4.
少女の頬は艶やかなピンク。まだ筒のような上体から床へと、スカートが重そうに広がっている。金色の頭には、アイボリー色したレースの大きなリボンが乗っかり、大きな巻き毛が背中で弾んでいる。なにやら、鼻歌を口ずさんでいた。
13の歳を数えたばかりのアヤカーナは、いつもの動線で、寝室から続きの部屋へ出ると、壁の前に止まった。自然と鼻歌も止んでいる。
壁に掛かっている、豪華な幕が付いた絵画に向かい、軽く膝をおり、礼の姿勢をとる。
「ドュラン殿下、今日のケセンは晴天で気持ちが良いです」
許婚である隣国パーレス帝国皇太子ドュランの姿絵に話しかける。
これは、母に言われて始めたことだ。初めのうちは、おざなりに済ませていたが、心を込めた方が絵の殿下も嬉しいでしょ、と母に諭され、なるほど、と思った。今ではアヤカーナの楽しい日課になっている。
こちらを見つめる、濃い栗色の髪、琥珀色の瞳、鼻筋の通った若者は唇をきつく結んでいる。微笑んでいる絵が送られてきたことは一度もない。
それでも、アヤカーナは話しかけると、絵が微笑ってくれるように感じた。弟達の話、城での出来事など、たわいもない話をする。話の仕舞いには必ず、殿下、大好きです、と告げる。
その時の殿下の笑みが一番素敵だと思う。
声が聴こえるのではないか、とアヤカーナは絵画のドュランへ、期待の眼差しを向ける。もちろん聴こえたことなどないが。
「アーヤ、今日も綺麗だよ」
私を現へと戻すのは、マリユス従兄様の声だ。
振り向くと、五才上の従兄弟が扉にゆったりと肩を凭せている。
「従兄様、いつ入ってこられたの」
「ノックはしたよ。
でも、アーヤは殿下に惚けていたから」
そう言うと、マリユスは悲しそうに微笑い、軽く両手を広げる。
額にかかった薄い金色の髪をかき上げると、アヤカーナに手招きする。
「アーヤは、私と殿下のどちらが好きかい」
はいはい、従兄様よ、と慣れたように呟き、アヤカーナはマリユスの腕の中に納まった。
息を吐いて身体を預けると、額に温かいものが触れる。お返しに、おはよう、とマリユスの頬に唇を寄せた。
すると、ふわりと抱き締められ、頬にマリユスの細い金色の髪がくすぐったい。温かい息がかかり、耳元で囁かれる。
「私が王だったら、アーヤはパーレスになど嫁がせない…
今頃、皇太子殿下は、赤毛の麗人と仲良くしているだろうに」
これは、いつもの従兄様の挨拶。アヤカーナはうんざりしたように微笑う。
この従兄弟によれば、殿下には恋人がいらっしゃるそうだ。何でも、赤毛で小ぶりの鼻に雀斑が散った令嬢なのだという。その赤毛の女とは小さい頃から仲が良く、パーレス宮廷もこの令嬢を皇太子妃に、と望む声が少なくないらしい、ということだ。
アヤカーナの脳裏には色々な赤毛の女の姿が浮かぶ。背の高い女、低い女、太った女、痩せた女…。いつも、その女達は、薄い紗の幕に覆われ、はっきりとした姿を見せることはない。
なのに、変だ、今日はくっきりと見える。焔色の髪、翠色の瞳に瞳色のドレス、ドレスから伸びる細い首、高い身長、今迄想像の域を超えることがなかった顔貌が、急に現実となって姿を晒している。
その赤毛の女性がアヤカーナを認め、近づいて来る。こちらへ来る程に、女性が思っていたより大きい女だと解かる。見上げるアヤカーナを、麗人は満面の笑みで見下ろす。
「はじめましてアヤカーナ様。私がドュラン皇太子殿下の真の婚約者フォンティーヌです」
アヤカーナは目を開けた。
口の中が乾いて苦い。唾をごくりと飲み込み、目じりを指で拭う。知らないうちに泣いていた。
何度か目を拭い、天井の模様を確認する。上体を起して、やっと深く息をついた。
「嫌な夢…」
夢だと確かめる意味を込め、声に出して首を振る。なぜこんな夢を…。
昼間、回廊で出会った公爵令嬢フォンティーヌが、現皇帝の弟君イズミク公爵のご長女で、ドュランの従妹にあたることを教わった。アザレア達は相手にすることは無い、と一笑に付してはくれたが、アヤカーナは溜息をとめられない。
嫌なことは続くもので、就寝前には、護衛に就いていた近衛隊長のタンギューが、解任の挨拶に来た。護衛に就かれた当初は、黒髪の美丈夫に戸惑いを覚えた。しかし、タンギューの飾らない態度と優しさを知り、信頼できる方だと頼りにしていた。その方が護衛から外れるのは悲しい。
そのタンギューに、一人では動かないように、と忠言され、庭の散歩を思い留まった。それも、嫌な夢をみた原因にあたるのかと考え、そろりとベッドを出る。
もう眠れない、と思った。
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東宮前の小さな庭園の中央に造られた、白い亭が、月光に輝いている。
花の香りに囲まれ、亭の椅子の上で、薄着のアヤカーナは、膝を抱えて月を見上げていた。
ここパーレスはケセンに比べ、とても暖かい。この時期ケセンでは、夜着一枚で外に出ることなど叶わない。アヤカーナは贅沢な気がして、いつまで夜着一枚で過ごせるかこっそり数えていた。
「アッキ、ユッキ、パーレスではまだ夜着一枚で寒くないのよ。
暑がりなお父様がここに居たら、お母様に叱られるわね。裸ははしたない、って」
ケセンの弟達へ届け、とばかりに半月に向かって話す。
月が鏡になって、ケセンの家族の様子を半分でも映してくれないか、じっと目を凝らす。その逆でも良いと、月に己の姿が映るよう首を伸ばす。
しかし、毎晩繰り返しているが、どんなに待っても奇跡は起きないし、弟達に奇跡が起きているかなど知る由もない。
息を吐くと膝に顔を埋める。秋の夜風がさわさわと、萩の枝垂れをそよいでいる。私は萩のような女性になれるのだろうか。どんな風にも柔軟に耐えられる皇太子妃に…。
萩が強い音をたて、アヤカーナの髪を冷たい風が剥く。アヤカーナは背中を丸め、身を震わせる。寒い、と思った。瞬間、肩に衣が舞い降りた。
「風邪をひくぞ」
アヤカーナは目を丸くした。
皇太子殿下が目の前で、アヤカーナの身体を覆うよう衣を整えてくれている。身体が手早く、すっぽりと衣に包まれた。すると女官たちとは違う大きな手が、アヤカーナの肩に、よし、と置かれた。
ドュランは顔を回らすと、石で出来た椅子を引き寄せ、それに腰を下ろす。忽ち、尻が冷たいな、と顔をしかめた。
「あの殿下、殿下がお風邪を召します」
アヤカーナが衣を脱ごうと動くと、ドュランは衣の前を押さえ、動作を封じる。
「俺はいらない!」
ぴしゃりと言われ、アヤカーナは言葉を失う。
ドュランは深い溜息をつくと、掴んだ手を離し椅子を跨ぐように腰掛けた。
ドュランが掴んでいた所を、アヤカーナはぎゅっと握り、頭を下げる。
「差し出がましい真似を致しました」
「うむ」
ドュランは言ってしまって、慌てて言い添える。
「それは王女のために持参したものだから…」
アヤカーナのきょとんとした澄んだ灰色の瞳を目にし、ドュランは言葉が続かない。
「私の…ためですか」
嬉しそうに微笑うアヤカーナを前に、ドュランは胸の辺りがざわざわと落ち着かない気がした。
ありがとうございます、とアヤカーナは薄紅色の衣に鼻まで埋まる。
ドュランはどうにも落ち着かず、口を開く。
「なぜ庭に居るのか聞いても良いか」
「月を見ています」
「月を見に、毎夜か」
アヤカーナは瞬く。
「…はい」
「それ程に月が好きなのか」
「…」
ドュランが、いくら待っても応えはなかった。
アヤカーナはこっそり取っていた行動が、知られていたことに、恥ずかしくて顔を上げられない。
うつむいて黙ったままの少女にドュランは期する。
「すまなかった。許して欲しい」
唐突なドュランの謝罪に、アヤカーナは顔を上げ、目を見開く。
思わず、違う、と首を左右に振っていた。
皇太子殿下に謝罪をさせるなど、恐れ多くて涙が睫毛にたまる。
ドュランは、いや、と軽く頭を振りアヤカーナを宥めた。
「侍女の件、それに調度や小物など、馴れ親しんだものを与えてやれなかった。」
アヤカーナは目をしばたたくと、そんなこと、と顔を上げて微笑う。
「一番大切なものは持参致しました。
殿下、私は同じ月が、ケセンも照らしているのだ、と眺めていただけです」
「… 虐められたとか、不満があるのではないのか」
いいえ、と微笑うアヤカーナが労しかった。
「何か望みはないか」
ない、とまたもや首を振るアヤカーナにドュランは、よく考えて後で告げるよう促す。アヤカーナは困ったように微笑うだけだった。
また、会話が途切れる。
ドュランはしばらく何を話したらよいのか迷っていた。アヤカーナは隣でずっと俯いている。
「アザレアは昔からきつい女だった。苦労しているだろ。
ハンスイとケイトはアザレアの腰巾着だ。」
ドュランは共通の話題に思え、アヤカーナに笑顔を向けた。
「いいえ、アザレア様はとても楽しいお方です。ケセンの母を思い出します。
ハンスイ様やケイト様は弟達を…」
あれ、ぽたぽたと薄紅色の衣にしみが広がっている。折角殿下から頂いたものなのに。慌てて、増えていくしみを払っていると、低い声がした。
「……ケセンが恋しいのか」
しみを払う手が止まる。
…恋しい。…ああそうか、このしみは自分の涙だ。
アヤカーナは自覚すると、静かに泣き始めた。丸くなって衣に顔を埋める。
すると頭を撫でられ、殿下が居ることを思い出し、謝る。
「謝る必要はない」
ドュランの言葉に、堪えていた声までも上がる。
ドュランは声を上げて泣いている少女を抱き寄せ、その広い胸に包み込む。
なんて軽くて温かいのだろう。背中をさすると少女はしがみ付いてくる。
「国に…帰りたい…です…」
嗚咽が混じり、途切れ途切れの言葉が聞こえた。ドュランは語尾を繰り返す。
「…帰りたい、な」
「お母様に…会い…たい…です」
少女の心を聴き、ドュランは己の浅はかさにに愕然とした。
詰め込みました(笑)