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「アヤカーナ様、閨房学のお進み具合は如何ですか」
アヤカーナの着席と当時に、紅の唇が微笑い含みに開く。
居間のテーブルをアザレア、サンスイ、ケイトが囲み、アヤカーナの着席とともに会話が始まる。口火を切るのはアザレア。これが侍女達との一日の始まりだ。
「殿下のご嗜好など、私たちで宜しければご伝授いたしますわ、ね」
サンスイが、テーブルに置かれたアヤカーナの指先を軽く握って首を傾げる。他の二人の首も傾いていた。
「どうもありがとうございます。」
アヤカーナは嬉しそうに笑う。
そして、思い出したように、ごめんなさい、と顔を曇らせた。
「教義のご本を所望しているのですが、まだ届いておりません。もう少し―」
アザレアが隅に控えている女官長を振り返る。女官長は無表情で立ったままだ。
居間の空気が変わったことに、アヤカーナは戸惑う。勉強をしていなかった私が悪いのだ。
庭での一件来、心配で何度かアザレアに怪我の見舞いを申し上げた。会う度に気遣っていたら、あれは怪我ではなく男性の所有欲の証だ、とアザレアに一蹴された。意味が分からず、きょとんと瞬いていると、息を吐かれ、閨房学を学ぶよう強く勧められたのだ。
ごめんなさい、とまた口を開きかける。せつな、風を感じた。顔を上げると三人が立ちあがり、艶やかに笑んでいる。ケイトが目を細めて告げた。
「図書室へ参りましょう。よい閨房の教本がございますわ」
小柄なアヤカーナは早足で宮殿の回廊を進む。前を行くアザレア達は歩調をゆるめることはない。後ろには女官長、護衛のタンギューと近衛兵が続いている。
回廊の両側には大きな窓が並び、内に陽の光を満たす。ところどころ、碧く輝くのは宮殿の屋根、白い木の枝には黄色の葉が輝いている。
前方から来る人々が、波の割れるように脇へと退き、窓を背に軽く腰を折る。アヤカーナは彼らの視線が薙いで行く苦痛をやり過ごす。図書室はまだなのだろうか。
不意に、先導している三人の歩みが止まった。図書室へ着いたのかとアヤカーナは首を回す。
違う。アザレアを筆頭としたこちら側と、ドレスを召した方々の集団が対峙している。
アヤカーナは、道を譲ろうと思った。が、動けない。女官長に強く腕を掴まれていた。
「そのまま、おっとり構えていらっしゃいませ」
アヤカーナは目線だけで頷く。微笑んでいる女官長に、緊張で笑顔を返せない。
「アザレア殿、お退き下さい」
女の水色のドレスに見合った、冷たい声が長廊に響いた。
アザレアはまあ、と目を丸くした。そして、くつりと微笑う。
「お退きになるのは、そちらでございましょう。ニコル殿」
「公爵令嬢フォンティーヌが通ります。」
二コルと呼ばれた女は、口元を覆っていた扇を閉じ、それを横に振る。
「道を空けるよう。」
アザレアはドレスをつまむと、軽く膝を折った。ハンスイとケイトもそれに倣う。
「王女殿下がお通りになります。お退き下さりますよう」
哄笑が向こうから降ってくる。嘲笑に混じり、ケセンにハイネスなどという称号があるのか、タイハク候は腰抜け、などと中傷も聞こえた。アヤカーナの目に、アザレア達の表情は見えない。隣の女官長の平生と変らぬ態度が支えだ。
囂しさをやり過ごし、アザレアが顎をあげる。微笑んだままだ。
「さて運動はお済みか。速くお退き下さい。それとも―」
後ろを振り向き、肩をあげる。
「近衛隊長に任を全うして頂くほうが宜しいかしら」
水を打ったような静寂が立ち込める。
近衛隊長の護衛。それの意味するところは、ケセン王女が、両陛下、殿下とご同列ということ。無礼あらば、斬り捨てられる。
「二コルさま、皆さま。道をお譲りして差し上げましょう」
ドレスの塊が割れ、緑色のドレスが全身を現す。緑色の上には、深紅の髪に翠色の瞳、鼻の頭に雀斑をのせた、愛らしい顔があった。
緑色の女性は、ごきげんようハイネス、と膝を折りそろりと脇に避ける。その後を追うように女の集団が散った。
アザレアは背筋を伸ばし優雅にその間を通り過ぎる。もちろんアヤカーナも目一杯おっとりと三人に続いた。
大きな扉をくぐり、アヤカーナは目を見張る。グリリフ宮殿の図書室は、天井まで中央が吹き抜けていた。その中心にある、湾曲した大きな白い天窓から光が降り注ぎ、四方壁一面に本が並んでいるのを三階まで見渡せた。光沢のある赤黒色の重厚な階段が上階へと渡され、階段から通路に至る全ての手摺に削られた、曲線のアラベスク彫刻が別世界を錯覚させた。その素晴らしさが、アヤカーナ頭の中から先程の廊下での出来事も忘れさせてくれる。
誰も廊下での件を口にしない。聞きたいことがないと言えば嘘になるが、必要なことは必ず教えてくれるはず。アヤカーナはアザレア達を信じていた。
女官長に促され、中央のテーブルに着く。改めて頭をぐるりと廻らす、こんなに沢山の本を見たのは生まれて初めてだ。多くの蔵書の中、目的の本はどうやって見つけるのだろう。ワクワクする。
「タンギュー。さあ閨房学の本をこれへ」
アザレアの命令にタンギューは目を見開いた。
「なぜ私が」
アザレアがふん、と鼻で息をする。
「昔から、その手の本は男性に聞くのが一番。所在など直ぐに頭に浮かぶでしょ」
タンギューの肩が落ちる。
「アザレア。確かにいろいろ浮かぶ本はある。だが女性向けでないことは確かだ」
一斉に甲高い声が上がる。それを持って来なさい。とアザレアが声を張り上げる。
その様子をアヤカーナはぽかんと見上げていた。
タンギューはことさら肩が落ちるばかりだった。が、ここで引くわけにはいかない。
「男として、一番の理想は、何も知らない女性に手取り足取り教える、ってのだ。
ドュランの楽しみを奪うのは頂けない」
まあ、と揃った声がした。そして顔を見合わせ、なるほど、と神妙に三人は頷いた。
「アヤカーナ様。閨房学の先生は殿下にお願い致しましょう」
アザレアの提案にアヤカーナは、はい、としか答えられなかった。でも閨房学とは一体何だろう。早く教本を読みたい。
タンギューは、溜息をつくことしか出来なかった。
目的は果たせなかったが、折角図書室へ出向いたのだからと、アザレア達があれこれ本を選んでくれる。明日この本についてお伺いいたします。と積まれた本は十冊ほど。アヤカーナは思わず、頬をふくらませた。
アザレア達の軽やかな微笑いが図書室に響く。
女官長が隣のテーブルに揃った茶器を並べる。アヤカーナは読みかけの本を置き、花の香りがするお茶に一息つく。目を上げると正面のアザレアの青い瞳と目が合った。
「アヤカーナ様、先程の不躾をお許し下さい」
「いえ、…あの、こちらこそ申し訳ありませんでした」
アザレアが怪訝な顔を向ける。
「助けていただいた上、皆様に不快な思いをさせてしまいました…」
アヤカーナはうつむいてしまった。
アザレアは息を吐く。
「貴女が謝る必要などございません。あれで正解です。」
アヤカーナは顔を上げ、瞬きをした。
「お会いして以来、どんな戯れを向けても、腐る事無く貴女は私達を信頼して下さりました。先程も私を信じてくれておりましたでしょ。」
アザレア、ハンスイ、ケイトの三人は立ち上がり身体をアヤカーナへ向ける。笑みを浮かべ揃って膝をついた。
「私達は力の限り貴女をお守りいたしますし、お助けいたしましてよ」
アヤカーナは何を言って良いのか分からず、瞬きを繰り返す。
「もし、あの廊下で貴女が、無駄な争いは止めて、私が引きます。などと、押し付けがましく、でしゃばったら、貴女をお守りする事が出来ませんでした。そして、私達の面子もつぶされていたのです。これは、貴女がご自分でご自分の格を下げるという意です。
身を引く、争いは嫌、などと喚くのは、単なる自己陶酔です。あの場面でしたら、私達を信じていないから取る行動です。
自分を信頼してくれない主人を守る事など、無理な話でしょ。第一そんな主人、守りたくも助けたくもございません。
だから貴女は正解なのです。」
アヤカーナはきょとんとしていた。
子供の頃から言われていたことだ。あれ、アザレアは誰かを思い出させる。意地悪じゃないくせに意地悪な人…。
くすりと微笑う。ああ、そうだ、アザレアはお母様に似ているのね。
「ありがとうございます。
私は皇太子殿下を愛していますし、パーレス帝国を信じています。昔も現在も変わりません」
アザレア、サンスイ、ケイトそしてタンギューまでも目を見開いた。
そして揃って破顔した。
う~ん(-公-)
これが、私の精一杯・゜・(。>ω<)・゜・m(_ _;)m