第2章:紅き月のラプソディ
雨が上がった夜、空には紅い月が浮かんでいた。
それは、世界の歪みが可視化された兆候――
オルゴールが破裂した翌夜、都市の空気がわずかに震え、時間の流れが濁り始めた。
私は、消えた影を追っていた。
あの存在を放置すれば、歪みはさらに広がり、現実そのものが逆流する。
指先に感じる微細な波動――量子の糸がまだ繋がっている。
追跡対象は、この都市のどこかに“残響”として存在している。
紅き月の光が差し込む路地。
そこに立っていたのは、黒い外套の人物――MESSIAHのエージェント。
皮膚の下を銀の光が走り、瞳は無音の渦のように揺れている。
「お前が、修正者か」
低く、乾いた声。
「君たちが“救世”を名乗るのか」私は応える。
「世界の秩序を壊しながら?」
エージェントは微笑む。
「壊す? 違う。私たちは“戻している”だけだ。人が干渉しすぎた未来を、正しい過去へ。」
その言葉と同時に、空気が弾けた。
視界の端で、時間が三重に折り重なる。未来・現在・過去――それが同時に流れ始める。
私は息を止め、指先を伸ばす。
――量子共鳴、発動。
空間が震え、世界の構造線が浮かび上がる。
建物の影、人の残像、雨の雫――それぞれが「選択の記憶」を持っている。
エージェントはその中をすり抜け、まるで別の可能性世界に跳ぶように移動する。
「感覚が追いつかないだろう?」
彼の声は、同時に三方向から響く。
「我々は逆流する因果を歩いている。お前の“感知”では遅すぎる。」
私は集中を極限まで研ぎ澄ます。
聴覚は音の波を、触覚は空気の圧を、視覚は光の屈折を読む。
――“追う”のではない、“重ねる”のだ。
量子調律師は対象の存在確率を、自身の感覚に重ねることで“現在”を固定する。
そして次の瞬間、エージェントの動きを捉えた。
彼の背後に、微かに揺れる“影の残滓”。
それは――私が追っていた“消えた影”と、同じ波動を放っていた。
「……まさか」
影はエージェントの内部から滲み出ていた。
追跡対象は、MESSIAHによって取り込まれ、“存在の燃料”として使われていたのだ。
エージェントが右手を広げる。
その掌に、紅い月の光が集まり、粒子となって弾ける。
――鎮魂歌だ。だがそれは、救済の旋律ではない。
それは存在を消し去るための“逆位相の音”。
「この世界のノイズは、お前たち調律師だ。」
「違う、ノイズを生んだのはお前たちだ。」
言葉と共に、空気が弾ける。
二つの波動――共鳴と逆流が衝突し、紅き月の下で空間が割れる。
世界の色が滲み、空に裂け目が走る。
私は全感覚を一点に集中させ、指先で量子の糸を“再調律”する。
音なき音が響き、紅い月の光が一瞬だけ白に変わる。
――衝突のあと、沈黙。
地面に崩れ落ちるエージェント。
その身体から、影の残滓がゆっくりと離れていく。
それは、私が追っていた“消えた存在”の欠片だった。
触れた瞬間、視界が赤く染まる。
脳裏に、誰かの記憶が流れ込んできた――
影の正体は、人間だった。
そして、その人物こそ、MESSIAHを創設した最初の“量子調律師”。
紅き月が、再び脈動する。
歪みは収束せず、むしろ拡大していく。
エージェントの言葉が、遠くで反響する。
「救世主は……お前の中にいる。」
その声を最後に、彼は消えた。
私の指先には、赤い光だけが残る。
――紅き月のラプソディは、まだ終わらない。




