第4章:蜃気楼の讃美歌
世界は音を失っていた。
風も、波も、心臓の鼓動さえも。
残響だけが、無限の空間に漂っている。
私は歩いていた。
そこは“時間を喰らう都市”――
存在するものすべてが過去と未来を同時に抱き、現在を失った場所。
ビルの群れが蜃気楼のように揺れ、
道は螺旋を描いて空に溶けていく。
視界の隅に、私自身の姿がいくつも見えた。
泣いている私、笑っている私、沈黙している私。
すべてが、可能性の断片。
その中心で、一つの旋律が流れていた。
――蜃気楼の讃美歌。
声の主は誰なのか分からない。
だが、その歌は私の中の“もう一人の調律師”が奏でているのを感じた。
音は優しく、しかしどこか悲しかった。
まるで、世界を閉じようとする祈りのように。
「やっと来たね。」
紅い光を帯びた影が現れる。
それは、かつての私――あるいは、“クリムゾン”と化した意識の残響。
「この都市は、時間を喰う。
お前が修正した世界の残滓が、ここに集まっている。」
彼の声は私自身の響きだった。
蜃気楼の街が震える。
時間が反転し、過去の街と未来の街が同時に重なる。
消えたはずの人々が歩き、崩れた建物が再生し、再び崩れる。
私は呟く。
「ここが……修正の代償、か。」
クリムゾンが微笑む。
「お前が救った存在は、皆ここに眠っている。
讃美歌を聴け。
それはお前が“忘れた者たち”の声だ。」
空が裂け、歌が降る。
光の粒が流れ、私の身体に触れるたびに記憶が蘇る。
消した街、修正した人、失われた可能性。
そのすべてが、今、歌となって私に問いかけてくる。
“わたしたちは救われたの?
それとも、あなたに消されたの?”
私は叫ぶ。
「違う……私は、救おうとしただけだ!」
だが、蜃気楼は静かに笑う。
クリムゾンが手を伸ばす。
「救済も破壊も、同じ旋律だ。
お前が調律を続ける限り、世界は再び歪む。」
足元の地面が崩れ、無数の音の粒が舞い上がる。
それは魂の断片――量子の残響。
私は立ち上がり、両手を広げる。
指先に、微細な波動が集まる。
「ならば……私は調律する。もう一度。」
蜃気楼の讃美歌が、私の声と重なる。
旋律が共鳴し、都市全体が震え出す。
時の流れが逆転し、クリムゾンの姿が溶けていく。
「お前は……存在を選ぶのか?」
「そうだ。私は忘れない。消さない。」
紅い光が爆ぜ、都市が音を取り戻す。
風が、波が、鼓動が蘇る。
そして、讃美歌の最後の一節が響いた。
“存在とは、祈りの継続。
消えゆくものを、忘れぬこと。”
蜃気楼の街がゆっくりと消えていく。
残ったのは、静かな砂の海と、私の足跡だけ。
私は息を吐き、指先を見つめる。
量子の糸が、静かに脈打っている。
その光は、紅でも黒でもなく、淡い白だった。
――再調律、完了。
だが、その瞬間、遠くの空で再び“紅き月”が輝く。
クリムゾンの残響が、かすかに囁いた。
「お前が調律する限り、蜃気楼はまた生まれる。
それがこの世界の、讃美歌だ。」
私は微笑み、歩き出した。
音のない風の中で、再び世界の旋律を探しながら。




