アンフェア Unfair
ぼくの村には猪俣さんが沢山いる。学校では、クラスに十人、学年に二十九人、村全体だと、この三倍かしら。名字の由来に、歴史的地域的な背景を、つい考えられずにはいられない。もしかしたら、全国の猪俣さんの八割くらいは、この村の猪俣さんなんじゃないかな、と思ってしまう。
それだから、姓だけではどの猪俣さんかわからない。みんなファーストネームで呼び合った。あえて姓で呼ぶのならふとっちょの猪俣、のっぽの猪俣、眼鏡の猪俣、勉強ができる猪俣、猪俣に振られた猪俣、とかそんな形容を伴って識別するのが通例になっている。そのなかに、美人の猪俣って呼ばれる子がいる。それは大層な美人だ。女の子の猪俣さんはほかにもいるけれど、美人は彼女だけだから、これでとおる寸法だ。
さて、これまでは前置き。その美人の猪俣さんはピンチだった。チャンスではない、ピンチだ。危機的、の意である。というのも、彼女は瞳を閉じて、白い手で細い顎を支えたままのポーズのまま動かないのだ。かれこれ五分くらいは石像になっていた。まちがいない。ぼくは五分まえから彼女を観察しているのだから、まちがいない。そう、彼女は居眠りしてる。問題なのは、いまは授業中だということ。そして、教壇に立つのが、厳しさで名を馳せた、鬼の猪俣だということ。幸い、まだ見つかってないが、見つかれば大目玉である。どのくらいの直径の眼球かはさておき、大目玉だ。
ぼくはクラスのアイドル・美人の猪俣さんを救うことを決意する。鬼の猪俣に発見されるまえに、彼女を起こすのだ。さわやかな春風のように、そっと彼女を覚醒させよう。ぼくならできる、がんばれ、普通の猪俣、と自分を励ました。どうでもよいが、ぼくも猪俣姓だ。
ぼくはすこしだけ身体を傾けて、隣席の美人の猪俣さんに小声で囁いた。彼女に変化は見られない。目をつぶったままだ。肩を揺さぶってみようか、と考えるが、それは目立つ。消しゴムを投げつけるのは、いたずらのようで気が引ける。
とそのとき、鬼の猪俣がぎろりとこちらを向いた。目が合った。一瞬、息がつまる。冷や汗だらりとナイアガラ。脂汗びっしりロース肉。走馬燈が駆けめぐり、時を遡るように記憶が展開されていく、ということはなかった。
「おい、猪俣」鬼の猪俣は怒鳴った。
ぼくはもうだめだと思った。
引きつるような短い悲鳴を、ぼくは耳にした。しかし、悲鳴は野太かった。
悲鳴をあげたのは、大食漢の猪俣と、0.15トンの猪俣と、野球をするならキャッチャの猪俣だった。ようするに、重量級の猪俣らが反応した。
「そうか、お前ら寝てたのか」鬼の猪俣はにやりと笑った。ああ、なるほど、とぼくは思った。どうやら、鬼の猪俣は彼らを指名して怒鳴ったのではないようだ。猪俣と呼べば、多数いる猪俣のだれかが、やましさから自己申告するだろう、という算段である。あてずっぽうだ。
よかった、反応しなくて。ぼくは胸を撫で下ろす。
ほっとして横を見れば、そこには美人の猪俣さん。
彼女は、
まだ、
夢のなかだった。