6.
笑いをこらえてダズンはドュランを振り返り、その言葉を繰り返した。
「アザレアに、助けて下さい、か」
机の向こうでは、ドュランが憮然とした表情を崩さない。
昨晩の首尾を、渋るドュランから聞き出し、ドュランの寝室に突入してきたアザレアへ対し、アヤカーナが発した言葉を聴いたところだった。
東宮では今朝方アヤカーナの行方を案じて、女官長と女官たちが右往左往しているのを、アザレアが収めたという話題で持ちきりだった。好色な殿下の手から、アザレア様がアヤカーナ様を無垢なまま助け出した、ということらしい。
皇太子という身分から、女に否と言われたことのない友の、悩める姿が痛ましい。しかし、ダズンはアヤカーナの存在が、ドュランが今まで疎かにしていた、皇太子としての自覚を刺激していることを快く思っていた。
それに、耳に入るアヤカーナの純粋な性質も気に入っている。ダズンは、愚者ではないドュランが、己の成すべきことに目覚めることを願い、この結婚が二人にとって、また政治的にも上手くいくよう、尽力すると決めている。その為には、アヤカーナの守護を固めなければ、と感じていた。
伝統と格式、血統を重んじるパーレス帝国内において現在の皇位継承第一位はドュランである。ドュランにもしもの事があれば、帝弟であるイズミク公が第一位となる。
ワガセヒロ帝とイズミク公は、昔から良好な兄弟関係にあり、聡明なイズミク公は、皇帝という重荷を背負わずにいられることを善し、としている。
故、現在のパーレスには皇位継承闘争は存在していない。むしろ、狙われるとすればアヤカーナだろう。
パーレスの貴族達は、国土も狭くこれといった産業もないケセン王国を、田舎ものよ、と見下している。己の地位に固執し、下のものに優越感を抱き、権力を欲するのは貴族の性であり、“皇后”というパーレス貴族が座ることが出来る、最上位に執着する姿が容易に想像できる。パーレスの国益など、貴族たちの眼中にはないはずである。
ダズンは癖のある琥珀色の髪をかきあげ、頭を振る。
考え付く攻めは阻止できる、但し、女性特有の陰湿な嫌がらせはアザレア達に一任するしか無いだろう。
彼女は、為政者を叔父に持つ機智に富んだ女性で、信頼できる。
何せ、その為政者こそ、アザレアをアヤカーナの侍女に命じた、皇帝の腹心宰相リキュウなのである。
アザレアはパーレス宰相を叔父とし、清廉潔白と謳われるタイハク侯爵ジョルラス・ヴァンドームを父に持つ皇帝派の女傑である。つまり、皇帝陛下がアヤカーナの護りに付いたということであり、ダズンにとっては、何よりの加勢であった。
自ずとダズンの顔に笑みが浮かび、言葉が漏れる。
「王女は可愛らしいお方だな」
タンギューは侍従が運んできた葡萄酒を一気に煽り、カタンと音をたててテーブルに置いた。
「おいダズン、王女は殿下の婚約者だ。
その王女に横恋慕とは、殿下に対し反逆の意あり、と疑われても仕方ないぞ」
「そのような気は全くない。
…が、殿下に、面倒をみろ、と命じられたら、即、引き受けるよ」
「おいおい、そうなったら、俺は、ドューに惚れている王女に同情するな。
ドュー、どうなんだ」
タンギューはそう言って、ドュランに向けてグラスを上げた。
ドュランは、可憐な王女に慕われているといわれ、悪い気はしない。無邪気に向けられる潤んだグレイの瞳に庇護欲が駆られ、アヤカーナから目が離せないのも事実だ。朝も邪魔が入らなければ、理性を保てなかっただろう。
反面、この結婚により、己の不甲斐無さを自覚させられるのには、男として辟易する。皇太子でなければこのような思いはしないのではないか、という思いに捕らわれる。
「味見をしてから考える」
また逃げた、と二人は思った。しかし、ちらりと見せたドュランの瞳の煌きに満足していた。ドュランが王女に魅かれているのは、間違いないはずだ。
ダズンとタンギューがしたり顔を見合わせたところで、扉の向こうから来客が告げられた。
「イズミク公爵令嬢フォンティーヌ様、おみえでございます」
開かれた扉のその向こうに、フォンティーヌが微笑んで立っていた。堂々と進み出るフォンティーヌに男三名は慌てて立ち上がり姿勢を正す。
女性が立ち上がっている時の男子は立っている。パーレス王侯の慣わしである。
ごきげんよう、ドュー。と膝を折るフォンティーヌ。
ドュランは前へ進み出ると、その頬へキスを落とした。彼女は、ダズンとタンギューにもそれを繰り返し、二人は目礼を返す。
フォンティーヌはそれを満面の笑みで受け、ドュランへ向き直ると、大きな手を両手で引き寄せソファへ腰を下ろした。
頭を並べて座る二人の姿にダズンは嫌な予感を感じた。ドュランがフォンティーヌに対し、恋情を見せたことはない、従妹としか見ていないことに間違いはない。だがフォンティーヌはどうなのだろう。赤毛のフォンティーヌの姿がダズンの頭の中に何かを呼び起こし、掴み取る前に消え去った。後でゆっくりと考えようと思った。
それでは、と出て行こうとする側近二人に、フォンティーヌは拗ねたような顔を向ける。
「まあ、タンギューもダズンも水臭くてよ。
私とお茶をご一緒して」
ドュランが、座れと顎を引く。二人は内心しぶしぶ腰を下ろした。
フォンティーヌは用意された茶の香りを確かめ口に含む、おいしい、と微笑い、直ぐに顔を曇らせた。
「ドュー、昨日はごめんなさい。
アヤカーナ姫と廊下で見苦しい会話を致しました。」
言うとフォンティーヌは睫毛の間からドュランを見上げ、翠色の目を瞬かせた。
「ニコルが、私のために道を譲って欲しい、とお願いしたのが、アヤカーナ様でしたの。
でも私も皆も、怖くて、アヤカーナ様に気付くのが遅れてしまいました。
だって、道を譲らねば斬り捨てる、などと脅されるなんて、始めてのことなのですもの。」
潤んだ瞳でドュランを見上げるフォンティーヌを尻目に、タンギューは、口にしたきつい香りの紅茶に顔をしかめた。好みの茶ではない。目の前の赤毛の令嬢のような茶だ、と感じ、思わず茶器をダズンの方へ除けた。そのダズンは隣で、小指を立てて茶をすすっていた。友の奇怪な姿に笑いを堪え俯いていたタンギューは、突如響いた嗚咽に顔を上げる。
「私…ったら…ケセンの…常識を知らず…、アヤカーナ様に…ご不快な思いをさせて…」
語尾は声にならず、嗚咽を上げフォンティーヌがドュランの胸に顔を埋めた。
「フォン、アヤカーナには私の方から伝えておくから、泣くな」
ドュランはそう言っているが、ダズンとタンギューの目には、涙など見えなかった。それでもフォンティーヌはドュランの胸でまるで子供のように首を振っていた。
「私が悪いのです。私が…っ…っ」
ドュランが宥めようとフォンティーヌの肩に手を置こうとした途端、嗚咽が大きくなりドュランの首に細い腕が強く巻きついた。
一向に収まることのない泣き声に困惑して、友に助けを求め目を遣れば、二人とも頬を引き攣らせ何やら口だけ動かしている。当てにならない、と諦める。
従妹にごめんなさい、と耳元で泣かれ、ドュランには背中を撫でながら慰めの言葉を掛けてやることしか浮かばなかった。
「フォンは悪くない
ここはパーレスなのだからケセンの常識など通用しない」
ドュランは泣き声に消されまいと声を張り上げた。
ふと、ドュランは部屋の空気が変わったことに感付いた。
何だ、水を打ったようなこの静けさは。
フォンティーヌの嗚咽までピタリと止んでいる。不審に思い、ダズンを見れば、立って扉を見つめている。タンギューも然りだ。
ドュランはフォンティーヌを抱いたまま、ゆっくり扉へと顔を向けた。
「ごきげんよう、殿下、フォンティーヌ様」
青い瞳と目が合い、アザレアが優雅に腰を折る。後に居る金色の髪はアヤカーナか。
ふわりと身体が軽くなった。
「まあ、ごきげんよう、アヤカーナ様、アザレア様」
隣でフォンがにっこりと挨拶を返している。完璧な顔のまま…。