異世界は儒教に支配されている(笑)
「なろう」で最も書かれ、読まれ、支持されているのは、異世界もののジャンルであることは論をまたないだろう。
多くの異世界ものの名作が生まれ、書籍化され、コミックス化やアニメ化もされている。
しかし、筆者は思うのである。
「異世界ものって、あまりにもジャパナイスされてない?」と……
もともと、異世界ものはゲームのRPGから派生した物と言われている。ウィザードリィやウルティマといった洋ゲー、ドラクエ、FFといったJRPG作品からインスパイアされており、そうした作品はステータスや戦闘システムもそうしたゲームから借用したシステムを土台として創作されていることがほとんどである。
まあ、それはいい。
多くの読者からすれば、馴染みのある世界観や戦闘システムを基本にしているため、お気楽に作品世界に没入できるというメリットがあるからだ(もちろんこうした、安易な本歌取りに否定的な意見があるのは承知している)。
だが、そうしたゲームに依拠する部分ではなく、筆者が引っかかっているのが、世界観もまた安易に流用している点である。
例えば、よくある「異世界学園もの」。
中世ヨーロッパを文化基準としていることが多い「異世界もの」だが、なぜか教育システムは現代日本のそれをなぞっていることが、ほぼほぼ100%となっている。
まあ、これは読者の共通認識が日本の教育システムであることを考えると、致し方ない面がある。
真面目に中世ヨーロッパの教育システムをなぞろうものなら、日本人にとっては共感もへったくれもない未知のものであるから。
日本が開国して後、導入された教育システムは、ぶっちゃけ「ある程度均一化した労働力を社会に提供する」ことを目的とされている。そのため、同一年代を集め、クラスを作り、一人の教師が数多くの生徒を学ばせるという形態を生み出したのだ。
それまでの教育とは、西洋でも個別、または少人数で行われることが前提であった。ゆえに、クラス? 何それ、美味しいの? てなんもんである。
まあ、それはいい。
問題なのは、そうした教育システム云々ではない。
それよりも深刻なのが、儒教の影響下にあることである。
読者の多くは「儒教みたいな古臭い思想の影響ってあるの?」と思われるかもしれない。
だが、儒教の呪縛は日本人にとっては、免れないほどの強い影響力で私達の思考を縛っている。
簡単に言えば儒教の教えの根幹である「長幼の序」が、作者の思考をぎりぎりと縛り上げているのだ。
例を出そう。親しくなった年長の冒険者を「先輩」と称したり、年下のそれを「後輩」と見做す作品は、数限りない。こうした考えは、儒教の影響下にある日本だけでなく、韓半島の2国や中共、台湾、ベトナムに共通する、理念である。
「先輩」「後輩」といった言葉に対する欧米諸国の訳語はない。そのため「senpai」「kouhai」といったそのまま音表記するしかないそうだ。
西洋、いや一神教を文化の根底としている世界では、人は創造主のもとではみな平等であるという考えを持つ。そのため、年齢の多寡は人間関係において重きを置かない。いや、正しくは、年齢の多寡は人間の上下関係に重要視されていないのである。
つまり、異世界に儒教的な価値観を持ち込むことについて、転生者や移転者である主人公(または同様のポジションにある者)以外が儒教的な判断基準を持つこと自体がおかしいということになる。
日本人は宗教に対して距離を置きたがる傾向が強い。宗教的な価値観について、うさんくさいと思う人も多い。実際に宗教的な考えに対して、否定的な立場を取る主人公が多いし、そのため宗教を信じているものに対して狂信的に描く作品も多い。
そうした反面、宗教の一派とされる儒教については、盲目的なまでにその教えを守ろうとする一面を持っている。
せっかく異世界を舞台としているのだから、宗教の扱いに関しては、もう少し多義的な視点を持つことも必要ではないかと考える次第である。