、この王女は無邪気なのか、それとも魔女なのか。
古い家柄を誇るパーレス貴族達は、気品に満ちた無表情をして、新興貴族たちとは一線を画する。タンギューはその大貴族筆頭の貴公子であり、公の場では女性を前にしても冷ややかな笑顔を崩さない。
ダズンはその友の、始めて見る頬を染めた表情に驚くしかなかった。
はっとして、ドュランに目をやれば、口角を下げこちらを睨んでいる。フォンティーヌは目を丸くして見つめていた。
アザレアまでも眉を寄せ、こちら側にだけ分かるよう、口を動かしている。
ヤ・リ・ス・ギ・デス!
やりすぎです? やりすぎ… 遣り過ぎ! 芝居なのか!!
ダズンは慌てて友の姿を背に庇い、ドュランに乞う。
「殿下。数刻の休暇をお願い致します」
ドュランの返事も待たずに、タンギューを室の外へと促すと、アヤカーナがタンギューの手を握ったままだ。その手を外そうと、王女の白い手に触れた、とたん、ドュランの冷たい視線が突き刺さる。
アザレア、何とかしろ!ダズンはアザレアを睨め付ける。
アザレアはピクリと肩を震わせ、慌てて笑みを浮かべた。
緊張をはらんだ室内に、いやにおっとりとした声が響き渡る。
「殿下、では失礼します。フォンティーヌ様とのひと時をお邪魔致し、申し訳ございませんでした。
さっ、アヤカーナ様、隊長の手は繋いだままで参りましょう。こちらがお誘い申し上げたのですから」
「はい」
ダズンは肩を落とした。心底アザレアを小賢しいと呪った。一体誰が収集をつけると思っているんだ。
ダズンは溜息をつくと、外の三名と共にドュランに礼の姿勢を取り、茶を啜りに執務室を後にするしかなかった。