6.
ドュランは、ヒルディ家の従者を尻目に馬車の扉から、大丈夫か、と乗人へ声を掛けていた。中を覗けば、仮面を外して震えている女が一人。それは確かにヒルディ家令嬢ソニアだった。
ドュランの見る限りでは、ソニアの容姿に乱れはなく、身体への被害はなさそうだ。馬車を移動してもらうしかあるまい、と判断し、独りで動けるか訊ねる。
座席の隅に身体を寄せ、怯えているソニアは、ドュランが何を訊いても、視線を彷徨わせるだけで、答えを返さない。ドュランは仕方ない、と溜息をつきながら、ふとソニアの様子が妙なことに気付く。先程から遠くの何かを見てとり、その何かに反応している。
俺を通り越し、怯えながら一体何を見ている?
振り返ったドュランの眼に入ったのは、己の馬車の脇に投げ出された御者の脚だった。御者席に吊るされたランプの灯りが、倒れた男のブーツを、あたかもそれが主役であるかの様に照らしている。
ドュランは疾風のごとく身を翻し馬車へと走る。果たして、馬車の扉を開け目に飛び込んだ光景に愕然とする。
狭い馬車の中、男の息遣いだけが大きく占めていた。
首を掴まれている少女の身体が弛緩して行く。死はもうすぐそこだ。
突如、アヤカーナは尻餅をつく。それと同時に留栓が外れた肺は空気を貪り、身体は無意識に深い呼吸を繰り返す。
呆然と目を見開き、胸を上下しているアヤカーナの上を誰かが飛び越え、前方の扉へと向かう。
アヤカーナの瞳には、今まで居たはずの死刑執行人の姿はなく、扉から身を乗り出している、ドュランの後ろ姿が映っていた。
扉が勢いよく開くと同時に、アヤカーナの首を掴んでいた男が、脱兎のごとく反対側の扉へ、手を伸ばしたのをドュランは見た。同時に崩れ落ちるように、馬車の床に座り込んだアヤカーナの肩が、上下するのを見てほっとする。憤怒に駆られ、扉から飛び出した男の後を追いかけようとしたが、馬車から乗り出した所で思い直し、アヤカーナの許へ急ぎ戻った。
アヤカーナは何が起こったのか、把握するまで長い一瞬を要していた。つと、誰かに優しく首を撫でられる。
顔を上げれば、ドュランの ― そう確かに、ドュランの泣きそうな顔があった。
「あ…」
アヤカーナの声にならない声にドュランは頷く。その姿にアヤカーナは安堵する。ああ、助かったのだ。
「腰が抜けたようだな」
ドュランが笑って言う。声が出なかったのでアヤカーナは首を縦に振る。
何度も頷くアヤカーナの上に、ドュランの胸が優しく覆いかぶさってくる。アヤカーナは先程のドュランの泣きそうな顔が忘れられず、どうにかしわがれた声を紡ぐ。
「…こ…こんな狭い場所で襲われるなんて、想定外です。護身術を見舞ってやれませんでした」
ドュランは静かに笑いながら首を振った。
犯人への憎悪に加え、うっ血で赤くなったアヤカーナの顔と喉の指痕を見た時浮かんだ、彼女を亡くしたかもしれないという怯えが、まだ胸の奥底を嘗めている。また一方で、恐怖に泣き叫ぶことも、ドュランを責めることもなく、健気に軽口を叩いている腕の中の少女が愛おしかった。
ドュランは憤りと悲しみの混ざった激情の中で、己の愛情の在り処を悟っていた。
先程までの恐怖がドュラン胸の中で、嘘のように浄化されていく。ふわふわの真綿で包れているような安堵感に包まれ、動きたくないと思う。アヤカーナはドュランの胸に顔を埋め、腕を伸ばして背中に触れた。
悲鳴がした、と思った。
このまま、心地よさに浸っていたいアヤカーナは、顔を上げたドュランに、頭を振ってしがみ付く。
さらに悲鳴がした。腕が外され、ドュランが剣を抜いた。有無を言わさず腰をがっしりと掴まれ、身を屈めて静かに馬車から降ろされる。ドュランに促され、手近な建物の前に積まれていた樽の陰へ、アヤカーナは身を潜めた。
ドュランは物陰からヒルディ家の馬車を伺う。動きは見えないが、聞こえた悲鳴は、ソニアのものだろう。
あちらには従者が付いている、自身のことは自身で護ってもらうしかない。これ以上アヤカーナを危険になど晒さない、俺は彼女を護る。
ヒルディ家の話しを信用すれば、賊は馬を狙うはず。馬車を捨てるしかないか。
ドュランは期を狙い、アヤカーナを連れ、馬車とは反対側、下町の路地の暗闇へ溶け込んだ。
「月が綺麗です」
思わず声に出るほど、満天の星に囲まれた月が青白く輝いていた。暗く不穏な路地を抜け、エイツリー山に在る宮殿の近くの白い石で舗装された広い道を、アヤカーナはドュランと手を繋ぎ登っていた。 しわがれていた声も元に戻ったようで嬉しい。それにドュランが隣に居てくれるので、不安は全くない。
「ああ見事な月だ」
ここまでくればもう大丈夫だ、とドュランは一息つく。
不思議なもので、必要としていない時はやたらと出会う憲兵達に、全く会わずに宮殿の近くまで来た。計算外だったが、これはこれで乙なものだと思い、ドュランは夜道を照らしてくれる、丸い月を見上げ皮肉な笑みを浮かべる。
「ところで、従兄君のことを聴かせてくれ」
アヤカーナは、寒いだろうとドュランが貸してくれたドミノの前を押さえ、目を丸くする。
「マリユス従兄さまですか?
えっーと、マリユス従兄さまは私の五歳上で、お母様のお姉様のお子様です。
従兄さまとは、小さい頃からいつも一緒でした」
母の姉と言われても、ケセン王家の系図が浮かばない。ドュランは隣国の王室に関して、何も把握していないことが決まり悪く、顔を赤く染め咳払いをした。
「ケセン王妃は、どちらのご出自になるのだ」
「ケセンの隣、ハイデン領主の娘で、お父様の一目惚れです。
いまでも、お父様はお母様にめろめろで、見ているこちらの方が恥ずかしいくらいなのですよ」
言って、照れながらアヤカーナは微笑う。
ドュランは眉根を寄せた。
ハイデン領… ケセンと国境を接するガンシュ国ハイデン領か。
となるとマリユスはケセン王家の人間ではなく、ガンシュの人間となる。いや、それとも王妃の姉はケセン貴族にでも嫁いだのか。
「マリユス殿の父君は誰になるのか教えてくれ」
アヤカーナは首を傾げて一瞬考え、にこりと微笑う。
「ガンシュの今の王様です。
マリユス従兄さまは、ガンシュの何番目かの王子さまです。」
アヤカーナは一旦言葉を切り、どこか遠くのほうを見る。
「昔、ハイデンやその周辺では伯母様とお母様は、とても美しい姉妹で有名だったそうです。
そんな噂を聞いて、こっそりハイデンへ覗きに行ったお父様は、お母様を根性でケセンの王妃に貰えたけど、それより以前、ガンシュ王に見初められた叔母様は頑として王を拒絶し、ガンシュ王との望まない懐妊、出産により17歳で逝った、と聴いております。」
ドュランは驚愕していた。
マリユスがガンシュの王子。では、なぜ大国ガンシュの王子がケセンで育つ? 頭の中は、まだ組み立てられていないジグソーパズルの山があり、そのピースを、夢中で嵌めようとしているかのようだ。不意にひとつのピースが嵌まり、ガンシュの新王太子のことが頭を過ぎる。
―王太子の病死により、身分の低い女が母親の王子が、他王子を差し置いて立太子する― 確かタンギューからの情報だったはず。
繋ぐ手に力がこもる。ガンシュの王子がパーレスのドミモンドに居た。何の為に?
ガンシュの王宮ではなく、ケセン王宮で育った、そのマリユスという男は、何を考え、一体何を成そうとしているのだ。
「従兄さまは、とても優しくて綺麗で、お城の女性達に人気があったのですよ。
私なんて、いつも皆にマリユス従兄さまに愛されて羨ましいって妬まれていました。
従兄様はただの従兄で、私には、殿下だけなのに、変ですよね」
くすくすと純真な笑顔を向けるアヤカーナを見て、ドュランはストンと腑に落ちた。
これか!マリユスとやらの目的は!!
ドュランは髪を掻き上げ首を振った。疲れた、とにかく疲れた。一刻も早く宮へ着き、正常な頭で考えたかった。
私も疲れました(笑)
正常な頭で続きを書かなくては……φ(. .)