7.
どうして…。どうして、こんなことになったのだろう…。
ドクンドクンと脇腹が痛み、まるで心臓がそこへ移動したようだった。脈拍とともに傷口から血液が、体外へ送り出されている。流れ出る血を止めなくてはと、痛む所に両手を添えてみた。
アーヤがこちらに手を伸ばしている。その手を取ろうと、傷から片手を離すが、彼女の手は近くにはなかった。掠れゆくセスの瞳は、緑色のマントを纏ったイズミク公爵の私兵に担がれ、連れ去られるアヤカーナの姿を懸命に追った。
「私はこれから、ガンシュからの随行者たちと今後の協議をし、その後パーレスの連中と会談の予定だ。
セスは私が戻るまで、私の居室で待っていてくれ」
分かりました、と僕はマリユス様のご指示に喜んで従う。そのまま時を過ごし、マリユス様のご帰還を、大人しく部屋で待っていれば良いはずだった。なのに…。
正午を過ぎた頃、予期せぬ来客があり、フォンティーヌ様がこの部屋のバルコニーの下でお待ちだと告げられる。それもこの僕に用があるという。
高貴な方を待たせてはいけないと、僕はフォンティーヌ様の許へ息を切らし急いだ。
何事かと思いきや、相変わらずお美しいフォンティーヌ様は、マリユス様には内緒で、彼を驚かせようと言う。
面倒事でなかったことに僕は安堵して、はい、と快諾する。
僕は期待に胸を弾ませて、どのように驚かせるのか、お訊きした。
彼女は、マリユス様がアーヤへの面会が叶わず、気落ちしているのをとても憐れんでおられ、是非とも力になりたいとおっしゃった。
そこで、二人でこっそりアーヤを連れ出し、マリユス様に会わせてあげよう、と言うのだ。
何でも東宮殿には秘密の通路が在り、そこを使えば誰にも知られる事無く、彼女を安全に連れ出せるし、すぐに帰せる、マリユス様も喜ぶはずだ、と。
しかも、その通路はパーレス皇族だけの秘密だけど、僕は特別だとおっしゃる。 なぜなら、マリユス様もフォンティーヌ様も僕をとても信頼しているからと…。
僕は有頂天だった。パーレスの皇族は、そんじょ其処らの王族とは格が違う。諸国が崇める血統と伝統を持つ、神様みたいな方たちだ。そんなお姫様に信頼していると言ってもらえるなんて、感動以外の何ものでもない。
だから僕は、フォンティーヌ様の言うがまま、アーヤを連れ出した。
その結果がこのザマだった。
ごめん、ごめんねアーヤ…。ごめんなさいマリユス様…。また三人で遊べると思ったんだ。一石二鳥だと…。
ああ寒い…もう目を開けていられないや…。
「おいっ、しっかりしろ!眠るな。起きてろ!!」
怒鳴り声と一緒に両頬に衝撃を感じて、セスは薄く瞼を上げる。青いマントを纏った騎士が目の前に屈んでいた。
この衣装はパーレスの近衛兵だ。助かった。
セスは血に染まった手を伸ばし、騎士のマントを必死に掴む。
「アーヤ……助けて…下さい。東南の…方角…連れて…行かれ…ま……た」
歯がガチガチ鳴るのを止められなかった。僕の言葉は、騎士に届いただろうか…。
「大丈夫だ。仲間が二人、後を追っている。
とにかくお前は、出来る限り、気をしっかり保て。今すぐ医師の処へ運んでやるからな」
ふうっ…良かった…。でも僕の方はもう無理だ。だって血が出過ぎだよ。 ね、父さん。
セスは騎士の後ろに立っている、ケセン騎兵隊の緋色の制服を纏った成年に問いかけた。
その成年の身体は透き通っており、実態を成していない。それは、彼がこの世の者ではない事を伝えていた。
亡者は透き通った手を顎に添え、舌を鳴らして愚痴をこぼす。
『俺の息子に、女には気を付けろと教えろと、あれ程妻に言っておいたのに。』
くすくすと笑い、セスは安心して目を閉じた。
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「ガンシュ側の要望を全て呑むのは、パーレスの権威を損なうのではないだろうか」
「我が国の益となる事は、損とは言わないと思いますが」
「ケセンとの約定を一方的に反故する事は、国益だと言われるのか」
「ですから、権威とか道理などの感情論ではなく、理知的に議論したいものですな」
その言葉を皮切りに、ざわめきと野次が交差する。
いつも通りの光景だ。
ドュランは醒めた瞳で、目の前で繰り広げられる不毛の論議を眺めていた。
何が緊急朝議だ。朝議を主導している、召集主であるイズミク公爵の人望を見せ付けているだけだ。
不味いことに閣議と違いこの朝議は、低位の臣下達も顔を揃えている。
この場での発言は内密という訳には行かないだろう。迂闊なことは言えない。
堪らずドュランの口から溜息がこぼれる。
「ところで殿下」
不意に呼ばれ、ドュランはイズミク公を見る。
「何だ。公」
「間違いであることを承知で、お尋ね致しますが……」
そこで間を置いた公爵のやり方が、これから訊ねることは重大な事案だということを暗に示している。
場が静まり返り、皆が公爵の次の句を待ち構えた。
「ケセン王女を白萩の間へお移しになったとのこと、それは真実でございますか。
真実ならば、ガンシュ王女の輿入れを検討している我々臣下、延いては国民を軽視なされておられるように、私は思えて仕方がありません。
理由をお聞かせ願いたい。」
そう言って、得意げな表情を向けて来る叔父をドュランは凝視した。周りからは、皇太子を責める非難がましい声さえ湧き上がる。
アヤカーナを、白萩の間と呼ばれる‘皇太子妃の間’へ移したことを批判材料に、ガンシュ王女とフォンの輿入れを一気に決済する気だ。ドュランはイズミク公爵の本意を悟り、待ってましたとばかりに、ほくそ笑んだ。
皇帝の隣で涼しげな顔をしているリキュウを一瞥し、彼は公爵側へ軽く身を乗り出す。
「本当だが。
なぜそれが、国民軽視に値するのだ」
くつくつと笑いながら公は、まるで子供を諭すような微笑をドュランへ向ける。
「初めからお勉強が必要のようですね、殿下。
質問に質問で返されては、論議不能にございますぞ。
まぁそれはさて置き、叔父として敢えて、進言させて頂きます。
皇族が私欲で行動なされては、国の存続が危ぶまれる、ご自重下されませ」
どよめきが上がり、流石は公、という声があちらこちらから聞こえ、拍手まで巻き起こる。
公爵は右手を挙げ、廷臣達の歓声に答える。
ドン!と卓を叩く音が広間に響き渡った。静寂が辺りを包み、全員が音の鳴った方を見る。ドュランは居並ぶ者達の顔を見回し、卓の上からゆっくりと拳を下ろした。そして一つ息を吐き、公爵へ殊勝な顔を向ける。
「公、アヤカーナに対し毒が盛られ続けています。
警備上一番堅固な部屋に移したつもりなのですが、何故彼女は狙われるのでしょう」
「おお、そのような理由がお有りならば、はじめから仰って下さい。
しかし、白萩の間は遣り過ぎでしたな。
王女には西宮殿の奥に移って頂き、警備兵を増やされては如何ですか。
それはそうと、王女のご帰国準備は、お済みなのでしょうか」
ドュランは平然と返す。
「質問に質問で返されるのは困るな。私は質問の回答を頂きたい」
公爵は呆気にとられ、苦笑いを浮かべた。そして周囲に対し、子供には叶わないと肩をすくめて見せ、口調まで変える。
「ドュラン、いい加減になさい。
そんな君の話では、本当に毒など盛られているのかも疑問だよ。」
ドュランは皮肉気な笑みを湛え、笑っている叔父を見据える。
「叔父上、毒の主成分は砒素だ。
この件に関しては、陛下と宰相もお認めになっておられる」
一同の視線が一気に、玉座へと注がれる。
ゆるりと構えていた皇帝は同意するように首を縦に一つ振り、息子へと視線を戻す。一同もそれに倣い、ドュランを見詰める。
「砒素の流通を洗い出したところ、公の許へかなりの砒素がガンシュより集まっているが、理由を教えてくれ。
それと、数年前から水銀を一旦ケセン入れて、ガンシュへ輸出なさっているが、その理由も一緒に話していただけると有り難い」
公爵は、幾分血の気が引いた顔をワガセヒロ帝へ向け、弁明する。
「陛下、皇太子殿下は、どなたかと勘違いなさっておられる。
私には、砒素も水銀も何のことやら検討がつかぬ」
抑えた口調とは裏腹に、握りこまれた拳が震えているのをドュランは確認した。
「ガンシュとの国境一体の山岳は、公の所領の一つだったな。
そして昔から水銀の産地だ。水銀の輸出は分るが、なぜ砒素の搬入を…。
もしかして、砒素が取れる鉱山でも発見なさったとか。
だが、報告は一切上がっていないな。
ところで、納税はどうしておられる。」
「ドュラン、帝弟である私へ、言いがかりを吐けるとは無礼であろう」
仮面を脱ぎ捨て、口端から泡を吹き威嚇してきた公爵に、ドュランは最後通知を突きつける。
「皇帝陛下の御名を使い、勝手に敵国ガンシュへ、パーレスの国土調査許可証を発行なさったのは公であろう」
言ってドュランは、後ろに控えていたダズンへ目で合図を送った。
ダズンは頷くと、おもむろに宰相リキュウへ入手した許可証を提出する。その紙は宰相から皇帝へ、廷臣達が見守るなか、うやうやしく差し出された。
見る見る青ざめていく顔色と、見開いたままの瞳が、イズミク公爵の受けた衝撃の凄まじさを顕著に示していた。
言葉を飲み込み、押し黙ったままの公爵へ視線が集中し、広間には沈黙が立ち込めた。
その沈黙をドュランが破り、公爵を奈落の底へと突き落とす。
「金鉱山を所有するマリユス王子へ、金の抽出に必要な水銀を送り、鉱脈を隣にする己の所領地をガンシュの人間に調査させ、新たな鉱山を発見。
マリユス王子と手を結び、ガンシュ側の要望を全て受諾し、娘フォンティーヌをガンシュの王太子妃に据え、ガンシュ側から秘密裏にパーレスの鉱山を採掘して富を独り占めする。
どの口が言うか、皇族が私欲で行動したら、国が滅びるのではなかったのか。
これでは邪魔なアヤカーナを毒殺でもしたくなるのも道理だな。イズミク公爵閣下」
公爵の眼球は動揺で震え、顳顬には血管が青く浮き出ていた。
縋るような瞳を向け、最期の綱と玉座へ助けを求める。臣下ではなく弟として。
「兄上、私は決…。」
ワガセヒロ帝は突き射すような眼差しを向け、話しの続きを遮るように言葉を被せた。
「イズミク公よ。なぜ、娘のフォンティーヌにまでアヤカーナを襲わせた」
公爵はカッと目を見開いた。
「フォンティーヌは、娘は、何も知らない!
あれは虫も殺せない優しい娘です。娘には何の罪もございません。
信じてください、陛下」
娘を想う、帝弟の必死な姿を目の当たりにし、廷臣達の間に公爵へ対し、憐憫の情が浮かび始めた時だった。
何の先触れもなく、広間の大扉が乱暴に開かれた。
そこから近衛隊長タンギューが大股で現れ、膝を突いて急を告げる。
「陛下、殿下。
イズミク公爵令嬢フォンティーヌが、ガンシュ国マリユス王子従者を刺殺後、ケセン王女殿下アヤカーナを拉致して逃亡致しました。
ただ今、近衛隊騎士二名が追跡中です」
公爵の左胸の奥で小さな火花がパチンと弾け飛んだ。
「何をしていたタンギュー!早くフォンを捕まえろ。
… …… …!」
甥の怒号が遠くに聴こえる。
甥は娘を見張らせていたのか…。
公爵は息が出来なかった。激しい痛みが、胸から全身を走りぬけ気管を絞り上げる。
「兄上」
公爵はワガセヒロ帝に一言呟き、胸をかきむしる様にして、床へくずおれた。