第5章:月光蚕の繭
夜が、ひとつの呼吸のように長く続いていた。
世界は再び静寂に沈み、時間の鼓動さえ薄れている。
――その中心で、私は光を見た。
それは、月光のように淡く輝く繭。
透明な糸が無数に絡み合い、空中に浮かんで脈打っている。
繭の中には、微かに“私自身”の影が見えた。
まるで、未来の私が眠っているように。
「……これが、“月光蚕”の繭か。」
蜃気楼の都市が消えたあと、残された砂の海の中で、この繭だけが時間を逆流させるように光っていた。
触れると、無数の記憶が音のように流れ込んでくる。
過去、現在、未来――そのすべてが、この繭に保存されている。
世界は変わり始めていた。
空気が思考を持ち、風が記憶を囁く。
存在のすべてが、ひとつの意識に“共鳴”しようとしている。
私は理解する。
これは「世界そのものの調律」。
人間の手ではなく、世界が自らの音を探している。
そして、その中心で“もう一人の私”――クリムゾンの残響が現れた。
「お前も気づいたはずだ。
この繭の中に眠るのは、世界の“原調律”。
月光蚕は、存在の記憶を紡ぐ唯一の生命体だ。」
彼の声は穏やかだった。
だがその奥に、深い悲哀が滲んでいる。
「人は過去を修正しようとし、未来を制御しようとした。
その結果、世界は“意識”を得た。
だが、意識を持った世界は――すでに人の手を離れた。」
紅い光が空を走る。
過去と未来が同時に開き、街の残像が重なり合う。
私は膝をつき、耳を澄ます。
そこには、懐かしい旋律――
かつて蜃気楼で聴いた“讃美歌”が、
繭の内部から静かに流れていた。
“存在とは、祈りの継続。”
繭の中の声が、私に問いかける。
「あなたは、過去を赦せますか?」
「あなたは、未来を恐れませんか?」
私は答えを探す。
だが、言葉よりも先に、涙が頬を伝った。
「……私は、もうどちらも選ばない。
過去と未来、その両方を受け入れる。
それが、最後の調律だ。」
月光蚕の繭が震える。
光の糸が世界中に広がり、すべての時間が共鳴を始める。
人々の記憶、消えた街、忘れられた存在――
それらが音となって一つに溶け合う。
紅き月が白く変わり、夜が朝に滲む。
“月光”が世界を包み込み、私は中心で静かに目を閉じた。
クリムゾンの声が、遠くで囁く。
「それが、お前の答えか。」
「……ああ。もう、修正ではない。再生だ。」
光が弾け、繭が開く。
そこから現れたのは、ひとりの少女――
かつて私が救えなかった“影”だった。
彼女は微笑み、私に手を伸ばす。
「あなたが調律した音、ちゃんと届いたよ。」
その言葉と共に、世界が静かに息を吹き返す。
月光蚕の繭は消え、ただ一筋の白い糸だけが空を渡っていった。
それは、再生の旋律――
過去と未来がひとつになった、存在の讃美歌だった。




