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エネルギヤ  作者: 四月
7/9

平成35年 ダニーカリフォルニア

 「誕生日おめでとう」

ワインの入ったグラスを傾けながら「またひとつおばさんになったね」と言うと、佐藤が「やだあ」と笑った。

「調子に乗らないでよね、4月生まれだろうが早生まれだろうがもうアラサーなんだからね」

「でも佐藤が私より10か月もおばさんなのは事実だから」

「たった10か月でしょ!」

そう言って笑う佐藤の睫毛は綺麗にあがっていた。ワイングラスを持つ指先には嫌味にならない程度のネイルがあしらわれている。淡い色のブラウスも、羽織っているカーディガンも、耳元に光る小さなピアスも、地味に見えて実はそれなりの値段がするはずだ。一見すると控えめだけれど細やかすぎるほど細やかで隙のない身だしなみ。年を重ねるたびに佐藤はそういうことがうまくなってきていた。そういう佐藤を人は綺麗だと思うのかもしれないけれど、私の目には佐藤の努力が痛々しく映った。激務に追われているはずなのにお洒落に手を抜かない佐藤が、『佐藤』でいようと無理をしているように見えて、会うたびに会ったことがないはずのあの人の姿が重なって見えた。

「佐藤、綺麗になったね」

思わず口から零れ出る。もともと幼い顔立ちだったしこんな大人っぽくなると思わなかった、と付け足すと佐藤が優雅に微笑む。

「若いときは可愛い系だってよく言われたけど、わたしほんとは美形らしいよ。年々綺麗になってきてるし、若い時より30ぐらいの方が綺麗だねって言われる予定」

「…どこからその自信出てくるのよ」

苦笑いすると佐藤は真顔でワインを飲んだ。

「だって岸田さんがそう言ってたから」


佐藤は昨日で27歳になった。佐藤が26歳になるとき岸田さんは40歳、何が起きてもそれまでには絶対結婚しようね、と約束していた年齢を、いつの間に超えていた。

 いつだったか、佐藤は「26歳までは待つんだ」と言った。約束の年だから、それまでは待つの。26歳になったら諦める。そう言う佐藤をまわりの人たちは半ば呆れながら見守っていた。どうせそのうちきちんと思い出にすることができる日が来る、そうみんな言ったけれど、佐藤の中で岸田さんはとうとう思い出にはならなかった。忘れることがないのだから思い出すこともない、佐藤にとって岸田さんはもう何年も『現在進行形』だった。何度か別の恋人を作りながらそれでも足しげく東京に通っていた。けれど1年前の誕生日、26歳になった佐藤はついに岸田さんとのこれからのについて話すことをやめた。以来佐藤の口から語られる岸田さんは「思い出の中の人」で、あのときああだった、あんなことを話した、という話題が出てくることはあっても、この先また再会できたら、という話になることはなくなった。

ああまた、それでも佐藤はついこの間のことのように6年前に岸田さんに言われた言葉を語るんだな、と思って勝手に切なくなっていると、佐藤は鞄から煙草を取り出した。ボルドーの煙草ケースは大学時代に使っていた安物とは違うブランドものだ。今の恋人にもらったもののはずだった。それでも中から出てくるのはショートホープだった。

 「…いつも、こんなことをしたらあの人に叱られるかもしれない、と思うと道を間違わずに済むの。生きることに手を抜かずに済むの。正しく生きるって約束したからね」

佐藤が唐突に、独り言のように呟いた。岸田さんの話だと理解するまでに少しだけ時間がかかった。6年前の佐藤が六年前の岸田さんに抱いていた思い出ではなく、27歳になった佐藤の気持ちを聞くのは初めてのことだったからだ。黙って聞いているとそれを話の催促だと受け取ったらしく、佐藤は一呼吸おいてから煙を吐いた。岸田さんの見よう見まねで煙草をふかしていた頃の白い煙ではない、しっかりと肺まで吸い込んだ透明な煙。


 「わたし、ずっと岸田さんとの未来のために生きてきたの。そばにいたときも、いなくなってからもずっと。でもそれを失って、ここまでは待つって決めていた期限も切れて、わたしはこれからなんのために生きていくんだろう、って思ったのよ。去年の誕生日ね。

で、いろいろ考えたときに、わたし岸田さんが悲しむようなこともがっかりさせるようなこともしたくないなって思ったの。会えなくても、もしわたしが死んだことを知ったら悲しむかもしれない、じゃあ死にたくない、もしわたしがなにか間違いを起こしたことを知ったらがっかりするかもしれない、じゃあ正しく生きたい、そう思うし、もうそう思うことぐらいしかできないし。でもね、昔なにかの本で読んだんだけど、人ってひとりどうしても悲しませたくない人が必要で、それさえあれば人生に手を抜かないで生きていけるんだって。わたしにとってそれが岸田さんなんだよ。」


 「わたしは今も岸田さんに生かされているよ」

佐藤が笑う。

けれど私は知っていた。26歳の誕生日を迎えてからも、佐藤は2度東京に出向いている。「今会えなくても、生きていればいつかどこかで出会えると思う」と、灰を落としながら悟ったような言い方をする佐藤が、本当は今でも岸田さんを見つけることを諦めていないことも知っていた。佐藤は「もう会えない岸田さん」のために正しく生きようとしているわけではない。「いつか再び会える岸田さん」に、あなたのおかげでここまで生きてこられたと報告するために生きているのだ。

 佐藤は今でも岸田さんとの未来のために生きていた。

 私は佐藤に生きていてほしかった。


 佐藤が「そんなに深刻な顔しないでよ」と灰皿に煙草を押し付ける。その笑顔を見て、本当に綺麗になった、と思った。佐藤は必死に『佐藤』の仮面をかぶりながら、お洒落で武装してまわりが望む佐藤像を演じながら、今でもその仮面を外せる唯一の相手が帰ってくるのを待っている。その人が「ここまでよく頑張ったね」と頭を撫でてくれるのを待っている。

この子がすべてを知ってしまったら、どうなるのだろう。

「佐藤は、今も崖の上にいる?」

 もう何年も、聞きたくて、答えが怖くて聞けなかった質問が、自然と口をついて出た。

 佐藤ははっと目を見開いて、それから「よくそんな話覚えてるね」と笑いを噛み殺した。そして2本目の煙草に火をつける。

「しばらくは落ちそうにないよ、岸田さんが危ないよって腕を掴んでいてくれてるから」


 私は今も、佐藤に本当のことを伝えるべきか隠し続けるべきか、答えを出せずにいる。

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