平成29年9月、平成30年1月 江ノ島エスカー
ずっと会ってみたかった、と大輝さんは佐藤に握手を求めてきた。佐藤が戸惑いながら応じる。大輝さんの右手を両手で包みながら「体格は全然違うのに顔の中身が全く一緒ですね」と佐藤が言った。いやそれ結構失礼なんじゃ、と横でハラハラしたけれど、大輝さんは「兄貴は上に伸びておれは横に伸びたんです」と笑ってくれた。
岸田さんの1つ下の弟である大輝さんから、8月、佐藤のもとに連絡がきた。母から話を聞いて会いたいと思っている、来月出張で札幌に行く予定なのでそのときにどうか、という内容だった。会ったところで大輝さんも岸田さんの行方を知っているわけではないことはわかりきっていたが「会ってみたい」と佐藤は了承した。予想通り大輝さんも「兄貴がどこに行ったかは知らない」と言うだけでなにも手掛かりを与えてはくれなかったけれど、弟の口から語られる岸田さんの話を聞いて佐藤は楽しそうにしていた。弟の自分が塾に通ってまで行きたかった私立中学を1年先に軽いノリで受験した兄があっさり合格して悔しかったこと、1年後に入学してみると兄が学校の人気者になっていてもっと悔しかったこと、中学3年の夏に兄が煙草で補導されざまあみろと思ったこと、結局勉強の成績も所属していたハンドボール部での成績もトップクラスだったためお咎めなしで高校に進学しまた悔しかったこと、そのまま都内有数の名門大学に進学した兄を、いつか追い抜かしてやりたいと思っていたのに、今度は「北海道に行くわ」と大学を辞めいなくなってしまい、ハナから競う相手だと思われていなかったのだと感じて寂しくなったこと、話しながら大輝さんは「兄貴のこと、大嫌いでした」と笑った。「でも30歳を過ぎてからやっと兄貴のすごさみたいなものがわかって、やっと『一番尊敬している人は兄です』って公言できるまでになったのに、…またどっかいっちゃって。困ったもんです、ほんとに」そう言う大輝さんの目は少し潤んでいるように見えた。
「でも知らないうちに札幌でこんな若くて可愛い彼女作ってたなんて、やっぱりむかつくなあ」
泣きそうなのを誤魔化すように大輝さんは言った。佐藤の目も潤んでいた。その帰り道、佐藤は地下鉄の中で「わたし、12歳上の人にお義姉さんなんて呼ばれるところだったんだなあ」と愉快そうに言った。それから、あの人と結婚できるならそんなこと気にならないけど、と続けられて、返す言葉を失ってしまった。
「江ノ島に行こうと思うの」
忘年会中に、佐藤は突然そう言った。職場も駄目、親も駄目、兄弟も駄目となり、毎日フェイスブックの更新がないかを確認するぐらいしか出来ることがなくなっていた頃だった。
「なんでまた、急に」
「一昨年の夏に岸田さんに会いに東京に行ったとき、あの人最終日だけ仕事の休みを取れなくてね。わたしひとりで観光することになって、どうしようか悩んでたら、江ノ島に行ってみたらって言われたの。それで、ふたりでホテルで行き方を調べて、岸田さんのパソコンでグーグルアースを開いてはしゃいで、…結局台風のせいで行けなかったけど」
岸田さんは江ノ島に思い入れがあるみたいだったしもしかしたら、というのが佐藤の主張だった。正直望みは薄いと思ったけれど、佐藤にしてみれば藁にもすがる思いなのだろう。旅行もかねて一緒に、と誘ってきた佐藤の顔を見てそう思った。佐藤だって可能性が低いのはわかっている。でもなにかしていないと押しつぶされそうなのだ。いつも一緒に行こうと言うのはわたしの方で、佐藤から誘われるのは初めてだった。よっぽどギリギリなんだろうと思った。
江ノ島駅から江ノ島に向かう県道305号線を歩きながら、佐藤は岸田さんとグーグルアースを見ながら聴いたという曲を口ずさんでいた。ASIAN KUNG-FU GENERATIONというバンドの曲。江ノ島にある長い屋外エスカレーターの名前がタイトルになっていた。「どうしてもそれに乗りたいんだよね」と言う佐藤は、島に着いてからしばらく続く仲見世商店街を、ほとんど見ずに歩き進んでいった。
「全部まわってたら時間ないから帰りに見ようね」
佐藤がぐんぐん進みながらそう言った。逸る足を押さえつけられない様子だった。
真っ赤な鳥居をくぐった先にある続く例のエスカレーターは、3本から成り立っていた。全部乗るには360円がかかる。ただのエスカレーターに360円、と私は軽くショックを受けたが、佐藤は特に疑問も持たない様子で財布を取り出した。そして小さく「ついに来た」と呟いた。ずっと乗ってみたかったんだ。佐藤がにこにこと笑う。その高まる期待をよそに。1本目はわりとあっさりと終点に着いた。江ノ島神社がすぐ近くに見えた。私が立ち止まってそれを見ると、先を歩いていた佐藤が振り返った。
「下りのエスカレーターがないから、帰りは階段で下るよ。神社はその時に見ようよ」
ああ、つまり「早く行こうよ」ってことね。人に合わせるということが得意なはずの佐藤にその余裕が見えなかった。2本目の終点にある神社も、展望台すらも、佐藤は振り返らなかった。そして足早にエスカレーターに乗っては件の曲のサビ部分を歌った。3本目に乗る頃は私も歌えるようになっていた。
「一昨年の夏、旅行の最終日、台風だったって言ったじゃん」
3本目のエスカレーターに乗っている途中、佐藤は歌うのをやめてぽつりと言った。
「どうせ岸田さんは仕事だし、どうしようかなあ、なんかお洒落なカフェでも行ってみようかなあなんて思ってたら、岸田さんがそんなところはいつでも行けるんだからって江ノ島を進めてきたの。学生時代よく行ったんだって言ってね。自分は仕事で行けないくせになんか楽しそうに行き方を調べてくれてさ、わたしも楽しくなってきちゃって、…でも、台風で」
「あの時佐藤大変そうだったよね、飛行機飛ばないかもとか言って」
「そうそう。もともと18時過ぎの飛行機に乗って帰ってくるつもりだったんだけど、いつどの便が飛ぶかわからないから朝から羽田に缶詰でね」
「次の日から夏休みの集中講義入ってたしね」
「よく覚えてるね」
笑ったような声が聞こえるけれど、一段上に乗っている佐藤の表情は見えない。
「朝さ、岸田さんと一緒にホテルを出て、わたしのキャリーバッグを引いてくれてる後姿を見ながら駅まで歩いたの。改札で泣きながら『すごく寂しいけど、それはそうとしてこの不測の事態でしっかりしてないといけないから、なんとか頑張って札幌に帰る』って言ったら、『お前なんか強くなったな』って笑われて、マメにどうなったか連絡くれって言って、人がごった返してる改札でキスしてくれて、お別れした」
それが最後になるなんて思ってなかった。
佐藤が静かに言った。佐藤の表情は結局見えなかった。
3本目の終点、つまりエスカレーターの行きつく先は、サムエル・コッキング苑という庭園だった。明治時代のイギリス人貿易商だかに由来しているらしい。ここに辿り着くことが目的ではなくエスカレーターに乗ること自体を目的としていた佐藤は、少し興味のなさそうな顔をしたけれど、結局「ここまで来たんだしもったいないよね」と入場料の200円を払った。
庭園を歩きながら佐藤は「本州の人はいいね」と言った。
「北海道じゃ、1月にこういう景色は楽しめないよね」
庭園はたくさんの植物に囲まれていた。手袋をしていない手を時々擦り合わせながら、佐藤はスマートフォンを取り出して花や草木の写真を撮っていた。もう粘着力が弱くなってほとんど使い物になっていなかった手帳型のケースから、何度かスマートフォンが滑り落ちそうになっていた。岸田さんが買ってくれたものだと知っていた。
「岸田さんもこの景色を見たのかな」
かがんで写真を撮りながら佐藤が言う。「岸田さんが、わたしと同じ年くらいのときに見た景色を、わたしは今見てるのかな」。ああ佐藤は岸田さんに会いにここに来たのか、と思った。そういえば佐藤は時々そこにこだわるような発言をした。一昨年の夏の旅行で岸田さんが大学時代を過ごした自由が丘に連れて行ってもらった時も、岸田さんが大学時代にお金を貯めて買ったミュージックマンスティングレイというベースを譲り受けたときも、「わたしと同じ年の岸田さんが行った街に行けるなんて」「わたしと同じ年の岸田さんが使っていたベースをもらえるなんて」と感慨深そうにしていた。きっとずっと、この子の中で、まだ社会に出たことのない自分が仕事で苦しむ岸田さんを理解してあげきれないことが悔しかったんだろう、と思うと頭が痛くなった。埋められない13年の溝を、埋めてあげたくて仕方なかった。そんなことできないとわかっていても。
エスカレーターで来た道を階段で下りながら、佐藤は行きで見向きもしなかった神社にはしゃぎ、仲見世商店街で大量のお土産を購入していた。「ただの旅行」として江ノ島を楽しもうとしているのがわかった。けれど佐藤の耳に光るオープンハートのピアスも、岸田さんにもらったものだった。佐藤は今、岸田さんと旅行しているんだろう、と思った。
島からの帰り、江ノ電に揺られながら、私はひとつの決断をしかねていた。
岸田さんのお母さんに会い、大輝さんに会ったことで、自分の中で生まれ始めていた疑問を解決するか否か、私はここ数か月悩んでいた。思い過ごしかもしれないという思いと確かめるべきなのではないかという思いのはざまで揺れていた。
「佐藤」
「ん?」
撮った写真を整理している佐藤が、スマートフォンから顔を上げないまま返事をする。
「私でよかったの?」
最初に電話をしたのも、今までこんなに首を突っ込んできたのも、私でよかったのだろうか。私が今考えていることは佐藤の邪魔になっていないだろうか。「私でよかったの?」の一言にその意味を込めたことに、佐藤はすぐに気がついたようだった。佐藤がやっと顔を上げる。
「初めて岸田さんの写真見せたときさ」
「うん」
「他の友達は、思ってたより格好いいねとか優しそうだねとか、なんとか必死で岸田さんのこと褒めようとしてくれて。…でも、そうしなかったでしょ」
「私?」
「佐藤可愛い、って言ってくれたんだよ」
他のどの人と写ってる写真より可愛いねって言ってくれたでしょ。嬉しかったよ。一緒に来てくれてありがとう。そう言って佐藤は照れくさそうに視線を画面に戻した。
どんな小さな疑問でも解決しなければならない。出来ることは、全てしたい。佐藤のためなら。そう思った。固まりかけていた決意が確固たるものに変わる。
佐藤に気が付かれないように、そっとフェイスブックを開いた。