4.
舞踏場の扉の手前で、アヤカーナは立ち止まり心に決めた。ドュランの姿を絶対に探さない、と。
私に用があるならあちらから来るはず、置き去りにしたのは殿下の方ですもの。
客達の笑い声や陽気な話し声が広間に溢れ、場は盛り上がっていた。
アヤカーナはフイイの腕に導かれ、優雅な舞曲に歩調を合わせる。ダンスなど滅多に踊ることが無く、初めは思い出しながら足を運んでいたが、直ぐに慣れ、身体を動かすことが思いのほか、楽しいことに気付いた。優しくリードしてくれるフイイに笑顔を向け、舞踏に必要な仕草を繰り返す。ダンスに夢中で周りのことなど一切気にならなかった。
「フイイ、もう少し身体を寄せてくれた方が、踊りやすいのですが」
なぜか急にフイイがアヤカーナとの間を空け、その間をアヤカーナが詰める。何度もその行為が繰り返され、とうとう我慢できず、アヤカーナは切り出した。先程まで、とても踊りやすかったのに。
「申し訳ありません。ボ、ボンネットが邪魔で」
フイイは寄って来るアヤカーナの身体との間に、腕を張り隙間をつくる。
「まあ、ごめんなさい。
曲が終わったら、ボンネットを外しますので、また踊って下さいね」
フイイの顔が引きつり、仮面の内側から汗が伝う。
こんな大きなボンネットを外されでもしたら、王女の容姿が客に晒される。
「いえっ 大丈夫ですから、外さないで下さい。お願いします。」
焦るフイイの耳に、いい加減にしろ、と囁き声が入る。声の主は音楽に乗り、身を翻して遠ざかる。
先程から、コンブ達が入れ替わり、離れろ、踊りを止めろ、とすれ違いざまに囁いて行く。
分かっている。五・六人を隔てた所で、殿下がフォンティーヌを腕に、こちらの様子を気にしていることなど、とうに気が付いている。彼らから少しでも離れようとリードを続けているが、一向に距離が開かないことも重々承知だ。
だからと言って、途中で踊りを止めるなど王女に申し訳ない。せっかく笑顔を取り戻し、ダンスを楽しんでいる王女が可哀そうだ。
しかし、フイイとて我が身が可愛い、せめてもと思い王女から身体を離し、添える手も軽くしているつもりだったが、王女に踊りにくいといわれては、これも徒労に終わりそうだと感じていた。
曲が終わりフイイは、ほっと息を吐き、アヤカーナに礼をする。次に待っていることを考えれば、胃が引き攣れるが、とにかく王女を一旦踊りの輪から外し、休ませよう。
「あちらで、飲み物でも如何ですか」
フイイは、とても楽しかったと笑っているアヤカーナへ腕を差し出す。
はい、とアヤカーナがフイイの腕に手を添えようとした刹那、横から伸びた腕に両手を攫われた。
「っ…」
「一曲、お相手を」
抱えられるように連れてこられた場所は、ダンスを踊る人々でとても混み合っていた。一瞬の出来事でアヤカーナの思考はついてこない、見上げると銀色のドミノにフードを被った男が、華奢な身体を抱き寄せ、再び始まった舞曲に足を合わせようとしていた。
嫌っ、と腕に力を込め、離れようともがくが、簡単に押さえ込まれ、男の力には敵わないことをアヤカーナは思い知らされる。
それだったら、石になってやろうと思い、全ての動きを止めて固まってみる。
頭の上でくつくつ笑う声が聞こえ、銀色の男の頭が降りてきた。アヤカーナはさらに身をこわばらせる。
「アーヤ、私だ。力を抜いて踊って。」
聞き覚えのある声に、はっとして顔を上げる。仮面の奥に見える灰色の瞳はよく見知ったものだった。
「…マリユス従兄さま?」
男が頷くと、アヤカーナは身体から力が抜けて行き、ほっと男の胸に寄り添い、音楽に足を乗せた。
いきなり目の前の女性を攫われたフイイは、瞬間呆然とした。
慌てて我に返り、男と王女を追う。自然と剣の柄に手が掛かる、舞踏会だろうが何だろうが剣を抜くことに躊躇はない。
長かった曲が終わり、ドュランはもう一曲、と強請るフォンティーヌのエスコートを放棄し、眼の端で追い続けたアヤカーナ達へ身体を反転させ、二人の姿を探す。
そんなドュランの眼に映ったのは、踊りの輪の中央へと足早に向かうフイイの姿だった。
踊り出した客達の間をすり抜け、ドュランはフイイの後を追う。人ごみの隙間に止まったフイイを認め、傍へと進み、彼の手が剣の柄に掛かっていることを確認する。悪い状況ということか。
フイイの視線の先に、銀色のドミノを纏った男の腕に抱かれ、踊るアヤカーナを見てとり、ドュランは眉を寄せた。
「何があった」
ドュランもフイイも男から視線を外すことはない。
「はっ、王女殿下を奪われました。申し訳ありません」
「目的はダンスか」
「踊りながら、普通に会話しているようにも見受けられますが、連れ去り方が尋常ではありませんでした。」
舞踏場のど真ん中で、立ったままの人間は邪魔以外の何者でもなく、ドュランの身体は幾度も押されたが、意識は目の前の銀色のドミノの男に集中していた。
柱の影から、ずっとアヤカーナを見つめていた奴に間違いない。何が目的だ。
「ダン、ロック、コンブ、周りを囲みました」
フイイの言葉にドュランは頷き、指示を与える。
「私がアヤを奴から取り戻すから、奴が一人になったら捕縛せよ」
「綺麗だよ」
相変わらずのマリユスの台詞に、アヤカーナはぶっーと頬を膨らませる。
「私、仮面を被っているのよ、顔なんて見えてないでしょ。
それとも、二年も会わないでいるうちに、マリユス従兄さまは魔法使いにでもなったの」
アヤカーナがマリユスと会うのは、二年振りだ。
二年程前、マリユスの生家で相続に関する問題が発生したらしく、突如マリユスに帰郷命令が下り、彼はケセンの王宮を後にしていた。
マリユスは王女アヤカーナの従兄弟といっても、王妃方の従兄弟であり、ケセン王室の人間ではなかった。それ故、ケセン王室で養育されるという話は筋が通ってはいなかったが、王妃が早くに亡くなった実姉を悼み、姉の忘れ形見であるマリユスを手許で育てることに、元来ケセン王宮が寛容だったということもあり、意義を唱える者はいなかった。
13の歳までいつも一緒に居た従兄が懐かしく、アヤカーナはぎゅっとマリユスに抱きつく。
「魔法使いにはなれなかったけど、私のアーヤをパーレスへなど輿入れさせないよう、頑張ってたよ」
溜息を落として、従兄を睨みつける。
私がパーレスへの輿入れに納得していることを、マリユスは知っているはずなのに。
なぜ聡明な従兄弟がこの話を繰り返すのか、アヤカーナには理解できない。
「おお怖。あの可愛かったアーヤがいつの間にか、そのような眼を私に向けるなんて」
抗議の声を上げようとするアヤカーナの唇を、マリユスの指が塞ぎ、耳元で囁く。
「静かに。私はパーレスの国民じゃないのだから、目立つのはまずい。
今は、このまま黙って私の話を聴きなさい。
君のパーレス入りを聴いて、久々ケセン王宮へ出向いたら、城の中は涙に暮れていたよ。
王女へ櫛の一本さえ渡せなかった、とナギーとマールは死にそうな貌をしていた。老将ロブは君の警護に就くためパーレス貴族になる、と伝手を探していたよ、本人も無駄だと解かっているが、そうせずにはいられないのだろう。
でも心配はいらない、皆元気に暮らしている。」
ナギーとマールは私が子供の頃からの侍女、ロブも私付きの護衛隊長だ。三人ともパーレスへ嫁ぐ私に付いて来てくれることになっていたが、国境の町モートヨシで別れてしまった。
アヤカーナの瞳に涙がこみ上げてくる。皆に会いたい、帰りたい。
「両陛下はつつがなくお過ごしで、弟君達は帰ってくるな、と言っていたよ」
そうアッキ達は、私が居なくて… はぁ? 帰ってくるな! ですって。
泣きそうだったアヤカーナがぷりぷり怒り出すのをみて、この手に限るとマリユスは、笑いを堪えた。
まさか、裏社交界でアヤカーナに逢えるとは思ってもいなかったが、ケセンで目にしてきたことを、偶然にも伝えられ、幸運だった。アヤカーナにとって何よりの便りだろう。
怒りながらもアヤカーナは舞曲に合わせ、マリユスの周りを回り、腕を上げ、彼と絡め顔を寄せて小さな声で訊く。
「ところで、どうして従兄さまは舞踏会に居るの?」
「ん、内緒だよ。昔から、裏社交界が私のパーレス情報源なんだ」
片目を瞬かせるマリユスに、アヤカーナは呆れてものが言えなかった。
他国に忍び込んでいたなんて!
「ああ、タイムリミットだ、アーヤ。
王子様がお姫様の救出にやって来た。」
マリユスは踊りを止め、両手で彼女の頬を包み込んだ。
「忘れないで、私は君をドュラン皇太子に渡さないことを諦めた訳ではないからね」
言って、アヤカーナの唇に軽くそれを落とす。
驚くアヤカーナの前でサッと風が動き、マリユスが走り去り、人混みに紛れる前に一度だけ彼が、こちらを振り返ったのが見えた。
その様子を、踊る人々で混み合う舞踏場の真ん中で、身じろぎもせず立ったまま見つめる妖精がいた。マスクの下の表情は固く、翠色の瞳は険しかった。
銀色の男が近衛達に後を追われ、村娘が黒尽くめの皇太子に抱きかかえられて去るのを見送ると、妖精はサッと身を翻しそのまま舞踏場から立ち去った。