黒龍はもう一度、空を見上げる
守護竜のお世話係の朝は、早い。
まだ太陽が昇りきる前、薄暗いうちから大量の餌を準備し、竜舎の掃除に追われるのが私の日常だ。
今日も大きな木桶を抱え、すっかり慣れた足取りで一番奥の竜舎へと向かう。
「おはようございます、レグルス様」
鉄柵を開けると、漆黒の巨大な竜がゆっくりと顔を上げた。
黒曜石のように深く落ち着いた色合いの鱗に、穏やかな金色の瞳。
この国を長きにわたって見守り続けてきた守護竜、レグルス様だ。
私が近づくと、レグルス様は大きな鼻先をそっと寄せてくる。
「ふふ、お腹が空きましたか?」
その鼻先を優しく撫でてあげると、嬉しそうに目を細める。
まずは朝食の準備だ。
大きな肉を豪快に並べ、新鮮な水を用意する。
彼が美味しそうに食べるのを見届けてから、私はお気に入りの特大ブラシを手に取った。
「今日は念入りに磨きますね」
黒い鱗を一枚ずつ丁寧に磨いていく作業は、なかなかの重労働だけど、私はこの時間が嫌いじゃない。
ごし、ごし、と心地よい音が静かな竜舎に響く。
「あ、ここに少し土がついてますね」
隅々まできれいに磨き終えると、黒曜石の鱗が朝日を浴びて、それはもう美しく輝いた。
「はい、今日も格好いいですよ!」
さっぱりしたのか、レグルス様が低く喉を鳴らす。
その可愛い反応が見たくて、ついつい張り切ってしまうのだ。
「それじゃあ、お散歩しましょうか」
私の掛け声に、レグルス様がゆっくりと巨体を起こす。
右後ろ脚を少しだけかばうようにして、一歩、また一歩と歩き出す。
……うん、おじいちゃん竜だから、私がしっかり労わってあげないと。
「今日は調子が良さそうですね」
そう微笑みかけた、その時だった。
「マーサーーッ!」
竜舎の扉が、ものすごい勢いで跳ね上がる。
同僚のカレンが、肩で息をしながら飛び込んできた。
「聞いた!? 青い竜が来たのよ、青い竜!」
「え? 青い竜?」
「そう! 空をそのまま切り取ったみたいに真っ青で、すっごく綺麗なんだって!」
大興奮のカレンに、がっしりと両腕を掴まれる。
「広場はもう大騒ぎよ! 王様なんて仕事放り出して見に来てるんだから!」
「そんなに?」
「早く見に行きましょ!」
私はチラリとレグルス様を見上げた。
お散歩はまだ半分も終わっていない。
「ごめん、カレン。私は後で行くよ」
「えぇー!?」
「レグルス様のお散歩がまだだから」
私は当然のように、レグルス様の隣へ戻った。
右後ろ脚に負担がかからないよう、歩幅を合わせてそっと寄り添う。
「今日は日差しが気持ちいいですよ、レグルス様」
話しかけると、レグルス様は穏やかに鼻を鳴らした。その様子を見て、カレンは完全に呆れ顔だ。
「マーサって、本当にレグルス様が好きよねぇ」
「もちろん。ずっとこの国を守ってくださっている、大切な竜様だもの」
照れもせずに頷くと、カレンは「もう、分かったわよ!」と肩をすくめた。
「じゃあ、私は先に行ってくるからね!」と、嵐のように去っていく背中を、私は苦笑しながら見送る。
「ごめんなさいね、レグルス様。今日は皆さん、お祭り騒ぎで落ち着かないみたいです」
レグルス様は静かに鼻を鳴らす。
まるで「気にするな」と慰めてくれているようだった。
それから私たちは、いつものように、どこまでもゆっくりと竜舎の庭を一周した。
散歩を終えたレグルス様が、竜舎の奥で満足そうに横たわる。
「午後はゆっくり休んでくださいね」と鼻先を撫で、私はようやく竜舎を後にした。
「さて……私も、噂の青い竜様を見に行こうかな」
***
その頃、城の広場は文字通りお祭り騒ぎの歓声に包まれていた。
「なんという吉兆だ! 建国以来の奇跡である!」
誰よりも限界突破してはしゃいでいるのは、リチャード国王だ。
両手を天に突き上げ、子供のように興奮している。
広場の中央には、一頭の美しい青竜が佇んでいた。
晴れ渡る空を映したような鮮やかな鱗が、陽光を浴びてキラキラと輝いている。
……が、当の青竜――ルークは、周りの熱狂をよそに、どこか落ち着かない様子で広場の入口ばかりを気にしていた。
ルークが退屈そうに尾を揺らすたび、人々は「おおお!」と歓声をあげる。
「なんと堂々たるお姿だ!」
「新しい守護竜様が、我らを見守ってくださっている!」
完全に人間の片思いである。
ルークの視線は、彼らに一ミリも向いていなかった。
やがて、賑やかな広場に、重々しい石畳の足音が響く。
片脚をかばいながら、ゆっくりと歩いてくる黒い竜――レグルスだ。
その姿を見つけた瞬間、さっきまで退屈そうだったルークの目が輝いた。
ルークはぱっと尾を大きく振り、嬉しそうにレグルスへと駆け寄る。
レグルスも穏やかに尾を揺らし、ゆっくりと鼻先を差し出した。
二頭の竜は、そっと鼻先を軽く触れ合わせ、低く喉を鳴らし合う。
「ご覧ください!」
「あの青い竜様は、今代の守護竜様にご挨拶されているに違いない!」
「なんという尊い光景か……!」
人間たちはすっかり自分たちの都合の良いように解釈して盛り上がっていたが、竜たちは挨拶を終えると、周囲の歓声など最初から聞こえていないかのように、あっさりと離れた。
レグルスは静かに身を翻し、再びゆっくりと竜舎への道を歩き始める。
ルークはその場でじっと見送り、寂しそうに小さくひと鳴きした。
レグルスは一度だけ振り返り、翼を小さく動かして応える。
それだけだった。
ルークは満足したようにその場へ座り直し、人間たちはまたそれだけで大歓声をあげるのだった。
**
ルークが城に来てからというもの、竜舎は毎日が観光地のようになっていた。
「青竜様! こちらを向いてください!」
「なんて美しい鱗……!」
お世話係たちはこぞってルークの周りに集まり、カレンも「青竜様の鱗、サファイアみたい!」と夢中だ。
私は「あとで見に行くね」と笑いながら、いつも通りレグルス様のいる一番奥の竜舎へと向かった。
「お待たせしました、レグルス様」
いつもの朝、いつものブラッシング。
黒い鱗を一枚ずつ磨き上げ、お散歩のために歩き出した。
――けれど、数歩進んだところで、レグルス様の足がピタリと止まった。
右後ろ脚が、小さく震えている。
「レグルス様……?」
慌ててしゃがみ込み、その脚にそっと触れた。
鱗の隙間に走る、大きな古い傷跡。今日のレグルス様は、いつもより明らかに痛みが強そうだった。
「……痛むんですね」
レグルス様は静かに喉を鳴らし、力なく翼を少しだけ動かした。
その仕草が、まるで『もう、昔のようには飛べないのだ』と諦めているように見えて、胸がギュッと締めつけられる。
そのとき、竜舎の外からルークの元気な鳴き声が聞こえてきた。
青空を、鮮やかな影が悠々と舞っている。
人々の歓声も一段と大きい。
レグルス様はチラリと空を見上げたが、すぐに寂しそうに目を伏せてしまった。
その切ない表情を見て、私は気づけば口を動かしていた。
「……実は私も、羨ましいなぁって思うこと、あるんですよ」
レグルス様が、不思議そうに首をかしげる。
「レグルス様と比べるのもおこがましいんですけど……」
私はおもむろに、自分のくるくるした髪を指で摘まんだ。
「お城のお貴族様って、みんな白い肌で、さらさらの綺麗な髪でしょう? 私は外仕事ばかりだから肌は真っ黒ですし、この髪も毎朝爆発して大騒ぎです。もう少し綺麗だったらなぁ、なんて思う日はありますよ」
苦笑しながら肩をすくめる私を、レグルス様は静かに見つめている。
「でも、これはこれで私なんですよね」
自分の腕をぽん、と叩いて、私はにっこり笑ってみせた。
「お日様の下で働くのは大好きですし、毎朝爆発する髪にももう慣れっこです。案外、悪くありません。……レグルス様も同じです。その傷があっても、レグルス様はレグルス様でしょう?」
私はレグルス様の、綺麗な金色の瞳を見上げる。
「それに、レグルス様がとっても優しくて素敵な竜だってこと、私は一番よく知っています。……私は、今のレグルス様が大好きですよ」
――あ。
言った瞬間、自分の言葉の破壊力に気づいて、心臓が跳ね上がった。
「あっ! ち、違います! その……守護竜様として、ですからね!?」
耳まで一気に熱くなって、両手をぶんぶんと振り回す。
すると、レグルス様の目が大きく見開かれ、すぐに「グルル……」と小さく喉が鳴った。
「……今、もしかして笑いました?」
レグルス様はぷいっと視線を逸らすように顔を背けてしまった。けれど、その長い尾はどこか機嫌が良さそうに、パタパタと小さく揺れていた。
**
数日後の朝。私はいつものように木桶を抱えて竜舎へ向かった。
「おはようございます、レグルス様――え?」
扉を開けた瞬間、私の思考が完全にフリーズした。
いつもそこにいるはずの、大きな黒い竜がいない。その代わりに、一人の青年が壁にそっと手を添えて立ち上がろうとしていた。
艶のある長い黒髪。落ち着いた金色の瞳。鼻筋の通った、整った顔立ち。
年の頃は二十代半ばくらいだろうか。
ただ、右脚をかばうように立とうとする姿だけが、ひどく痛々しい。
青年がゆっくりと顔を上げ、私を見た。
「……驚かせてしまったようだ」
低くて心地よい、耳に馴染んだ穏やかな声。
「そのお姿は……」
青年は静かに頷く。
「……レグルス、様?」
「そうだ」
「ええええぇっ!?」
思わず、城中に響き渡りそうな大声が出た。
青年と、空っぽの竜舎を何度も見比べる。
「だ、だって……!」
言いかけて、慌てて両手で口を押さえた。
レグルス様が困惑したように首をかしげる。
「何だ?」
「い、いえ、その……もっと、おじいちゃんだと思ってました……」
しん、と竜舎が静まり返る。
レグルス様は少しだけ眉を下げ、苦笑を漏らした。
「この足のせいで勘違いさせてしまったのかもしれないが……私はまだ若い。竜としては、だが」
私の顔が一気に沸騰する。
思い返せば、あの落ち着きっぷりと脚の悪さだけで、私が勝手に老竜だと思い込んでいただけだ。
「も、申し訳ありません……っ! 年配の方だとばかり……!」
深々と頭を下げる私を見て、レグルス様はついに耐えかねたように吹き出した。
今度ははっきりと、悪戯っぽく優しく笑う。
「気にしていないさ」
その笑顔が温かくて、私の緊張もするすると解けていった。
「……ありがとうございます」
私は歩み寄り、自然な動作で彼の隣に並んだ。
「立たれるの、大変でしょう?」
そっと腕を差し出す。
レグルス様は少しだけ驚いたように目を見張った。
「……この姿になれても、足は治らなかったのだが」
「はい」
私は当たり前のように、一瞬の迷いもなく微笑み返す。
「私は全然、気になりません」
慰めでも、同情でもない。
ただ、大好きなレグルス様がそこにいるから。
「歩きましょう。今日もお天気がいいですよ。ゆっくり、お散歩しましょう」
レグルス様は、嬉しそうに目を細めると、私の差し出した腕にそっと手を重ねた。
そこに躊躇いは一切なかった。
「……ありがとう、マーサ」
短いその一言の中に、今まで言葉にできなかった彼の温かい想いがすべて詰め込まれているような気がした。胸の奥がじんわりと熱くなる。
「こちらこそ。これからも、レグルス様のお世話をさせてください。ずっと、おそばで」
私たちは歩き出す。
歩幅は少しだけゆっくり。
けれど、二人の足音は、驚くほどぴったりと重なり合っていた。
「空、綺麗ですね」
「……ああ、本当に」
見上げた青空には、私たちの優しい未来が広がっていた。
終
青龍ルークは憧れの先輩龍レグルスに会いにきただけです。




