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ぬくもりの香り  作者: noi
香りとの出会いから
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11月1日 金曜日 初めての香り

 江夏陽介えなつようすけ。特にしたいこともなく、漠然と大学に通っている人間が僕だ。まだ、大学1年生。


 自分でも顔がイケメンで性格も悪くは無い。それに、コミュニケーション能力もあるので、僕の上っ面だけを見て言い寄られる事もあったが全く興味が沸かず、全て断っていた。


 これからも、恋愛なんてするつもりが無い。……そう思っていたのに。


 そんな僕が初めて恋をしている。僕の鼻を唸らせるほどの人と出会ったからだ。


 一目ぼれならぬ一鼻ぼれなんだと思う。初めて嗅いだ時から脳裏に焼き付いて離れないあの香りが僕の心を揺れ動かしている。




 昼前に目が覚めた。コンタクトを付けて軽くパーマのかかっている髪をセンターパートにセットする。服を着て身なりを整えて大学へ行く。今日の大学の講義は1時からだ。


 玄関の扉を開けたときからわかる最近の変化。少しづつ気温が下がり、湿気の少なくなってきたこの季節。鼻の中を抜ける空気も軽くツンとするようになってきて、空気の香りでも冬が近づいてきていることを感じる。夏の暑さが苦手で冬の寒さが好きな僕にとっては嬉しい季節の変化に気分を良くしながら歩き始める。


 一人暮らしをしている1DKのアパートから大学までの20分ほど道のりを普段通りに歩く。ボーっと歩いて傍にいた猫を見ていると目の前から歩いてきた女子大学生とパッと目が合い話しかけられた。


「陽介君は、猫が好きなの?」

 

 この人は松村雪まつむらゆき。同じ学科の1つ先輩の人。身長が高く、ショートカットがよく似合っている綺麗な人だと思う。そして今まで出会った誰よりも香りが良い。

 

 普段はしっかりとした人だが、抜けている所があり、去年、寝坊をしてしまいテストを受けそびれた単位の再履修の講義を後輩の僕と受けている。毎週月曜日の午前9時からの講義なので先輩がまた遅刻しないか毎週密かに心配している。


 今日、すれ違った理由は午前の講義を終えて利用する駅へ向かっている最中だからだろう。大学から最寄り駅までは徒歩30分程なので、大学と駅までを徒歩で通学する学生も多い。


「あー、うん、そうですね。大好きですね」


 ドギマギして会話がぎこちなくなってしまう。


 僕が答えると先輩はニコニコとしながら、


「へぇー、そうなんだね。私は実家で猫を飼ってるんだよ。ほら、この画像なんだけど」

 

 先輩のスマホを覗くと可愛い猫の寝顔が写っていた。


「おおー、可愛い猫ですね。いつ頃から飼っているんですか?」


「私が中学校に入学したタイミングだから、だいたい8年前からだね。飼い始めた頃の写真がこれだよ」


 そこには、まだ小さい猫を抱いている中学生時代の松村先輩。あどけなさの残る非常に可愛らしい立ち姿。


「はい、本当に可愛いですね。良いなー、実家では母親が猫アレルギーで飼えなかったので何時か飼えるようになりたいです。」


「アレルギーだと大変だからね」


 その通りで母は野良猫とすれ違うだけでも辛そうにしている。


「ところで先輩、来週の月曜日は絶対に遅刻しないでくださいよ。単位が危うくなっても僕は先輩を助けれそうにも無いので」


「単位の方は今のところ出席も大丈夫だから、去年みたくテストに寝坊しなければ大丈夫だよ。というか、そろそろ学校へ行かないと君の方が今日の講義に遅刻してしまうよ。話はこのくらいにしてまた、月曜日にね」


 そう言って先輩は駅へと向かっていった。


 普段通り半分寝ながら講義を受ける。微塵も興味の無い講義内容。将来就職する際にも必要のないだろう、単位を取って卒業するために必要だから取得するだけの単位。今日の晩御飯はカレーライスにしよう。そんなことをうつらうつらとしながら考えて講義は終わっていった。


 僕の金曜日の講義はこの1つだけなので、授業後すぐにアパートへ帰る。


 大学からの帰り道、スーパーによってカレーライスの材料を買う。豚肉、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、ピーマン。一人暮らしを始めてから7か月の間、週に一回はこのカレーライスを作っている。特にこだわり無く作っているが、速く楽に多くの量を一度に作れてとてもおいしい。最高の料理だと思う。


 アパートへ帰宅後の午後5時頃、カレーライスを作り、完成したら冷めない間に食べる。お腹いっぱいに食べ終え、大学の課題の無い僕の今日の予定はすべて終わった。つまり、このまま休日へと突入する。


 今週は友人との予定もなく、アルバイトもしていない僕の休日はだらだらと部屋で過ごして終わる。僕には、趣味も特に無い。ネットで動画を観て少し笑って過ごすだけの数日、1人でなんの意義も無い休日を過ごすと思うと悲しくなる。


 この1週間を思い出してみても、思い出すほどの記憶が無い。朝起きて講義のある日に大学に行って講義を受けて家に帰る。講義の無い日は課題をしてそれ以外の時間は適当に過ごしていた。


 本当に暇で仕方が無い。


 午後8時頃、スマホにメッセージ通知が来た。普段はSNSの公式からのメッセージかソシャゲからの通知しか来ないが、今日は少し違った。


 メッセージの相手は先輩だった。


『月曜日の講義で提出の課題のレポート書けた?』


 めったに来ることの無いメッセージに驚きもあったが、僕が内容の知らない課題のことだったから少しの焦りがあり、すぐに返信した。


『課題ってありましたっけ?』


 送信と同時に既読が付き、返答も返ってきた。


『今週の講義内容について2000字でまとめる簡易レポートがあるよ。君が講義中に半分寝てて聞いてなさそうだったから一応メッセージ送ってあげたんだよ』


 危なかった。普段課題の無い講義だから勝手に安心して寝ていて話を聞いていなかった。


『すみません。寝ていて講義を聞いていなかったので課題の内容教えてください』


『仕方ないね、私がメモしてた講義ノートの写真を送ってあげるよ。これからはちゃんと講義受けないといけないよ』


 誰かから注意を受けるなんていつぶり何だろうか。叱られているはずなのに心が高鳴っている。


『ありがとうございます。先輩こそ講義に遅刻しないように気を付けてください』


『うん、わかった。君は課題を頑張ってね。あと、一言多いよ』


 先輩のおかげで課題に気が付けて良かった。先輩のことを気の抜けたところのある人と思っていたけど、普段から集中して講義を聞いていない僕はあまり人のことを言えないかもしれない。先輩の優しさが身に染みる。


 そんなことを考えている内に先輩から


『はい、これ』


 と言って、画像が送られてきた。


『ありがとうございます』


 とだけ送って課題のレポートに取り掛かる。先輩が書いてくれていたノートが丁寧にまとめられていたので課題自体は1時間ほどで完成した。


 課題が終わってから改めてもう一度ノートを見返すと、先輩の丁寧さに気が付く。僕がうつらうつらしている間に真面目に講義を受けていたんだと感じる。先輩と会うのは1週間に1回、月曜日1コマ目の講義だけ。その時間に隣の席で講義を受けているだけの関係なのにこうして関われるようになれるとは思っていなかった。


 何故かあの人と話す時だけ上手くいかない。見かけでは堂々と受け答えが出来ているかもしれない。だけど、内心は先輩から嫌われたくない一心ビクビクしている。


 先輩がこうして僕のことを考えて何か行動をしてくれたと思うだけでうれしいと感じる。温かく思う。週に一度、90分くらいの1つの講義を隣の座席で受けてその合間に少し話すだけの人なのにあの人の顔が目に焼き付いて頭から離れない。先輩を想うだけであの人からする香りが漂って来る錯覚を覚える。


 優しく、温かく、落ち着く匂いの人だ。


 やっぱり片思いをしている。


 あの人の匂いの傍にいたい。


 こんな気持ちは初めてだ。これが恋と言う物なんだろう。僕自身も少し戸惑っている。


 先輩に対して何か行動を起こす勇気も無い、話しかけられても緊張してしまうような人間が先輩と付き合える訳が無い。


 だけど、好きなものは好きで頭にこびりついた想いは簡単には消えない。この思いは文字通り夢でしかないと理解していてもどうしても妄想をやめることができない。現実が思い通りにならないとしても、あの人が僕の隣にいてほしい、あの人を自分のモノにしたい。だんだんとドロドロとした思いが止まらなくなっていく。


 気持ちが悪い。気分が沈む。自分が嫌になる。


 こんなことを考えている間に日付が変わっていく。先輩からのメッセージで普段とは少し違うちょっとした幸せを感じて良い1日で終わるだろうと思っていたのに結局は気分が悪くなって終わってしまう。


 明日もどうせつまらない1日になるだろうと思いながら布団に入る。眠る寸前に先輩の匂いがほのかに香ったような気がする。少しばかりの幸福感に身を包まれたまま眠りに落ちた。

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