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エネルギヤ  作者: 四月
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平成29年7月 つよがり

 一度目の東京訪問からほどなくして本格的な就職活動が始まった。佐藤はそれを理由に何度も東京に足を運んでいたが「就活のために行ってるんだから忙しくて岸田さんを探してる暇なんてないよ」と笑っていた。けれど、説明会や面接の開始時間に関係なく、いつも朝早くの便で東京に行き、夜遅くの便で札幌に帰ってきていることに私は気が付いていた。なるべく東京で自由に動ける時間を作っているんだろうということはわかっていた。しかし最後まで佐藤からいい知らせを聞くことはなかった。


「わたし、絶対東京に就職するんだって思ってたの。仕事に慣れて余裕ができたら籍を入れて一緒に暮らすんだって。岸田さんがいつも、曖昧な未来は信じられなくて当然だからちゃんと計画建てた予定にしようって、それなら信じられるでしょって言ってくれてね、だから2人で、一緒に暮らした時に1か月にかかるお金の計算までして、すごく緻密に計画を立ててたの。結婚したらわたしは会社を辞めてフリーランスのライターになって、子供は作らずに猫を飼って、贅沢はせずに、でもたまに旅行に行って、いくら貯金していくら奨学金の返済にあてていくら残るからたまには美味しいものを食べに行こうね、なんて、あの人、わたしがもともとあんまり未来に希望を持ってないことをわかってたからね。わたしがきちんと信じられるように、具体的な話をたくさんしてくれた。いつでも書けるようになんて言って婚姻届けも持ち歩いてたのよ、しかも、何回嫌われて破られても諦めないからとか言って何枚も。笑えるでしょ?…わたし、人生で初めて自分の未来についてちゃんと考えたんだよ。高校の時いじめに遭って不登校だった話はしたっけ?ああ、してなかったか、そうなの、それでね、もう未来なんていらないやと思って、30歳ぐらいまでには死のうかなって、今こうやって大学デビューして友達が出来てからもずっとそう思っててね、駄目だね人間って一度絶望を知ったら上手に希望を持てなくなるのよ。でもね、岸田さんと出会って、はじめて自分の未来を夢見たの、この人との未来がほしいって思ったの。わたしにとってそれはすごいことだったの、それで、わたし約束通りちゃんと東京で就職活動して、内定ももらって、2人で描いてた通りの未来に辿り着いたのに、岸田さんだけいないの。あの人がいないのに東京に行ってなにか意味があるの?」


東京の会社に内定をもらった時、内定祝いのために開いた飲み会で、酔っぱらった佐藤はそう言った。結局佐藤は東京での内定を蹴り札幌の小さな出版社に就職を決めた。その報告を受けてはじめて私は佐藤が札幌でも就職活動をしていたことを知った。「いつでも転職すればいいから、岸田さんが見つかってから向こうに行けばいいだけだから」と言う佐藤はまるで誰かに言い訳しているようだった。いなくなった恋人との約束を守り切れず、保険を掛けるように地元での就職も視野に入れていた佐藤を、責められる人なんて誰もいないのに、と思った。


 佐藤が就職を決めたほぼ1週間後、私は地元の薬局に医療事務として内定をもらった。就職活動でおほとんどお金を使い果たしたという佐藤はお祝いにカラオケを奢ってくれた。ご飯を奢るお金はないからまた今度!と笑う。せっかくそんなにお金をかけて東京に通ったのに、と一瞬思ったけれど、そんなこと言える訳がなかった。

佐藤は1曲歌い終え、「これ岸田さんのテーマソングなんだよね」と笑い、マイクのスイッチを切ってから、おもむろに「岸田さんのお母さんに連絡がついた」と言った。佐藤がフェイスブックのメッセンジャーを使い接触を試みてから既に半年以上が経過していた。

「えっ、ほんとに?なんて?」

「一度直接お話ししたいですって。なんかお母さんも岸田さんと連絡取れてないみたいな感じだったなあ。30過ぎた自分の息子の彼女を名乗る女子大生って我ながら怪しいよなーと思ってたけど、案外すんなり話が進んでるよ。もしかしたら岸田さん家でわたしの話してたのかも」

「結婚するつもりだったんだししてたのかもね。で、行くの?」

「行く行く。飛行機代出してくれるって言われちゃって。一応遠慮する素振りは見せたけど、正直ありがたい話だし甘えることにしたよ」

「いつ?」

「26日」

 佐藤がパラパラとスケジュール帳をめくる。指をさした二26日の前日、25日の欄に小さく、「岸田さんの誕生日」と書かれているのが目に入った。その横にハートマーク。目の奥が熱くなる。反射的に「バイトの休み取れるかなあ」と呟いた。

「待って、…一緒に来てくれるつもりなの?」

「うん」

「いいよ大丈夫だよ」

 佐藤が困ったように眉を歪ませる。大丈夫じゃないでしょ、いや大丈夫だって、いいから着いてくよ、飛行機代どうするのよ、佐藤と違って稼いでるから気にしないでよ、そういう問題じゃないよ、じゃあどういう問題よ、と、押し問答を繰り返して、26日、結局私は飛行機で佐藤の隣に座っていた。空港で佐藤はずっと申し訳なさそうな顔をしていたけれど、「いなくなった恋人の誕生日にハートのシールを貼るような健気な女の子をひとりにはできません」と言い切ると「頑固者め」と苦笑いをした。佐藤の目は赤かった。


 待ち合わせ場所に現れた岸田さんのお母さんは痩せていた。やつれていると言ってもいい。短く整えられた髪は黒々としていて、一見若い印象を与えそうなものなのに、私の祖母ほどの年齢にさえ見えた。頭を下げると岸田さんのお母さんはゆったりとした口調で佐藤の下の名前を呼んだ。初対面の人間を呼んだというより数年ぶりに会った孫を呼ぶような口調だった。佐藤は「初めまして、」と笑顔を浮かべた後、何か言葉を飲み込むように少しの間をおいてから「孝平さんのお母さん」と呼んだ。なにを飲み込んだのかは私にもわかった。近い未来呼ぶことになると思っていた呼び名、しかしもうかなわないかもしれない呼び名を飲み込んだのだ。佐藤の声は震えていた。

 「せっかく来ていただいたけれど、孝平がどこに行ったのかは私も知らないの」

 喫茶店での岸田さんのお母さんの第一声はそれだった。ある程度予想通りだったので佐藤は「やっぱりそうなんですね」と相槌を打った。岸田さんのお母さんの話によると、岸田さんはある日突然仕事を辞め、「疲れたのでしばらく人生を休む」という言葉を残して実家を出て行ったという。「昔からそういう奔放なところがあって」という言葉に佐藤は「東京から札幌に出て行ったときもそうだったって聞きました。突然大学を辞めて、おれ北海道で暮らすことにする!って実家を飛び出したって」と笑った。そうそうあのときも突然でね、と岸田さんのお母さんが笑う。岸田さんのことを知っている人と岸田さんの話をできることが嬉しくて仕方ない、という佐藤の気持ちが表情から滲み出ていた。だからこそ恐らく岸田さんのお母さんに会っても岸田さんの行方に関する情報は得られないだろうと予想していながらも佐藤は会いに来たのだろう。そして、それは岸田さんのお母さんも同じようだった。いなくなってしまった息子の話が聞きたくて、飛行機代を出してまで佐藤を呼んだのだ。

 「やることなすこと急な子だと思ってたけど、まさか、こんなに若い、こんなに可愛らしいお嬢さんとお付き合いしてるなんて」

 岸田さんのお母さんはそう言って微笑んでから、「孝平のどこを好きになってくれたの?」と尋ねた。佐藤は少し困ったように眉を下げた。そして苦笑いして「正直に言ってもいいですか?わたし、最初岸田さんのこと好きじゃなかったんです」と答えた。


「話が面白いし、頭の回転が速い人だなあと思ってたし、仕事をしてる姿を見て尊敬もしてたけど、それだけでした。好きだって言われたときは、…ごめんなさい、気持ち悪いとすら思いました。孝平さんが気持ち悪いとかじゃなくて、34だし、21だし。

 でも、躁鬱病だっていう話を聞いて、わたしのことが必要だって言われて、…わたし、必要とか言われるのに弱くて、自己評価が低いので、だから嬉しくて、そばにいてあげようって思って。それが最初のきっかけでした。

 それからいろんな話をしました。恋人っぽいこともしたけど、最初の頃は、ひたすらずっと喋ってました。向こうの仕事終わりにあてもなくドライブしながら、お互いの好きな音楽を掛け合って、出会うまでの時間を埋めるみたいにたくさん話をして。孝平さんはわたしのこと、特にまわりに隠してきたような暗い部分や捻くれた考え方を、2くらいしか話さなくても10理解してくれて、…自分のことを全部教えきっちゃう頃には好きになってました。

 あとから、どうしてわたしだったの?って聞いたら、はじめてご飯に行ってはじめて客と店員としてじゃなくて個人対個人で話をしたときに『この子だ』って思ったって言われて。わたしが誰かに必要とされることに依存していることを見抜いて、でもそれを口に出すことを諦めていたことすら見抜いて、おれと同じだ、この子しかいないって。おれは本当の自分を出せる人なんてひとりもいなくて、でもほしくて、ずっと探してたんだって。ずっとずーっと探してたから、見つけたときすぐにピンときたって。その話を聞いて、『この人はどうして誰も気づかなかったわたしの陰を見抜いたんだろう?』って、抱えてきた疑問が解けたんです。この人も一緒だったんだな、ああこの人は『岸田さん』であることをもう長いことずっと演じてきたんだなって。それを指摘したら『そのことに気づいてくれた人はじめてだ』って。それで、はじめてなんにも演じてない自分のこと好きになってほしいと思ったって、言ってくれました」

 だからわたしだけは本当の孝平さんを好きでいたかったんです。だって、あの人も、本当のわたしに気づいて好きになってくれたから。


 佐藤の話を、岸田さんのお母さんは微笑みながら聞いていた。佐藤が話の中で自然に岸田さんを下の名前で呼んでいることに私は驚いた。ああきっと普段はそう呼んでいたのだろう、私の知らない佐藤と岸田さんだ、と思った。話し終えた佐藤の目からはぼろぼろと涙がこぼれていた。

「あ、ごめんなさい、あの、」

佐藤が涙を拭う。慌てて手で目を擦るものだからアイラインが滲んでしまった。ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返す佐藤を岸田さんのお母さんは涙目で見つめる。

「あの、目が…似てて、笑ったときの目が…ごめんなさい…」

 語尾はほとんど消えていた。嗚咽をこらえるように口を押さえる。はじめて目の前で佐藤が泣いているところを見たと思った。けれど、きっと、見ていなかっただけなのだ。見せていなかっただけできっといつもこんなふうに泣いていた。佐藤の肩が震える。堪え切れていない嗚咽が呻き声のようになって口から漏れていた。鼻を啜る音も聞こえる。お世辞にも綺麗と言える泣き方ではなかった。けれど今までの人生で見たどんな泣き顔より胸が締め付けられた。

 向かいから白い腕がぬっと伸びてきて、佐藤の手を握った。視線を移すと岸田さんのお母さんが目を真っ赤にしていた。そして「ありがとう」と呟いた。

「孝平を好きになってくれてありがとう」

 佐藤は何度も首を横に振った。幸平さんが、すごく大事にしてくれたからなんです、わたしはなにも、佐藤が途切れ途切れに答える。岸田さんのお母さんは、佐藤の言葉ひとつひとつに、ゆっくりと頷いた。そしてまた「ありがとう」と言って佐藤の手を握る両手に力を込めた。

佐藤はしゃくりあげながら「ありがとうございます、」と答えた後、大きく間を開けて、「お義母さん」と呟いた。一度は飲み込んだ言葉。岸田さんのお母さんの目からも涙が落ちた。


 帰りの飛行機の中、眠る佐藤の横で、佐藤が言う「岸田さんテーマソング」の歌詞を調べた。佐藤が岸田さんに対して思っていることそのものだと言うその曲は「あるがままで、つよがりも捨てて」という言葉で終わる。佐藤はきっと自分を押し殺して生きている岸田さんを支えてあげたかったのだろう。けれど私はどうしてもその曲の歌詞が、佐藤が岸田さんに対して思っていることというよりは、佐藤が岸田さん言われてきたことようの思えた。

 「わたしね、ずっと崖の上にいるの」

 いつだったか、佐藤が言った。岸田さんがいなくなった直後だったと思う。崖?と聞き返すと、佐藤は「そう、崖」と言って笑った。

「崖の上のギリギリ際のところで下を見下ろしてるの。自分で一歩踏み出す勇気はないんだけど、誰かに背中を押されたら簡単に落ちちゃう。そんなふうにずっと生きてきた。でもある日隣を見たら、同じように崖の下を見下ろしてる人がいてね。ふたりとも『危ないから安全なところに行こうよ』なんて言うことはなかったけど、それからずっと、ふたりで手を繋いでそこに立ってたの。たまに下も見たけど、それよりも、横を見ることの方が多くなったな。いっつも横顔ばっかり見てた、…安全なところになんか行けなくてもいいから、ずっと弱いままでもいいから、このままこの場所で一緒に年を取ろうと思ったのよ。そしておじいちゃんとおばあちゃんになってから、せーので飛び降りようって。人生で初めてだった。自分の未来を夢見るなんて」

 一度絶望を知ったら上手に希望を持てなくなるのよ。これも佐藤の言葉だ。佐藤が過去にどんな絶望を経験したのかは私にはわからないが、それが、佐藤の未来に対する希望を根こそぎ奪ってしまうほどのものだったことはわかる。そして、佐藤にとって岸田さんが唯一未来を与えてくれる存在だったことも、わかる。

 世間の目に映る佐藤は崖なんて無縁のところに生きていた。私ですら佐藤が自ら話してくれるまで佐藤のことを明るく社交的な普通の女の子だと思っていた。それだけ自分を取り繕ってきたのだろう、誰も佐藤の足元なんて見なかった。それに気づいてくれたたった1人が岸田さんだったのだろう。そして、なにをしても、暗かった大学以前の自分を塗り替えたくさんの友人に囲まれるようになってからさえも得ることのできなかった未来への希望を、たった1人岸田さんだけが与えてくれた。そう思うととてつもない焦燥感に襲われた。早く探し出さないと、このままでは佐藤が崖に落ちてしまう。岸田さんは佐藤の人生に欠けてはならない。

 隣で佐藤は寝息を立てていた。つらいことなどなにもないような寝顔だった。

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