10.
夢を見ていた。楽しい夢だった。
何故か、身体が嫌悪と不快の黒い渦に巻き込まれそうになるのを、セスが払い除けて、遊んでくれる。
そうしていつものように、またね、と彼は嬉しそうな顔で、手を振っていた。
ふと目を覚ますと、部屋の中は明るく昼間だった。頭の上に書物が浮かんでいる。ドュランがアヤカーナを抱きながら寝台で、何かを読んでいるのだ。書類だろうか。
「目が覚めたか」
ドュランの問いかけに、首を伸ばして応えようとした途端、左胸に引きつるような痛みが走った。
顔を顰め、背中を丸めたアヤカーナの様子にドュランは書類を放り出し、腕の中の少女を優しく、だが、しっかりと抱きしめる。
温かいその身体が何より懐かしく感じられ、アヤカーナは顔を擦り付けて目を閉じる。まるで身体の不浄が浄化されていくようで心地よい。
「大丈夫だ。」
ドュランはそう言って、少女の殴られて変色した頬に軽く触れ、起き上がると、銀の水差しから器へ水を注ぐ。
アヤカーナはその後姿を目で追う。彼はきちんと衣服を纏っているのに、自分は薄い夜着姿だった。突然、意識を失う前の事が脳裏に浮かび、身をぶるっと震わせ、夜着の前を掻き合わせた。
フォンティーヌにされたことが、悪夢のように思える。しかし、左胸を覆う包帯が確かに現実だったことを告げていた。
アヤカーナは不思議なくらい頭がすっきりとして、周りのものが良く見えていた。
自分が寝ている部屋はドュランの寝室であり、ドュランが自分を心配してくれていたことを感じる。
「あの、フイイが…、フイイが助けてくれました。
フイイは大丈夫でしょうか」
ドュランを安心させようと、意気込んで出た言葉がこれだった。
あの時の記憶は、フイイが助けに現れ、左胸に痛みが走った所で終わっていた。彼はあの後一人で、死刑執行人を相手に戦ってくれたはずだ。
だから、自分は大丈夫でフイイの方が大変だ、と伝えたつもりだった。
ドュランはアヤカーナに水を差し出しながら、苦笑いを浮かべる。
「フイイはアヤより元気だ」
ドュランは一つ溜息をつくと、アヤカーナの寝乱れた髪の毛を大きな手で後ろへと撫でつけ、額と額をこつんと合わせた。
「一週間は一歩たりとも、ここから出ることを禁ずる」
彼は、身を翻すと書類を手に風のように出て行った。
直ぐに入替のように、アザレアが女官長と入って来た。
「イズミク公爵閣下とフォンティーヌ様は、パーレス北西にあるアーシ要塞へ幽閉が決まりました」
顔に薬を塗ったり、食事をあてがってくれたりと、女官長が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている隣りで、アザレアが色々とアヤカーナに説明をしてくれる。
アザレアの話によると、イズミク公爵は陛下の前で悪事が暴かれ、そのショックによる心臓発作のため、床に就いたままの身で、幽閉が決まったという。フォンティーヌも然り。
パーレス皇族である彼らには法も適用せず、幽閉されたまま一生を送るのだということだった。アヤカーナへ対する毒の混入などはガンシュ王女を迎え入れたいが為の、イズミク公爵の仕業だとも教わった。
それと、ガンシュ王女の輿入れは斥けられたそうだ。
アヤカーナはさして、驚きも憤りさえも感じなかった。ドュランを信頼し、彼に護られているという思いが、彼女に余裕を与えていたことは確かだったし、高貴な方々の悪事とは、概ね金権や政治が絡み、自分の考えの範疇に及ばないことであり、アヤカーナの限られた情報や視野では意見などつけられない。
ただ、アヤカーナは無性にマリユスに会って話しがしたかった。フォンティーヌの恋慕にセスの安否もある。どうしたら会えるのだろうか。
「アヤカーナ様。何を考えておいでですの」
アザレアの鋭い瞳に気押され、アヤカーナは正直に口を開く。
「アザレア、マリユス王子に会いたいのですが、どうしたら会えるのでしょう」
アザレアは二の句が継げない。この王女は、騙されたとはいえ、マリユス王子へ会いに出かけて、こんな目にあったのだろうに。自然と拳に力がこもる。
アザレアは息を吐き、負傷している少女を真直ぐに見詰める。
「もう少し、殿下のお気持ちをお察し下さい。お忙しい中、どれほど心配なさっておられたか…。
…それに、私達も心配で、心配で…」
途中で言葉を切り、黙ってしまった女傑の瞳が潤んでいることに、アヤカーナは驚き、慌てふためく。
「ごめんなさい、アザレア。私が浅はかでした。大人しく休んでいます。だから泣かないでっ。」
アザレアは俯き、目頭を押さえながらニタリと微笑んでいた。
そろり、と寝台を降り扉へ向かうと、耳を当てて隣の様子を伺う。よし、物音ひとつ聞こえない。
今、ここ東宮は警備の交代の時間で、アザレア達も別室でお茶をしているはずだ。もちろん女官達は彼女達の給仕に就くし、私のことは、眠るから一人にしてくれと皆にも言っておいた。
少しの間でも、私から皆の関心が逸れる。
アヤカーナはセスのことを想えば、やはり大人しくなどしては居られないと思った。彼の安否だけでも、この目で確かめなくては。
アザレアにセスのことを訊くことも考えたが、やはり、パーレスの人間にセスのことは訊けない。
とにかくもう一度、セスが倒れた場所へ行けば…、という思いがアヤカーナを突き動かす。
白萩の間はドュランの部屋の隣、あの通路は寝室の西側にあった。必ず、ここにもあの通路への扉がある。
期待を込め、壁を一通り叩いてみるが、音の変化は見られない。アヤカーナは腕を組んで考える。あちらは、壁が隠し扉になっていた。こちらは壁ではなく、家具に何か仕掛けてあるのかしら?
ふと、壁に掛かった大鏡が目に入り、もしかして、と思い楕円形のふち飾りを揺らしてみる。
駄目だ、動かない。
諦めきれず、サイドにある鏡用のカーテンフックを闇雲に回してみた。しかし、押そうが引こうが何をしても全く動かない、最後とばかり、フックに全体重を乗せ押してみた。カチリという音と共にフックが下がる。手に伝わるそれは、まるで鍵が外れたような感覚だった。
確信しながらも、恐る恐る鏡を揺らしてみる。動いた!
ゆらりと大鏡がこちら側へと開き、向こう側に空間が見える。奥から冷たい空気が押し寄せて来て、寒い。
アヤカーナは夜着一枚だったことを思い出し、慌てて鏡の扉を閉める。
いけない、何か羽織らなくては。辺りを見回し、何気に鏡に映った自分の姿に目が留まり愕然とする。髪はボサボサで、頬と口元が紫色に腫れ上り顔が変わっている。鏡の中の人間は、自分ではないみたいだ。
でもこれなら、外に出ても私だとは誰も分からないだろう。アヤカーナは良いほうに考え、鏡に向かい引きつった笑いをみせる。とにかく、寒くないようにして出発しなくては。
毛布を持ち出そうと思い、回れ右をする。
振り向いた途端、アヤカーナはぴたりと動きを止め、寝台を見詰めたまま動けなかった。
寝台の上には、背をクッションに預けるようにして、目を閉じたドュランがいた。