4.
「フォンはどうした」
一向に来ないフォンティーヌに対し、痺れを切らしたドュランの不機嫌な声に、ダズンは眉を上げる。
「ドュー、フォンどころじゃないだろ。
ガンシュのマリユス王子との会見が先だ。」
ガンシュ側の交渉人としてマリユス王子が派遣されて来たことは、既に宮廷より報告があり、挨拶を受ける為の会見への臨席要求も来ていた。
謁見の間へ参上しなければならない時刻が迫っている。
無論、陛下を待たせるわけにはいかなかったが…。
「いや、会見の前にフォンだ」
ダズンは言い出したら聞かないドュランに肩を落とす。ふと、今しがた、侍従を通して送られてきた紙片を、手にしたままだった事を思い出し、急いで目を通すと、これ幸いとばかりに読み上げる。
「公爵令嬢フォンティーヌは急病のため、御前へは罷りかねる、とさ」
ドュランは叔父であるイズミク公を追い落とす前に、自分達が掴んだ証拠に対しフォンティーヌに弁明の機会を与えたかった。彼女は幼い頃からともに育って来た皇族であり、ドュランにとっては妹のような存在であった。
ドュランは唇を固く結ぶ。すると、フォンティーヌの笑顔が自然と脳裏に浮び上がってくる。それをすぐさま打ち消し、大きく息を吐いた。
「ダズン、謁見の間へ行く]
フォンティーヌへの、兄としての想いに区切りをつけた瞬間だった。
タンギューは乱暴に皇太子の執務室へ入るなり、机に向かっている二人へ開口一番、低い声で言った。
「アヤカーナ様がストライキだ!」
「ストライキ?」
マリユスとの会見を終え、明日から始まる交渉の算段をしていたドュランとダズンは、同時に目を剥いた。
タンギューは廊下での出来事、そしてアヤカーナの今の状況を淡々と伝えた。
「…それで、マリユスお従兄様からの土産を手に、寝室から出てこない、と言う訳か」
ダズンがこんな時に、と嘆息し、煩わしい問題を運んで来たタンギューに仏頂面を向ける。
タンギューは、ダズンのしかめ面など全く意に介さず、こちらが重要とばかりに付け加える。
「そうだ。
寝室に篭り、帰国の荷造りをして、マリユス王子を待っている。
ところでドュー、何故、アヤカーナ様の訪問を承諾してやらなかったんだ」
タンギューの責めるような口調に、ドュランは目を見開く。
「訪問?俺は知らんぞ」
ダズンがはっと顔を上げ、しまったと髪に手を遣る。
「すまない、私だ。私が独断で断りの返事をアザレアへ伝えた。
フォンティーヌがアヤカーナ様の訪問を聞きつけ、何か仕掛けられると不味いと思っての判断だった」
判断理由は分からないでもないが、女心を解さないダズンの失態にタンギューは呆れた。
「見誤ったな、ダズン。
自分には会ってくれず、フォンティーヌには会う。となると今のアヤカーナ様にとって、かなり酷だ」
タンギューの指摘にグッと来るものがあったが、ダズンは気を取り直し、申し訳なかったと頭を下げ、ドュランの指示を仰ぐ。
ドュランはダズンへ、もうよい、と片手を挙げ立ち上がった。
「兎に角、廊下でのアヤとマリユス王子の抱擁に関しては、今直ぐ宮殿内に、従兄妹同士の感動の再会だった、と流布しろ。
それと、アヤのストライキは俺が何とかする」
「透き通った綺麗な琥珀色」
アヤカーナは、マリユスからの土産を指先で摘み、目の前に翳していた。窓から差し込む夕陽がキラリとそれを輝かせ、より透かして魅せる。手にしていたのは琥珀色の飴玉だった。
アヤカーナは飴玉を頬張るのも大好きだったが、見ているのがもっと好きだった。琥珀色をした飴玉はドュランの瞳を連想させ、ただ見ているだけで、こぼれ落ちそうな甘美を与えてくれる。そのひと時は、子供の頃からの誰も知らない密やかな楽しみであり、彼女の中では、琥珀色の飴玉はドュランを意味していた。それなのにアザレア達は、飴玉さえも取り上げようとした。
譲れないものは譲れない。アヤカーナは飴玉の入った袋を胸に寝室に篭り、誰も近付けずマリユスの迎えを待っていた。
寝台に座り、ぼんやりと飴玉を見つめ、扉が開いたことにも気付かなかった。
「何をしている?」
「飴玉が…」
言いかけて、アヤカーナは驚く。いつの間にか飴玉の向こう側に、見慣れた琥珀色の瞳をもつ青年が立って居た。
ドュランが笑みを浮かべ、軽やかな足取りで近付いて来る。
あんなに会いたかった筈なのに、今は会いたくない。アヤカーナはプイッと顔を背け、口を閉ざす。
「飴?」
ドュランは呟き、大きな手でアヤカーナの手を掴むと、飴玉を細い指ごとぱくりと頬張った。
いきなり手を口に持っていかれ、アヤカーナは灰色の目をまん丸に見開く。ドュランの琥珀色の瞳がアヤカーナのそんな様子を面白そうに見詰め、最後にれろりと指を舌で舐め、離した。
「甘いな」
顔を顰めながら感想を漏らすドュランに、アヤカーナは顔を真っ赤に染め、口をぱくぱくするだけだった。
ドュランはくすりと笑い、壁側のチェストへ向かうと、上に置かれた荷物から布を外す。
「纏めた荷物はこれひとつか?」
自身の肖像画を眺めながらアヤカーナに問う。
アヤカーナがケセンから持込を許されたのはそれだけだ。だから彼女の荷物はドュランの肖像画ひとつだった。
アヤカーナがコクリと首を振るのを見て、ドュランはふーんと鼻で言った。
「アヤは、朝晩この肖像画に向かって同じ言葉を話しかけているそうだな。
どうせなら、本人に言ってくれないか」
ドュランが戻り、また向き合う。
アヤカーナは顔を真っ赤に染め、首を横に振ると、恥ずかしくて俯く。が、その顎をドュランの陽に焼けた手が持ち上げ向き合わせる。
さあ、と優しい眼差しに促され、逆らえずアヤカーナはとつとつと告白する。
「大好き。愛しています」
小さい声だったが、琥珀色の瞳が金色に輝きドュランは嬉しそうに微笑う。そしてアヤカーナの頬を両手で包み込み、真剣な表情をする。
「俺も愛している。妃になって欲しい」
ドュランの唇が落ちてくる。
何度も唇を合わせ、ドュランはアヤカーナの様子がおかしいことに気付く。涙を流し、虚ろな表情を浮かべて口付けにも反応を示さない。
「アヤ?」
金色の頭が左右に振れる。
「駄目です。王族が利己心で動いては国が滅びます。
パーレスにとって有益なお妃様は、ガンシュの王女だと…」
ドュランはにやりと口の端を上げ、アヤカーナの唇に人差し指を置き言葉を封じた。
「心臓の半分を失った男が皇帝に座したら、民衆は悲惨だと思わないか。
皇帝は正常に物事を判断してくれないのだぞ」
アヤカーナはきょとんとして、大真面目に訊ねる。
「パーレスの皇帝陛下は、心臓が半分でも生きていられるのですか」
「知らん」
ドュランの答えに、からかわれていると思った。
ひどい…。アヤカーナの瞳に、たちまち涙が溢れる。
ドュランはうろたえ、慌ててアヤカーナを抱き寄せる。
「泣くな。俺の心臓の半分はアヤだ!だからアヤを失えば俺の心臓が半分になるということだ。
アヤはパーレスの国民の為、俺を信じて、婚儀の日を指折り数えていれば良い」
ドュランの口から思ってもいない言葉が返ってきた。その力強い言葉が嬉しかった。時が止まったような感覚がして、こんな幸せは感じたことがない。
アヤカーナの目から、先程とは全く違う涙が、止め処無く流れ落ちる。
しゃくり上げながら、必死に返事をする。
「…っは…いっ…」
ドュランはいきなり身をかがめ、力強い腕でアヤカーナの華奢な身体を抱き上げる。驚いているアヤカーナを腕に、ドュランは大股に部屋を出て階段を目指した。
「荷物も纏めてあるようだし、引っ越しだ」