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2話:気持ち悪い

 おくはらを見た瞬間、背筋に嫌な汗が流れ落ちていったのがはっきりとわかった。

 動機が不安定で、呼吸もままならない。周囲がスローモーションにさえ見えて、色と言う色が抜け落ちていく。


 そこは灰色の世界のようだった。



 ――――――っぱい! 先輩!



 俺とおくはら以外、ただただ灰色の世界。

 椅子も机も、黒板も。すべてが色褪(いろあ)せていくと同時に、その輪郭すらも消えていく。

 自分が今、どこに座っているのかすらもわからない。

 いや、俺は本当に座っているのだろうか?

 もしかしたら、横になっているんじゃないか?


 上下左右の感覚さえも失われて行く。

 やがて俺の視界に残ったものは、色褪せないままそこに()る、おくはらの姿。

 

 おくはらは口を開く。

 ゆっくりと、しかし確実に。

 俺に向かって、あの言葉を、再び―――――、




「ぼーっとしてんじゃねえええええ!!」

「ぶふぉっ!?」


 突如として俺に襲い掛かったのは、後頭部への痛みだった。

 先ほどまでの灰色の世界は消えてなくなって、代わりに茶色い世界と俺の足だけが、視界一杯に広がっている。

 下を向いて床を見ているのだと気づくのに、数秒とかからなかった。

 ついでに、俺の後頭部を叩いてくださりやがった犯人が誰かも理解した。

 俺の後ろにいたのは一人だけだ。


「何しやがるっ!」

「へ?」


 俺は背後にいた犯人(みつがらす)へと手を伸ばして――――、


 むにゅり。


 瞬間、俺の掌にマシュマロが収まった。


「うん?」

「なっ………………!」


 俺の手に収まったそれは、表面はどこか硬く、しかしその中は非常に柔らかかった。


 むにゅり。


 三碓は顔を伏せて、肩を震わせながら、ゆっくりと口を開く。


「………………先輩?」

「おう」

「なにか、言うことは?」

「えーっと、そうだな…………」


 これはそう、あれだ。


「汗で濡れてて気持ち悪い」

「死ね!!!!!!!!!」


 今度は頬をグーで殴られて、俺は床に倒れ伏すこととなった。







◆ ◇ ◆





 土下座とは日本古来より伝わる謝罪の一つで、今では泥臭いものだとか、むしろやってはいけないものだとか、マイナスなイメージを持たれつつあるものだ。

 例えば上司が部下にやらせればそれはパワハラだし、先輩が後輩にやらせれば、女子からは冷やかな目で見られるだろう。

 あるいは自分から進んで土下座を受け入れたのであれば、それはもしかしたら格好いいものに映るかもしれない。

 とはいえ、だ。


 半沢●樹もやらせていたけれど、あれは物語の演出であって、あんなものを実際にやらせていたら、名誉棄損で訴えられてもおかしくはないだろう。


 つまり、何が言いたいかと言うと、


「触ってしまって申し訳ございませんでした」


 3対1で女性優位なこの状況。とりあえず謝っとけの精神で、俺はその場で土下座を決め込んだ。


「………先輩、私は胸を触ったことを怒ってるんじゃないんすよ」


 足しか見えないけれど、俺を見下ろしているであろう三碓が言う。


「確かに、触られて恥ずかしかったっす。『なにしてくれんだこんにゃろー!』って思いもしたっすよ?」

「怒ってんじゃん」

「いいから聞け」

「ハイ」


 はあ、とため息が聞こえて、三碓が続ける。


「でも、でもっす。女の子のおっぱいさわっといて、『汗臭い』はダメっすよ! ラッキースケベイベントには定番の、『わあ、ごめん! わざとじゃないんだ』くらいいわなきゃ、好感度は上がらないんす! エロゲーマー失格っす!」

「土下座、もうやめていいよな」


 俺はその場で立ちあがって、膝についた埃を払った。

 そうだよな、こいつを普通の女子と思ってはいけない。

 変態レズ。下ネタ好きのエロゲーマー。女子高生の皮を被った中年男。

 言葉で言い表すなら、こんなところか。


 そう考えると、あの胸っておっさんの胸、つまりは贅肉だよな。気持ち悪いもん触ったわ。


「…………今、失礼なこと考えてないっすか?」

「いや? ただ、気持ち悪いなって思っただけだ」

「失礼! それ! 超失礼!!!」


 三碓が腕を振り回して攻撃を仕掛けようとしてきたので、俺はその頭を押さえて近づかせないようにしてやった。


「まあ、なんというか……。事故なのはなんとなくわかりましたけれど、女性の胸を許可なく触るのは、犯罪ですよ?」


 一条先生が困ったような、呆れたような、微妙な表情で言った。


「それは、まあ……申し訳ないと思いますけど」


 少しだけ気まずくなって、話題を変えようと、俺はおくはらを一瞥して、


「ところで、なんでおくはら……さんがここに?」

「露骨に話題を逸らしましたね」

「いいじゃないですか。女子3人に男一人の状況、居づらさを分かってほしいです」

「女『子』扱いは、ちょっとイラっとしますね」


 一条先生は頬を引くつかせながら、笑顔のまま俺を睨んでくる。器用な人だな。


「女の人はとりあえず若いって言っとけばいいって、どっかの雑誌に書いてあったんですけど?」

「大人に見られない年頃の女性もいるんです―――、まあ、それは置いとくとして」


 わざとらしく「こほん」と咳を立てて、一条先生は続ける。


おくはらさんは、プロの作家さんなんです」

「…………え?」

「『大館(おおたち)雄二(ゆうじ)』と言う名前で、活動されている小説家さんなんですよ」


 俺は一条先生とおくはらを交互に見て、


「………え?」


 もう一度。

 それを聞いた三碓は、俺への突っかかりをやめて、おくはらを見やる。


「え? 『大館雄二』って、あの?」

「三碓さんが考えている『大館雄二』で間違いないと思いますよ」

「知ってるのか?」

「知ってるも何も、超有名作家さんっすよ! 突如として表れたライトノベル作家の新星! エロシーンからシリアスまでなんでもござれ。独特な言い回しや、教科書ともいえるような文体から繰り出される、数々の名言! 心躍らされた読者は数知れないっす! …………あ、ちなみに私もファンっす」


 三碓は鼻息を荒くして、おくはらへと近づくと、


「よかったらここにサインくださいっす!」


 とか言いながら、ワイシャツをたくし上げて、おくはらの前で広げた。

 健康的な白い腹が見えるけど、ありがたくもなんともないのだから不思議である。


「流石に、シャツにはできないわ………ところで、貴女は?」


 おくはらは不思議そうに三碓を見ると、ハスキーな声で問いかける。


「あ、申し遅れたっす! 私は一年E組の三碓奈緒っていうっす! 呼びにくかったら奈緒ちゃんでいいっすよ!」

「そう。私は九ノ瀬君と同じ、2年D組のおくはら涼香よ。九ノ瀬君とは仲がいいのね?」

「先輩とは男女と年の差と形容詞し難いナニカを超えた、ガラスのユウジョウの糸で結ばれてるっすね!」

「ガラスだと、すぐに壊れてしまわないかしら?」

「じゃあ、鉄っす!」

「………なるほど?」


 おくはらは不思議そうに三碓を見て、諦めたようにそう言った。


「おくが……んん! おくはらさんが作家さんなのは分かりましたけど、プロの作家サマに教えてもらうのはちょっと気が引けますよ、先生。ほら、ギャラ的な意味で」


 ちょっと……、いや、かなり苦手なおくはらに教えてもらうのは、些か………、かなり抵抗がある。

 ここはやんわりとお断りさせていただきたい所存。


「そ、それなら大丈夫よ、九ノ瀬君」


 三碓を躱して、食い気味に言い放つおくはら


「教えるのに、お金なんてとらないわ」

「あっそう……」


 そう言う問題じゃないんだよなぁ……。

 ―――ああ、ダメだ。こいつと話しているだけで、貧血になりそうだ。


「九ノ瀬君。文芸部の存続のためです。ここは一肌脱いでいただけませんか?」


 一条先生はいつになく真面目に、真っすぐに俺を見つめてきた。

 すっごい断りにくいんだけど………。


「………わかりましたよ。やればいいんでしょう、やれば」

「わぁ、それでこそ男の子です! 私は引き受けてくれると信じていましたよ!」


 取ってつけたようなキラキラとした瞳で見つめてくる一条先生。

 白々しかった。

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