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嵯渡詩乃が共用廊下を駆けた。三人一組。前方警戒手は詩乃が務める。彼女らは正規の訓練を積んだわけではなかったが、やり合う相手も教科書に準じた大仰な武装集団ではないのを踏まえてのことだ。だから、吹き抜け構造となっている共用廊下で、対岸からの狙撃の可能性など端から考慮しない。代わりに中庭側からは、ニュートンがサーボモーターの高周波音を撒き散らし、ロープ降下と似た動作で壁面を蹴り飛ばしながら真逆に登ってゆく。彼らの目的地点は屋上だ。まだ低い太陽が逆光となって、万有引力に逆らう虫食い林檎たちの、丸く大きな陰影を造物主らの顔に刻んでゆく。
ニュートン隊の索敵行動で廃マンション内の立体モデルが外壁側から徐々に電子化され、建築図面との合成処理を経て、詩乃らのミラーシェードに疑似投影表示された。
【おい。生体反応のかけらもないぜ。猫一匹見当たらない。一体どうなってる?】
後方警戒手役・西馬からのメッセージが割り込み投影される。少なくとも断面積が二五〇平方センチ以上、且つ摂氏三〇度以上の熱源となる自分たち以外の物体は、この建造物内において現状検出されていない。構造材や設備等の熱部を除外するための、熱源フィルタリング設定が甘いのか、あるいは――。
【わからん。ここに身を隠していると思しき不法入国者は、極度の低温生物か、血の通わない人形か、でなければドブネズミ大の小型生物としか考えられない】
詩乃が応答する。戸原一佐の接触した『彼女』から連想される姿とそれらは合致せず、随分妙な状況だと首を捻った。
〈外交官達〉、正式には3rd(=the Third Diplomats)と命名された彼女らは、地球外来訪者の監視と接触・交渉・排除を目的に設立された、外務省直属の特務機関である。内閣情報調査室を始めとした正規諜報員たちと同等以上の装備を与えられているものの、銃器等殺傷武器の使用が認められず、また組織の存続維持のため実験部門的な役割が与えられたという内部事情もあり、高い税金を浪費してママゴトをやるセミプロ集団などと組織内外から揶揄されている。メンバーは自衛隊員、警察官、民間軍事会社所属の傭兵等の、落伍者の寄せ集めで構成され、諜報組織としての洗練度は著しく低い。
電磁短針銃を一層低く構えると、飛び込むようにして廃マンション三階へと至る非常階段の手すりから全身を晒し、何ら動作の破綻なく階上目がけて神経を走らせる。視野にチラつく疑似空間投影との、目視差分解析の実行。原始的だが、一秒以内で処理。螺旋状に伸びる階段の踏面に不自然な痕跡は見受けられない。仕掛けられたトラップの危険性も考慮する。ワイヤー、赤外線、感圧式、経験上思いつく限り。
一呼吸置いて安全確保の信号を返すと、踏査済み範囲の投影地図が紺に塗り替えられた。
「……逃げられちまったかな。ま、ニンゲン様なみの知性の持ち主なら、停電の時点でとっくに感づいてるんだろうけどよ」
後続する擁護手の市川が、わざわざ声に出して言った。標的の気配が見当たらず、声を潜める必要がないと判断したのだ。
鉄骨の踏面を踵で鈍く鳴らし、一気に上階へと駆け上がる。三階。目的階層だ。
「どうすんよ、嵯渡ぃ。拝藤のおっさんに連絡すっか?」
「いいや。何て言えと? 隊長は僕らに奴を『確保しろ』とまでは指示してないだろ。最後まで仕事をこなせ」
「へえ。じゃ、我らが隊長サンは、一体オレらにこんな場所で何してこいって?」
釈然としない市川の皮肉面に無視を決め込むと、詩乃は廊下中央に置かれた異物に気づいて足を止めた。それは、端的にそう説明するほかないものだった。
「――段ボール箱だ」
「ああ、段ボール箱だな。何、あまぞん、どっと、じぇーぴー?」
五〇センチ四方の、形のひしゃげた、何の変哲もない段ボール箱。通路のど真ん中に。熱源走査さえなければ、中に猫でも入っているのかと錯覚しそうだ。
さて、風の悪戯か、でなければ露骨な罠か。頭の中で箱の中身をいくつか推測する。
「おいでゼロスリー。排除」
詩乃らが安全圏まで退避すると、合図を受けて上階からワイヤー降下してきたニュートン〇三が、六本のマニピュレーターで箱をくしゃっと踏みつぶした。拍子抜けするほど鈍い破裂音は、箱の内部が単に空だったという些細な意味しか残さなかった。
空気を吐き出して潰れた段ボール箱から多脚のいくつかを引き抜く動作のニュートン〇三。その頭上、共用廊下天井に仕込まれた二連装の金属管が露わになる。可動式砲台と似通った仕組みで砲塔を〇三に定めると、
「――――――ッ!? 離脱しろッ!!」
市川らに後ろから首根っこを掴まれて、詩乃がコンクリートの床に転がった。
間に合わず、〇三が斉射を浴びた。着弾の衝撃で四肢を振るわせながら、炭素色の外殻が砲撃でまだら色に染まってゆく。ニュートンの防御機構が働き、姿勢固定しながらその場で外殻を閉じ丸まると、直撃を受けながらも転がって、射程圏外への離脱を始めた。
「――――――――――――――おい待て待てっ! こいつぁ……ペイント弾だ」
ふざけているのか、それとも警告なのか。西馬がニードルガンで天井に仕組まれていた砲塔をショートさせる。弾倉が尽きる前にペイント弾の斉射が止んだ。その代わりに――
詩乃の口がぽかんと空いたままになった。今度は頭上から膨大な量の雨が降り注いだのだ。水。水道水の味が鼻腔に唇に入り込んでくる。
詩乃は、頭からたっぷりと水を引っ被らされていた。雫も拭わず、茫然と天井を見上げる。剥き出しのモルタルの梁に、クラシカルなブリキのバケツが吊されていた。その側面には、マジック書きのやたら汚い字で『ヒョウキンザンゲシツ』とある。メッセージの意味が詩乃には理解できないが、バケツの内包物は先ほど彼女が味わう羽目になったものだ。
「水でよかったじゃん」
濡れそぼったまま硬直する詩乃に、相棒たちが傍らで爆笑する。上着からシャツからずぶ濡れにさせられた詩乃は「クリーニング代と迷惑料を外交交渉のテーブルに上乗せする」と凄むと、ブラが透けるのも厭わず上着を脱ぎ捨て、目標制圧の手順もあらかた無視して、三〇二号室前へとずかずか歩いて行ってしまった。こうなっては相棒たちもお手上げだ。
三〇二号室。この廃マンションで唯一、管理サーバーのライフログにここ一週間以内の生活実態が記録されていた部屋だ。〇三からのリアルタイム走査も空しく、ミラーシェード越しの熱画像は明るい色をなさない。ただ、この距離からだと、ちょうどリビングあたりに、何か人型の影と思しき輪郭が確認できる。死体か、でなければマネキンか何かか。
〈外交官達〉の任務に死人は珍しい。大がかりな戦闘状況に陥った経験も希であれば、地域住民が状況の巻き添えになった記憶もあまりない。最後に残るのは、大抵は大した研究価値もない奴らの死体か残留物だけ。交渉が成立したケースもない。少なくとも日本国内においては、奴ら〈来訪者達〉に会話が通じた前例はないし、そもそも奴らのどの種も根本的に会話が通じそうにない見てくれをしていたからだ。この件においては、同様の問題を抱えているであろう先進国が日本側とまともに情報共有しようとしないため、隊長である拝藤や更に上層部の悩みの種となっているのが実情だった。
胃に緊張がくすぶり始める。短く息を吐いてそれを押し込めると、詩乃は小さな部下と相棒たちに指示した。
「ゼロツー、ゼロフォー。僕の合図三秒後に窓から突入し背後から標的を制圧。ゼロスリーは突入確認後に入り口ドア除去。市川と西馬は僕の後衛。――――行け!」
きっかり三秒後。ドア越しにガラスの破砕音を確認すると、詩乃たちはくだんの三〇二号室に突入した――――。




