1.
「ユル…シュール…殿」
アヤカーナは驚いて、冬椿を切る手を止めた。庭園の入り口のところに、眉の上で切りそろえた濃い灰色の前髪に、口髭を蓄えた壮年の貴族が立ってこちらを見ていた。
「どなた?」
宮殿の裏側にある庭園に冬の椿が見事に咲いていると聴き、朝食前一人で花篭と花鋏を持って切りに来ていたのだ。もちろんドュランに許可を貰ってである。
思わず感嘆の声が漏れるほど、濃い緑葉の中で白と赤の椿がその色を競いあって咲き誇り、そこは冬とは思えない空間だった。
フォンティーヌに負わされた傷も癒え、今日は午後から念願だったマリユスとの茶会が控えており、居間を飾る綺麗な花を持ち帰ろうと夢中になって鋏を入れていた。
そんな時だった、声を掛けられたのは。
「お嬢さん…」
華麗に咲いた花の間から、その紳士はまっすぐにアヤカーナのほうに歩いて来た。
アヤカーナは、男が毛皮の多くあしらわれたガンシュの衣装を纏っていることに気付く。
「あら、ガンシュの方なのですね。」
ふわりと微笑って首を傾げる仕草に男は目を細め、記憶の底から浮かび上がる女性の姿を重ねていた。
この娘、マリユス殿下の生母ユルシュール殿に瓜二つだ…。
ガンシュ最南の片田舎に位置するハイデン領主の娘ユルシュール…。
あれは二十年以上も昔、ガンシュの首都ヒップノウルにまで聞こえた美女を確かめてやろうと、陛下に付き従い訪れた、林の中の領主館。果たして現れたのは、着古したドレスを纏った天使だった。その天使は馬上の高貴な人間には目もくれず、長い距離を酷使されて、荒い息を吐く馬を真っ先に労わった。
「可哀相に、お水をあげるわね」
一人の人間を前に、茫然自失とした陛下を見たのは、後にも先にもあの一度きりだ。それは同時に己の片恋の始まりでもあった…。天使に魅入られたのは陛下だけではない。
あの時の辺りにたちこめた萌え立つ緑の匂いを、私は今もはっきりと思い出せる。
「ユエール?さんという方をお探しですか?」
ユルシュールの幻が静かに消えて行き、不思議そうな眼差しを向けた令嬢が彼を夢から呼び醒ます。男は、はっとして口を開いた。
「申し訳ございませんでした。私は、ガンシュのフィリップ・ケープと申します。
お嬢さんが私の知っている令嬢に似ていらしたので、つい懐かしくて。」
そう言うと、フィリップ・ケープは魅惑的な微笑を浮かべて、彼女の方に身を屈めた。
「お名前をお聞かせ願えますか」
ケープには予想が付いていた。ユルシュールには妹がいた。その妹セイラはケセン王妃でありマリユス殿下の養母のようなもの、この娘はパーレス皇太子の許婚ケセン王女アヤカーナだろう。
美しい瞳に正視されアヤカーナは戸惑った。このように声を掛けられたのは生まれて初めてだ。
彼女は躊躇いながらも、ガンシュの人ならマリユスの部下ということ、それなら警戒する必要もないと思い、口を開き答えようとした。
途端、護衛に付いていたフイイが彼女の前に手を出して、それを阻んだのだった。
アヤカーナが気を取られている間に彼は、フィリップ・ケープへ警戒の一瞥を投げつける。
「失礼致します。
さあ、お時間が過ぎております。戻りましょう」
フイイの柔らかな微笑みにつられ、アヤカーナも微笑み返す。
「はい」
アヤカーナは急き立てられる様にフイイに従い、ケープの前を通り過ぎた。
庭園を出た所で振り返ると、彼はまだその場に佇みこちらを見詰めている。
あの方は私を誰と間違ったのかしら。
「フイイはユエールかユシェールさんという女性をご存知?」
アヤカーナは歩調を緩めて、後ろについているフイイに並び訊ねた。
並んで歩きながら、フイイは丹念に記憶を探ってみるが思い当たらない。もう一人の護衛騎士に視線で訊ねてみれば、あちらも首を横に振った。
「私はそういうお名前の方は存じあげませんが。その方がどうか致しましたか」
「ううん。ただ、なんとなく」
フイイは人知れず溜息をつく。アヤカーナに会ったのはあの事件以来八日振りだった。
見た目の傷は癒えたようなので安心したのだが、以前の彼女とは何かが違っていた。無邪気な愛らしさが前面に押し出された華やかな感じの少女に、なんと言うか、何かに耐えているような儚げな哀愁が加味され、女性らしさが増している。これから益々大人の女性へとご成長なさるのが窺える。
殿下のご苦労が思い遣られる。事実自分も今朝の再会時、王女に“助けてくれてありがとう”と抱きつかれ、つい本気で抱き返していた。主従としてではなく、男女を意識してだ。あの場に殿下が居られなかったのが、幸いだったと心底思う。但し隊長は居たが……。
タンギューの顔を思い出し、フイイの顔が引きつる。
先程のガンシュ貴族との接触も報告を上げた時点で、私は隊長からこっ酷い咎めを受けるだろうな。思わず自嘲が漏れる。
…とっ、とにかく、殿下もまさか自分の妃を東宮に閉じ込めておくわけには行かず、他人へ微笑みかけるなとも言えまい。
気を取り直して彼女に一言注意を促す。
「アヤカーナ様、誰に声を掛けられても決して口をお開きになりませんように。」
胸にそっと抱いた冬椿の芳しい香りが鼻を擽る。アヤカーナの意識はすでに白い椿の花へと移っていた。
綺麗なお花。部屋へ戻ったら髪にも飾って貰おう。マリユス従兄様は何ておっしゃるかしら。
でも最初はドューに見せなきゃ。ドュランを想いアヤカーナは相好を崩す。
フイイの言葉など届いていなかった。
「え?フイイ何かおっしゃった?」
フイイは天を仰ぎ肩を落とした。
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「マリユス殿下の立太子式へは、パーレス帝国側として特使を臨席させて頂きますが、今ここで何方が、ということはお答え致しかねます。
皇太子、妃両殿下というご要望ですが、式の時点ではまだ婚儀が済んでおらず、アヤカーナ様は妃殿下では無くケセン王女殿下というご身分であらせられますので、御二人での臨席はお考え下さいません様に。」
グリリフ宮殿暁の間、パーレスとガンシュの条約協議が行われていた。
残すは調印式の日時調整だけという段階で、ガンシュ側が、大幅に折れた見返りとしてパーレス皇太子夫妻のガンシュ立太子式参列要求を出してきた。今、その要求に対しての返答がなされているところだった。
宰相リキュウは、突如立太子式への参加を要請してきたフィリップ・ケープをそれとなく目で追っていた。
現在のガンシュの要は宰相アニリスだ。彼に可愛がられているというリベラ伯フィリップ・ケープ。40代には見えない洒落者で魅惑的、才覚に富んだ男と聞いていた。我が国のイズミク公はこの男ケープに乗せられ道を誤ったのだ。公は若輩マリユスを手玉にとって動いていたつもりが、実は背後にいたケープに踊らされていたという訳だ。
王は後継者としてマリユス王子を認め、アニリスやケープまでもがマリユスの後見に付いた。はてさて、金鉱脈だけが理由だったのか。
そのケープが要求を口にした途端、ドュランとマリユスの顔色が同時に変わった。ドュランは無論、ケープの主であるマリユスさえも知らなかった展開ということだ。
手駒イズミク公を失い昨日まで大人しかった洒落者が、にやにやと頬を緩め何を思いついた?
リキュウは無表情の仮面の下でケープの動向から眼を離さない。
場の重い空気など意に介さず、ケープはにこやかに切り返す。
「貴国側はそれで結構ですよ。
王女殿下への招待はケセン国へ申し出れば宜しいのですね」
そこかしこから息を呑む声が上がる。ケセンがガンシュに対し、否を言えない事は誰しもが知っていた。パーレスが駄目だと断言している申し出を、ケセンに覆させると言うつもりか。なぜ急に、ガンシュの立太子式などを出すのか、その場の全員が疑問に感じていた。
ドュランはダズンを呼びつけ何やら話し合っている。
マリユスでさえ卓上の拳が震えている。怒りを堪えているのだ。
顔が怖いですぞ、殿下。女如きで顔色を変えてはなりませぬ。リキュウは心の中でドュランを叱る。
敵に弱みを握らせる訳には行かない。ドュランが動く前に何とかせねば…。
今迄一言も発する事無く、ガンシュとパーレスのやり取りを見守っていた宰相リキュウが、テーブルを軽く鳴らし身を乗り出す。それだけでざわついた場が静まり、パーレス宰相の発言を皆が固唾を呑んで待っていた。
「ほう、面白い発言ですな。ケープ殿。
何故、ガンシュがパーレスの皇太子妃に手を伸ばされるのか。
まだ、不可侵条約の調印は済んでおらぬことを肝に銘じ置くほうが宜しいぞ」
鋭い眼光を放つリキュウにぴしゃりと切り捨てられ、ケープは顔を赤らめ引くしかない。
「これは閣下、王女殿下はマリユス殿下の幼馴染と聞き及んでおりました故の申し出です。他意はございません。
出過ぎました、お許し下さい」
すごすごと引き下がるケープの姿に、ドュランはにやりと口角を上げ、マリユスは緊張を解いた。
やれやれ、二人とも失格だ。リキュウは二人の様子に心の中でぼやく。
こちらへ諂いながら、ケープが見せた一瞬の鋭い眼差しを老獪は見逃さなかった。
この痴れ者はドュランとマリユスのケセン王女への反応を確かめていたのだ。
冬椿=山茶花をイメージしています。
寒椿だと頭がポロッと落ちちゃうので、
花びらが散っていく山茶花がGOODです。