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エネルギヤ  作者: 四月
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平成30年2月 再び、東京

 音楽プレーヤーでくるりの「東京」をかけた。去年の夏、岸田さんに会いに東京まで言った佐藤が別のバンドの「東京」を聴かせたとき、「おれは東京と言えばこっち」と岸田さんが教えてくれた曲だと佐藤が言っていた。佐藤と岸田さんの思い出はたくさんの曲で彩られていた。私はあまり音楽に詳しい方ではないけれど、行きの飛行機で佐藤が教えてくれた曲をひとつひとつ必死になって思い出しながら聴いた。そして会ったこともない岸田さんのことを想った。私が知っている岸田さんは岸田さんのことを好きで好きで仕方がない佐藤の口から聞いた話で構成されているので、なんだか私にとってもすごく大切な人であるような錯覚に陥っていた。そうして、この曲は佐藤を岸田さんにとってどんな曲だったんだろう、と想像を巡らせた。時折自分の想像の中のふたりの幸せそうな様子に勝手に私まで幸せになった。

二度目の東京。今回は1人で。しかも、佐藤に黙って。


 江ノ島からの帰り、「確認したいことがあります」と岸田さんのお母さんに連絡を取った。岸田さんのお母さんにとって私は以前佐藤についてきたおまけでしかなかったはずなので返事が返ってくるかどうかは賭けだった。けれど私はその賭けに勝った。待ち合わせは以前利用した喫茶店。一度しか会ったことのない佐藤のおまけに、岸田さんのお母さんはすぐに気が付いて駆け寄ってきてくれた。久々に会う岸田さんのお母さんは以前に増して不健康そうに見えた。この様子を佐藤が見たら心配でどうにかなってしまうんじゃないかと思うほどだった。人を心配し感情移入しすぎて自分の体調を崩すような、そういうところが、佐藤にはあった。そんな佐藤が一瞬乗り移りでもしたのか思わず「大丈夫ですか」と聞いてしまった。大丈夫ってなんだ、なにがだ、失礼すぎるでしょ、と自分で自分に突っ込みをいれそうになったけれど、岸田さんのお母さんは「大丈夫」と微笑んでくれた。

 「確認したいことがあるんです」

 席に着くなり前置きも早々にそう言った。瞬きと、少しの沈黙。私はそれを、話の続きを待たれているんだと解釈した。なんて切り出そう。しばらく思考を巡らせたけれど口から出たのは結局ストレートな言葉だった。

「岸田さんはいなくなる前に佐藤のことを言い残していったんじゃないですか?」

もしそうなら、どうしてそれを佐藤に教えてあげないんですか。それを知ったら佐藤が喜ぶことなんてわかりきっているのに。


 最初に違和感を覚えたのはいつだっただろう。佐藤が最初に岸田さんのお母さんと連絡を取った時、「母さんも岸田さんと連絡取れてないみたいな感じだったなあ」と言っていたのを聞いたのが最初だったかもしれない。自分もどこにいるかを知らないのに、それを佐藤に教えてあげることができないのに、どうしてわざわざ飛行機代を出してまで直接会いたがるんだろう。そう思った。

 大輝さんだってそうだ。なんの疑いも持たず、わざわざ佐藤に会いに来た。会ったって事態は何も進展しないのに。「ずっと会ってみたかった」とまで言っていた。

 岸田さんのお母さんも、大輝さんも、佐藤が岸田さんの行方を訪ねてきたことになんの違和感も持っていなかった。むしろ歓迎していた。普通、自分の息子や兄の恋人を名乗る13も年下の女子大生から連絡が来たら不審に思わないだろうか。けれどふたりともそんな素振りはなかった。私も佐藤もはじめはそれを岸田さんが家で佐藤の話をしていたからだろうと思った。けれど思い出したのだ。岸田さんのお母さんがこう言ったことを。「やることなすこと急な子だと思ってたけど、まさか、こんなに若い、こんなに可愛らしいお嬢さんとお付き合いしてるなんて」。大輝さんも、岸田さんが佐藤と付き合っていることを「知らないうちに」と言った。岸田さんは多分、13歳年下の恋人の存在を、家族には知らせていなかった。

 この人たちは、最初から佐藤が岸田さんを訪ねてくるであろうことを知っていたんじゃないか。

 違和感を思い返し、並べ、私の中で出したひとつの仮説がそれだった。岸田さんは佐藤のことを家では話していなかった、けれど恐らくいなくなる直前になって佐藤のことを言い残していったのだろう。だから、佐藤の存在は「まさか」であって、同時に不審に思わず受け入れられるものでもあった。けれどもしそうならそうであると岸田さんのお母さんか大輝さんの口から語られたはずだ。どうしてそうはならなかったのだろう。どうしてふたりとも、孝平はあなたのことを言い残していったと、佐藤に伝えなかったのだろう。私はその違和感の正体が知りたかった。


 岸田さんのお母さんは目を細めて「そういう話なんじゃないかと思ってました」と呟いた。その表情が笑顔だと気づくまで時間がかかった。なんて寂しい笑顔なんだろうと思った。そして、その表情のまま鞄から白い封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。

 封筒には「岸田孝平」と書かれていた。いつだったか、佐藤が「岸田さんの字が好きなの」と、佐藤の弟の勉強を岸田さんが見てくれた時のノートを見せてきたのを思い出した。頭のよさそうな綺麗な字だった。

 私が封筒から手紙のようなものを取り出し、嫌な予感を察するのと、岸田さんのお母さんが口を開くのとはほぼ同時だった。

「遺書です」

 喉の奥で、ひゅっと音が鳴った。


 まだ自分の中で岸田さんのことが好きなのかどうかわかってなかったときにね、2人で海を見に行ったんだよね。夜ご飯を食べた後に車で銭函まで行って、防波堤の上で岸田さんはわたしにキスしようとして、わたしは顔そむけて「やだ!」とか言って、「そっけないよなあ」って笑われたりして。それで、一緒に歌を歌ながら歩いてたら、急に「この人もうすぐ横浜に行っちゃうんだ」って実感がわいてきて、岸田さんが目を離したすきに砂浜まで駆け下りたの。靴もストッキングも脱いで海に入って、岸田さんが歩いていってる方向と真逆の方にどんどん進んで、…そのうち岸田さんはわたしがいないことに気が付いて電話をかけてきたんだけど、その頃にはもう見えないくらい遠くまで進んでてね、海に入ってるって言ったら受話器の向こうで岸田さんが焦るのが分かって、頼むから戻ってきてくれ、せめて進まないで止まってくれって言われたけど無視して、何度も電話を切って、それでも何度もかかってきて。途中で急に水の温度が下がって、「あ、潮の流れが変わった、流されるかもしれない」って思ったけどもうどうでもよかった。岸田さんがわたしのことを見つけたのはぐれてから30分後くらいだったかな…岸田さんは「お願いだから一緒に帰ろう」って、でもわたしは海から出ないで、膝まで浸かったまま、泣きながら「なんで横浜なんか行くのよ」って叫んだの。ドラマみたいでしょ。

 岸田さんは少し迷ってから、スーツ姿のまま海に入ってきてくれたよ。わたしの手を無理やり引っ張って、わたしは触らないでって大声挙げたけど放してくれなくて、結局わたしのことかつぎあげて車に押し込んで。仕事用のスーツも靴も海水まみれのまま、運転席で、真剣な顔で「どうやったらお前のこと横浜まで連れていけるかな」って、言ったの。

 あの頃、この人が手の届かないところに行くんだってだけで、どうしていいかわからなかった。大雨の中岸田さんの車から飛び降りて走って駅まで行こうとしたこともあるよ、「死んでやる」って、そのときもすぐ見つけて迎えに来てくれたな、…今でも思うの。わたし、一緒に横浜に行けばよかったって。こんなことになるなら、岸田さんが行くところ、ついていけばよかったよ。どこまでも。


 店内の音楽がやけに遠くに聞こえた。頭の中で佐藤がずっと喋っていた。その声だけがいやにはっきりしていた。

 佐藤、佐藤、何度も口に出してしまいそうになった。佐藤、ねえ佐藤、どうしよう。こんなことが知りたかったわけじゃないよ。

「読んでください」

「…読めません、」

「代わりに読んであげてください。あの子に読ませてあげられる日は多分来ないから」

あの子、というのは佐藤のことだろう。岸田さんのお母さんの目は真っ赤に充血していた。手紙を開く指の震えが止まらない。なにも知りたくない、と思った。けれどすべて知りたかった。

 「ごめんなさい」で始まるその手紙の1枚目には、仕事がうまくいかずどうしていいかわからなくなったこと、このまま一生病気が治らないような気がして絶望したこと、もう生きていきたいと思えないこと、みんなには迷惑をかけて申し訳なく思っていることが、丁寧な字で書かれていた。2枚目に書かれていたのは財産分与の話や葬式の話、会社への連絡事項についてなど事務的なことだった。会ったこともないのに、岸田さんらしい、と思った。そして3枚目は、「お願いがあります」という言葉で書き始められていた。

 

最後にお願いがあります。佐藤花という人が僕の行方を尋ねてくると思いますが、彼女には僕が死んだことは伝えないでください。たとえ何年経っても必ず隠し通してください。


その2行の下には何人かの人の名前と連絡先、そして「以上の人たちにも同じことを頼んでおいてください」という言葉。

「そこに書いてある通り、全員に連絡しました。会社の人には佐藤花という人が訪ねてきたら会社を辞めたと伝えるようにお願いして、…連絡先のリストの中には、孝平自身何年も連絡を取っていないような高校時代の同級生なんかもいるの。きっと、万が一辿り着くかもしれない可能性を全部考えて全部つぶそうとしたんだと思うの」

 孝平は、愛する人の記憶の中でだけ生きていくことにしたのよ。

 手紙の文字はところどころ滲んでいた。それでも目の前の岸田さんのお母さんは涙をこらえていた。1年前、佐藤とこの人がはじめて会って話しているのを横で見ていたことを思い出した。ああ、この人は、二度と会えない息子が人生で最後に愛した女の子に一目会いたかったのだろう。だから飛行機代まで出して佐藤を呼んだのだ。あの時岸田さんのお母さんは「孝平を好きになってくれてありがとう」と言った。その言葉の本当の意味がわかって目頭が痛くなった。

 岸田さんは、もういない。

「…佐藤に、本当のことを、」

 声が震えた。頭が痛かった。岸田さんのことを話す、佐藤の顔を思い出した。佐藤は今もいつか岸田さんに会えると思っている。それだけを希望に生きている。どうにかしなければ、と思った。このままでは佐藤はもう存在しない岸田さんの亡霊を探して縛られるづけることになる。どうにかしないと、佐藤、ねえ、このままじゃおかしくなっちゃうよ。

「本当のことを伝えないと、佐藤は死ぬまで岸田さんを探し続けます。このままでは佐藤は一生前に進めません」

 呼吸が荒くなるのを抑えきれなかった。息を整えるように胸に手を当てながら言うと、岸田さんのお母さんは目を伏せた。

「本当のことを知ったあの子が孝平と同じ道を辿らない保証は?」

 喉の奥からなにかがこみあげてくる気がした。


 ふと私は、佐藤が「私は崖の上にいるの」と話していたことを思い出した。いつも崖の上から下を見下ろしていて、一歩前に進む勇気はないけれど、誰かに背中を軽く押されれば簡単に落ちてしまう。佐藤はそう言った。

このままでは佐藤は一生前に進めない。けれど、崖の先に立っている佐藤が、前に進んでしまったらどうなるのだろうか。その先に道はあるのだろうか。そう思った瞬間、唐突に、私は岸田さんの「お願い」の真の意図に気が付いた。

岸田さんは佐藤の記憶の中で生き続けるためにあんなことを頼んだわけではない。佐藤を生かすためにそうしたのだ。岸田さんは佐藤が崖に立っていることを知っていた。自分の死が佐藤の背中を押すことになることもわかっていた。佐藤が崖から落ちずにいるのは自分との未来のためだということも、逆に言うとそれさえあれば佐藤は生き続けることができることも。わかっていて、岸田さんはきっと、佐藤に生きていてほしかった。自分が死んだあとではもう佐藤が生きていようと死んでいようと確かめるすべすらないのに、それでも崖の下に連れて行きたくはなかった。どうにか佐藤に生きながらえてほしかった。自ら死を選んでしまうほどつらいさなかで、もう生きていくことすらできない状況で、それでも、どうやったら佐藤を死なせずに済むか考えた。

 佐藤が生きていてくれること。それが岸田さんの人生最後の願いだった。

「本当のことを伝えるかどうかは、あなたにお任せします」

その声は、乾いていた。

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