6.
翌日、アヤカーナは困憊し、昼過ぎまで起き上がれなかった。
しかし、身体の所々にある痛みと倦怠感に嫌悪感はなく、むしろ、好きな人と一つになれた証だと誇らしかった。
初めて知った感覚と感情に、まだ身体の芯が疼いているような錯覚がある。痛かったのは最初だけで、その後に待っていたドュランの手ほどきによる快感は、痛みや彼女の性に対する恐怖心全てを凌駕してくれた。
辛うじて保っていた意識の狭間に聴こえてきた、彼の甘い囁きが今も耳の奥に残りアヤカーナを幸福感で満たし、微笑が止まらない。
「お目覚めですか」
アザレアの声に、アヤカーナは少しばかり気落ちする。こんな時は、会話を交わさないで済む女官の誰かに起して欲しかった。
起きようと下を向けば、何も身に着けていない。羞恥のあまり耳まで真っ赤に染め、アヤカーナはおずおずと謝る。
「言いつけを守らないで、ごめんなさい。」
熱を出した後、アザレアと女官長から、婚儀が済むまでは貞操を破らないよう口をすっぱくして言われていたのだ。
身体をゆっくりと起しながら、アヤカーナは上目遣いに恐る恐るアザレアを見る。
「まあ、白萩の間のお方が何をおっしゃいます。」
そう言って高笑いをしているアザレアを前に、意味は分からなかったが、アヤカーナは一緒に笑っておいたほうが得策と思い、無理に口の端を上げた。
「あの、殿下は…」
昼食が済み、アヤカーナは一番気になっていたことをやっと口に出す。
「朝議ですわ」
「アヤカーナ様を十分休ませよ、と仰って出て行かれたのですよ。」
「颯爽として、素敵でしたわ」
「それに、殿下のご尊顔が、其れは其れは艶やかに輝いておりました。
お見せしてあげたかったわぁ」
うっとりと話すアザレアの科白に、ケイトもハンスイも同意して、顔の前で両手を合わせ、夢見るように顔を上気させる。
侍女達の会話にアヤカーナは、愛想笑いを浮かべるしかなかった。アザレア達がご機嫌なうちに訊いておきたいことがある。 でも…、彼女はちらりと後方に目を遣る。
室の隅には、普段だったら扉の外に待機しているタンギューが居る。昨晩不審者が出たとかで、念のためだという。殿方の前で口に出して良いものか悩む。
駄目だ、やっぱり言い出せない…。でも訊きたい。
あ、そういえば。
不意に以前アザレアが、図書室でタンギューに閨房学の教授をさせようとしたことを思い出す。
恥ずかしいけれど、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
「アザレア、お訊ねしたいのですが…」
はい、とアザレアは満面の笑みを向けてくる。
その晴れやかな笑みに勇気付けられ、アヤカーナは深呼吸をして意を決する。
「これから寝所で私は、殿下にされたことをお返しすればよいのですよね?」
女官長とアザレアから教わっていたことを確認する。
「その通りですわ」
アザレアに、にこりと肯定され安堵する。ケイトもハンスイも笑顔で頷いている。
よし!と心の中で叫び、少し声を小さくして本題を切り出す。
「殿下のあそこも口に含んでよいのですか」
「アザレアの嘘吐き」
アヤカーナは寝室に閉じこもり枕に顔を埋めていた。閨房術を学ばなければ、他の女性に殿下を盗られるとか、パーレス淑女の嗜みだとかいろいろ助言していたくせに。閨房術をちゃんと実践しようと思い質問しただけで、まだ早過ぎる、と一喝されてしまった。それに殿方の前ではしたない、とまで言われた。
その上、こともあろうか、突如タンギューがお腹を抱えて笑い出したのだ。我慢出来ない、とか言って。
そこでアザレアとタンギューの口の応酬が始まり、アヤカーナは、顔を熟れた林檎のように染め、寝室へと逃げ込んでいた。とても恥ずかしかった。
しばらく枕に顔を埋め、このまま少し眠ろうと思った時だった。
見間違いだろうか、壁が動いたように見えた。目を瞬かせ確認する。錯覚ではない、壁の一部が奥へと静かに開かれている。可笑しなもので不可思議な現象に驚くことはなく、逆に興味津々で眼を凝らす。隣にはタンギュー達が控えており少しも怖くはなかった。
「誰」
相手を驚かせないよう、静かに訊ねる。果たして、壁の奥からひょっこり、クリクリ頭が現れる。
「セス!」
そう呼ばれた少年はシッと人差し指を唇に当て、開いた隙間をすり抜けアヤカーナに近づいてくる。
「アーヤ、迎えに来たんだ。何度面会を申し込んでも受け入れてもらえず、僕もマリユス様も心配していたよ。
せめて、少しの時間だけでも一緒に来てくれる?」
片目を瞑った愛くるしいセスの表情に、緊張していた顔が綻ぶ。
セスに合わせひそひそ声で話す。
「駄目よ。
ちゃんと手順を踏まなくては、ここはケセンではないのだから」
「言っているだろう。いくら正式に面会を申し込んでも無駄だって。
マリユス様が悲しいお顔をなさっている。アーヤに会いたいんだよ」
マリユスの従者に縋るように言われ、アヤカーナの脳裏には、昨夜夢で見た彼の淋しげな顔が浮かんでいた。だが、一つ疑問が浮かぶ。
「セスはどうしてあの壁の扉を知っていたの?」
「パーレスの皇族様がマリユス様を不憫がって、僕にこの通路を教えてくれたんだ。
皇族たちにとってこの通路は、秘密でも何でもないってね。
大丈夫だよ。マリユス様に会ったら直ぐにここへ戻ってこよう。」
アヤカーナは行きたくなかった。頭の中で、行ってはいけないと何かが訴えていた。
考え込み、なかなか首を縦に振らないアヤカーナに、セスは痺れを切らす。
「昨晩だってマリユス様はアーヤに会おうとして、近衛兵たちに囲まれたんだ。
このままじゃ、いつか斬られてしまうよ。もし殺されでもしたらアーヤの所為だ。」
はっとしてアヤカーナは顔を上げる。もしかして、昨晩の不審者とは…。
「いいわ、行く。
でも、従兄様のお顔を見たら直ぐに戻ってくるわよ」
「OK!そうこなくちゃ」
隠し扉の裏側は狭かったが、いたって普通の通路だった。ちゃんと明り取りもなされ、暗くない。もちろん夜になれば別だが。
セスの後をゆっくり付いて階段を下る。階段が終わり、通路を進むうちに徐々に周りが暗くなる。足が竦んでいくのが分る。
「セス、随分暗いのね。セスが見えなくなりそう。」
「大丈夫、もう出口だよ。
出口も傍目から見たら扉には見えないんだよ。
さあ、ここだ。」
そう言って、セスは行き止まりの左側の壁を大きく二度ほど叩いた。
壁が重い石を引き摺るような音を立て、動き出す。開いた隙間から太陽の光が差し込み、アヤカーナの瞳を直撃した。彼女は眩しすぎて顔に手を翳す。その指の隙間で何かが動いた、人がいるのだ。
誰かが外で待っていた。その誰かは陽を背にして立っており、眩しくて顔が見えない。ぐいっと手が引かれ、アヤカーナは暗がりから外へ躍り出る。
「ありがとうございました、フォンティーヌ様。
お蔭でアーヤを連れて来れました。」
フォンティーヌ?!アヤカーナは驚いて目の前のシルエットに目を凝らす。光に慣れた目に映った女性は確かにフォンティーヌだった。
しかし何かが変だ。彼女の顔に張り付いたような笑みが不気味で、咄嗟にアヤカーナは回れ右をし、壁の中へ戻ろうとする。が、鼻先で壁がガクンと閉じられた。
セスがまた腕を引っ張る。
「アーヤもフォンティーヌ様にお礼を言って。
イズミク公爵様とフォンティーヌ様は、パーレス一のマリユス様の理解者だよ」
さあ、とセスに前へ押し出され、アヤカーナは、躊躇いながらも従う。
「あ、ありがとう、フォ、フォンティーヌ」
くつくつとフォンティーヌは赤い唇を歪め、そろりとこちらへ歩き出す。キラリと光が目を掠め、アヤカーナの注意を引き付けた。
光源はフォンティーヌの右手だ。右手に何か光るものを握っている。
「曲者め!」
フォンティーヌはそう叫んだ刹那、短剣を胸に構え突進してきた。
逃げられない。そう感じたアヤカーナは、衝撃に耐えようと身を強張らせ瞑目する。
自身に待ち構えた衝撃は無く、代わりに後でどさりと何かが倒れる音がした。慌てて後を振り返る。そこには…
「セス!」
セスが倒れており、みるみる彼の周りに血溜まりが広がっていく。悲鳴を上げ近寄ろうとするが、口を塞がれ腰を攫われた。必死に右手を伸ばし、セスの元へ行こうとする。そんなアヤカーナの視界をフォンティーヌの歪んだ微笑が満たす。
「アヤカーナ、私が曲者から御身を御守り致しましてよ。
さあ、一緒にいらして」
図書室でアザレアはタンギューに閨房術の参考書の依頼をしただけで、教授は頼んでいなかったはず。アヤカーナ、勘違いしています(笑)