11月16日 土曜日 心急く香り①
今日が来た。デートと言えるかどうか分からないがとにかく松村先輩と二人で出かける事実に心が揺らされあまりの緊張で全く眠れなかった。現在時刻は午前4時、先輩との集合時間までたっぷりと時間がある。ベットの中でスマホの明かりを見つめて時間を潰していると自然と先輩とのデートの事を考えてしまい焦燥感が生まれてきた。
何かしないといけない。この焦りを消したい。そうだ、外を歩いて頭を冷やそう。
玄関を出ると既に空は薄明るく、ひんやりとしていた空気が漂い、澄んだ香りがしていた。普段で出歩かない時間帯に、しかも、先輩とデートに行く特別な日に散歩しているとあまりにも普段とは違った不思議な感覚に包まれる。
そうやって寒空の下を歩いてくると冷静になってくる。先輩とのデートだって楽斗のアドバイス通りにすればきっと上手く行く。それに、先輩は普段の僕を見て遊びに誘ってくれたはずだ。
何でなんだろう。やっぱり、僕の顔が良いくらいしか思い当たる要素が無い。先輩からは話下手なイケメンだと思われているのかもしれない。
正直、自分の内面では無く顔が目当てならショックは受けるけど、対応は楽になる。
ああ、僕が気負う必要なんて無いじゃないか。そう思うと気が抜けてきた。
気持ちが軽くなると周りの景色が見えてくる。
10分くらい歩いて近所のコンビニまで行く間にも、少し眠そうな目をしながら車の中でひげを剃りながら信号待ちをしているおそらく会社員の男性、朝早くからランニングをしている女性、コンビニの前の喫煙所でたむろして煙草を吸いながら話している数人の大学生。
この人達にも1人1人の人生があり、それぞれの苦楽を噛みしめながら生きているのだろう。この人達は何に喜びを感じて何を辛いと感じるんだろうか。
テンションが上がって自分の視界が広がりすぎたのかこんな事を考える余裕まである。
コンビニまで散歩することが目的だったから店内に入っても買いたい商品が無い。でも、店に入ったからには何か1つでも買わないとさすがに気まずい。そこでふと頭に浮かんだ物が肉まんだ。僕は肉まんが好きで気温が下がってきた頃から売られているのを見かけたら大体買ってしまう。少しワクワクしながら売り場を見てみると準備中の札がかけられ、空だった。
当たり前の話かもしれない。だって、この時間だから。この悔しさを楽しみに変えるために電子レンジで温めて食べるニンニクともやしがいっぱい乗ったラーメンとおかかのおにぎりを買って帰宅した。家に帰ってきて早速ラーメンを温め、おにぎりを食べながら適当な動画を観る。全く予定になかったのに朝ご飯をがっつり目に食べてしまった。
食べ終えてから気づいた後悔がある。それは、ニンニクの臭いが口からしていることだ。今日、先輩とデートなのに口臭のことを考えていなかった僕は急いで歯を磨いて口臭ケアのタブレットを買うために再びコンビニへと向かった。
今度は景色を観察する余裕も無く、全力疾走で。
息も絶え絶えになりながら帰宅し、ようやく落ち着いたときに時間を確認してみると午前6時半。それからの数時間は落ち着いて過ごすことが出来た。リラックスしすぎて寝そうになったくらいに。
今日のために買ったばかりの服を着て鏡の前に立つと我ながらかっこよく見えてきた。気合を入れすぎている気もしてきたけど今更遅い。最後に普段はつけないウッディ系の香りの香水を軽くつけて身支度を完成させる。
家を出ると馴染みのあるいつも通りの空気が流れている。自分のつけ慣れていない香水の香りの漂いを感じながら◇◇駅まで行く。改札を抜けすぐ近くにある金の時計台に行き、先輩が来ていないか確認したけどまだ着いていなかった。
先輩に到着したと連絡を送り、スマホを眺めながら待つ。今日の行先は月曜日に聞いたところ、まず軽く雑貨屋に行った後に少し移動し、お昼を食べ、近くの商店街で買い物をして解散の流れと言われた。先輩の到着が待ち遠しい。
待ち合わせの5分前に先輩がこちらに歩いてくるのが見えた。
「ごめんね、待たせてしまったかな?」
楽斗に言われたように『松村先輩』を意識しないように会話をする。
「全然ですよ。僕が少し早かっただけなんで」
「じゃあ、さっそく行こうか。まずは、雑貨屋さんだね」
先輩と並んで歩き始める。あまり嗅いだことの無い香りが風に乗って漂って来る。いつもの身体に染みるような香りでは無く、何と言っていいのかわからない香水の香り。
良い香りには間違いないけれど、僕の脳に焼き付いている普段の先輩の香りとは違いに混乱してしまって少しの間、思考が停止してしまった。
香りに戸惑っていると先輩の服装を褒めるタイミングがわからなくなってしまった。
だけど、普段と香りが違うからこそ緊張することは無いから良かった。これなら冷静に今日のデートを楽しめそうだ。
「僕があまり物を買わないんで知らないんですけど雑貨屋って何買う所なんですか?」
多少、冷静になったとは言っても少しの緊張はまだ残っている。何の話をしようか悩んだ挙句にこれから行く雑貨屋がどんな店なのか聞いてしまった。雑貨屋がどんな店なのかはさすがに知っている。
「名前通りいろんな商品が売っているよ。私は、ずっと使っていたマグカップを割っちゃってね。結構、気に入っていた物だったから新しいものを買う時もこだわりたくて行くんだ」
そう言って到着したのは雑貨屋のイメージ通りの雑貨屋だった。入って少しすると気に入ったマグカップをいくつか見つけたのか真剣な顔になった。
「陽介君はどっちがいいと思う?」
先輩が指したのは全体が黒く、白い線で小さな黒猫の絵が描かれているマグカップと全体が薄黄色でコーギーが描かれているマグカップだった。先輩は実家で飼っている猫を溺愛していたからすぐに選べる。
「僕は、黒いマグカップの方が可愛くていいと思います」
「なら、それにしよう」
先輩は即決し、黒色のマグカップを購入した。
「すぐに決めちゃって良かったんですか?」
「どちらもとても気に入ってたからね。後はどっちにするかのきっかけが欲しかったんだ」
先輩の役に立てたと思うとどんな小さなことでも嬉しい。
「そろそろ移動してお昼食べに行こうか。◇◇駅から電車で二駅のところだけど時間的に電車が混んでるかもしれないけど、お店は予約してあるからそこまでの辛抱だね」
今は土曜日の正午前、先輩の言ったようにとても混雑していた。しかも、すぐ隣に密接した状態の雪先輩がいることもあって電車を降りるまでに体力を大きく消費してしまった。
電車の中は先輩との距離がほぼゼロだったから普段よりも先輩の香りが強い。先輩が付けている香水とは全く別の動物的な先輩の香りが直に僕の身体に入ってきて本当に幸せな時間ではあったから良かったと言えば良かったけど。
「思っていたより人が多くて大変だったね」
「そうですね。でも、それよりもお腹が減ってきてるのでこの後のお店がめっちゃ楽しみです」
「お、良いね。予約してるところは私がずっと行きたかった所なんだけど料理の量が少し多くてね。友達とご飯に行くときも候補から外してた所だから陽介君も満足できると思うよ」
そうして着いたのはオシャレなカフェだった。先週、楽斗と行ったカフェとは雰囲気の違う煌びやかな店内だった。




