11.
執務室の扉が、何の前触れもなく開け放たれ、ダズンは振り返る。すると、ドュランがわざと足音をたてながら、横を通り過ぎ、これまた大きな音をたてて椅子へと腰を下ろした。
ダズンは、眉を寄せてその様子を追い、肩を落とす。
「アヤカーナ様は、まだお目覚めにならないのか」
朝から続くガンシュとの協議の合間を縫って、アヤカーナの様子を見に行くドュランの機嫌が一向に戻らないことを、ダズンは彼女の不調に結びつける。
昼の長休憩だったので、少しは機嫌が良くなるかと期待したが、どうやら甘かったようだ。
やはり、フォンティーヌのあの行為は鬼畜だ。昨日の今日では、仕方あるまいと諦める。
ダズンは親友に同情の眼差しを向け、胸の前で十字を切りアヤカーナの無事を神に感謝する。
「アヤは大丈夫だ。先程目覚め、開口一番、俺にフイイのことを訊いてきた。
‘フイイが自分を助けに来てくれた。彼は大丈夫か’だとさっ」
「ふはぁ?」
ドュランの子供のように剥れた顔に、ダズンはすっとんきょうな声をあげた。
「ド、ドューおま…え…」
ダズンはわなわなと震え、奥歯を噛みしめる。
このバカが!平常時であれば、微笑ましい皇子の嫉妬心で済むが、今はガンシュとの重大な局面を迎えている。こんな時こそ、皇太子としての雅量をみせろ、と心の中で叫ぶ。
友の気持ちも知らずにドュランは、まだぶつぶつと粗野な小言を溢しながら、溜まった書類に手を付けようとしていた。
ダズンは、静かにやれ、と声を上げかけるが、妙な違和感を覚え止めた。
そういえば、条約に対する協議がスムーズに運び過ぎている。協議初日ということもあってか、ガンシュは難題を吹っ掛けてくる処か、パーレス側の要求をすんなりと受け入れ、ガンシュ王女の輿入れ拒否にさえ、マリユス王子は異議ひとつ唱えない。
むしろ彼は、醒めた様子で席に着き、ガンシュ側の人間の発言を観察していた。
何故だ?マリユス王子は、アヤカーナを奪いに来たのではないのか。
ダズンにとって、そんな彼の従順な様子は、肩透かしを喰った気分だった。マリユス王子を過大評価していたのだろうか。それとも単に和平が目的だったのか。
一方ドュランはドュランで、幼稚な嫉妬の矛先をマリユス王子ではなく、フイイに向けている。一体この余裕は何なんだ。
ふとドュランの上に、いつも飄々と責務をこなす宰相リキュウの姿が、重なって見えた。
彼を見つめるダズンの目が、徐々に据わっていく。
「ドュー、本当の事を言えよ。私に教えていないことがあるな。
リキュウ宰相閣下から何を聴いている。それとも提示されたのか」
ドュランは目を丸くし、次の瞬間には頬を緩めていた。
「おぉ、流石我が片腕。気が付いたか」
ダズンは、ドュランのにやけた笑顔にうんざりして、何かを祓うように頭を横に振る。
「さっさと教えろ!」
「知っての通り、陛下とリキュウの考えは、俺達と同じだった。
おかげでアヤカーナを白萩の間へ移せたし、私腹を肥やしていたイズミク公爵を失脚に追い込めた。
色々と骨折ってくれたお前には、とても感謝している」
ドュランの真摯な言葉にダズンは胸に手を当て、悠然と頭を垂れながら思う。
私は私のオマージュを、すべてお前に捧げていることを忘れてくれるなよ。
ドュランは頷いて先を続ける。
「その陛下の真意をリキュウへ訊ねに行った時、回答を得る条件として、質問が出された。
―この不可侵条約締結で、一番得をするのは何処か―
俺はケセンだと答えた。ケセンが上手く立ち回れば、ガンシュとパーレスの両方から、良い条件を引き出せると思ったからだ。
リキュウからは及第点だと言われ、陛下の真意を教えて貰い、そしてケセン側の親書を見せられた。」
ドュランは瞳を閉じ、あの時の情景を思い浮かべる。
リキュウから『恐れ多くも陛下のご意向は、殿下がお考えになっている通りです』というお墨付きを貰い、早々に退散しようと腰を浮かせかけた時だった。
「殿下、なぜ及第点なのか、理由をお聴きになりませんのか。」
鋭い声にドュランはその場へと留められた。
声音に反し、にこりと微笑っている老獪は、右手に持った書状をひらひらと振り、ドュランへ差し出して来る。
胡散臭げに覗いたその書状は、ケセン国王夫妻がパーレス帝国皇帝夫妻へ宛てた親書だった。
驚いて顔を上げると、リキュウが片眼を瞑ってくる。呆れて書状を放り出したくなるのを堪え、書面に集中する。
次第に真顔になっていくドュランの様子を、リキュウは静かに見守っていた。
「このこと、マリユス王子は知っているのか」
ドュランは読み終えた親書を、丁寧にリキュウへ返す。
「今はご存知無いでしょうな。
それより殿下、何故及第点だったのか、お解かり頂けましたか」
どうやら古狐は、親書の内容について話し合うつもりはないらしい。
ドュランは溜息を落とし、素直に教師へ回答する。
「ああ、俺はケセン側の真意を探るのを怠った」
「ご名答です。では、次回は高得点を期待しておりますぞ。」
もう終了とばかり、リキュウは立ち上がり優雅に礼をする。
ドュランは複雑な心境を抱え、静々と退席するしか他なかった。
「で、その親書の内容とは?」
ダズンからの問いにドュランはゆっくりと語りだす。
「先ず、ガンシュ王女の輿入れの噂を聴いたケセン国側の公式回答は『ケセン王女とパーレス皇族の婚姻が履行されること望む。但し、相手はパーレス帝国皇太子に限らず』
その理由が皇帝皇后両陛下宛に、私信として認めてあった。
ケセン国第一王女アヤカーナは、20年前に亡くなったマリユス王子の生母ユルシュールに、容姿から性格までそっくりなのだそうだ。
ケセン王妃は、姉ユルシュールの死について全てを見ている。当時、ガンシュ王の姉に対する執着は凄まじく、見苦しいほどだったと述べていた。そして、姉は幸せではなかった、と。
そこでケセン国王夫妻は、成長するほど姉に似てくるアヤカーナの容姿を、ガンシュ王にだけは知られまいと、必死に隠していたそうだ。此方に送っていた、本人に似ても似つかない姿絵の件も、かなり詫びていたな。
もし、ガンシュ王がアヤカーナに興味を持ちでもしたら、ケセン国は突っぱねられない。パーレス皇太子の許婚という枷が外れたアヤカーナを、ケセンは護れないと、自国の弱さを嘆いていた。
ただ、ケセン国王はひとつの希望を抱いていたそうだ、ガンシュ王が母親に似ているマリユス王子を受け入れず、歯牙にも掛けなかったら、王は既にユルシュールを疎んじている。自分達の思いは杞憂に終わると。
しかし、王はマリユスを受け入れ、認めた。これはまだ王に、ユルシュールへの想いが残っていると思い、愕然としたそうだ。
だから、彼女をガンシュのマリユス王子の許へ嫁がせることは、一番考えられないらしい。アヤカーナがマリユスへ嫁ぎ、ガンシュ王の目に留まることは、ユルシュール以上の悲劇を生みかねない。自分達の愛するマリユスとアヤカーナの二人を不幸には出来ない。
最後に、自分達は一国の君主として不適格かもしれないが、親として娘と息子の幸せを願う気持ちを述べさせて頂いたと結んであった。」
沈黙が二人を包む。ダズンは頭脳を働かせ、今の話しを理解しようとしていた。
ケセン王は娘を護る為、ガンシュ王が手出し出来ない、パーレス帝国の皇族への輿入れを切に希望するということか。
それに間違いなく、マリユス王子はケセン国王の想いを知っている。アヤカーナをガンシュへ連れて行く危険を知ったのだ。だからあんなに従順なのか ― 。しかし…
「…もし、もしもだが、ドュー。
マリユス王子が、ガンシュの王太子位を拒んだらどうなる。
我々の推測通り、彼がケセン王女を得る為に、ガンシュの王太子を望んだとしたのなら、王太子に立つ意味がなくなる。彼が陣頭指揮を執っている不可侵条約は、どうなると思う。
確か立太子式はまだ済んでいないぞ」
「マリユス王子は、アヤの為にも、自ら王太子を放り出す事はないと言っていた。
王子曰く、ガンシュの王太子が後ろ盾にいるということは、彼女の箔にこそなれ、損にはならない。その上、高慢なパーレス貴族に対する牽制にもなるらしい。
俺はあいつに、アヤのことは心置きなく忘れてくれと言っておいたがな」
ダズンから驚きの声が漏れる。
「マリユス王子自身から聴いたのか」
「ああ、昨日、馬車の中で聴いた。
それと、自分の従者の死を、アヤにだけは知らせないでくれと頼まれたよ
彼は彼女の侍女ナギーの一人息子で、二人は生れた時から遊び相手だったそうだ。今の段階でセスの死は、彼女には耐えられないからと。
そういえば、彼はなぜ彼女があんなに深窓に育てられていたのか、真相が分ったとも言っていたな。」
「深窓?」
「ケセン王宮はよく言えば自由な気質、悪く言えば田舎者で節度が足りないらしい。
つまり、あまり身分の上下がなく、王侯貴族達は召使達や庶民と普通に交流し。市井は庭みたいなものなのだそうだ。
なのにアヤカーナだけは、未来のパーレス皇太子妃として、王宮から滅多に外出できず、絶えず誰かが張り付いて、着替えひとつ自分ではさせて貰えなかった。マリユス王子は彼女が不憫で、パーレスの所為だと怨んでいたそうだ。」
「未来の皇太子妃を言い訳に、王女を人目に触れさせなかったのか」
ドュランとダズンは各々に、たった一人の男の所業に、振り回され続けている人間達の運命に思いを馳せる。
いつの世も泣くのは力の弱い方という事か―。
その時、重い空気を払拭するかのように、扉の向こう側からタンギューの来訪が告げられる。
ドュランの入れ、という言葉の後、タンギューが頭を掻きながら、室内へ進み出た。
「おいドュー。アザレアからだ。
“アヤカーナ様が、マリユス王子に会いたいと申しておられました。
ご注意申し上げたところ、急に人払いを命じらております。
お部屋から、抜け出すおつもりかもしれませんわよ” だと。
一応あの通路の出口には、警備兵を配置して来たが、どうする。」
ダズンは、唖然とする。
懲りていらっしゃらないのか、あのお姫様は…。
「もしかして、ドューの部屋の秘密の通路もご存知なのか?」
扉へと向かっていたドュランは、ドアノブに手を掛けダズンに答える。
「いや… 多分、扉を探すだろうな。
いいか緘口令だ。“マリユス王子の従者は死んでいない!”
それと午後の協議、俺は体調不良で欠席だ」
そう言い残し、ドュランはアヤカーナの許へと急いだ。