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放課後の学校は、下校時刻のピークをだいぶ過ぎて、静寂に沈みつつあった。
それでも下校のタイミングがずれた生徒達はまだ多く、静かな校舎を賑やかしながら、昇降口を目指して階段を下りていく。
その流れに逆らうように、坂上拓海はたった一人、階段を駆け上がっていた。
目指す場所は、四階の女子更衣室。
六時間目が終わった後のHRでも、話題になった場所だ。
普段なら足早で通り過ぎる場所であり、今回だって近づき過ぎるわけにはいかない。だが、行かないという選択肢は、拓海にとって最早なかった。
急ぎ足で階段を上がっていくと、踊り場の姿見には、微かな焦りを浮かべた少年の顔が映っている。自意識よりも雄弁に物語られた己の心に、危機感をじわりと煽られた。
――七瀬と教室で別れてから、十五分が経過していた。
裏門でしばらく待っていたが、七瀬は一向に現れなかった。忘れ物の回収に、これほど時間がかかるだろうか。校舎へ駆け戻った時には、もっと早く迎えに行けばよかったと、小さな自責の念とともに、嫌な予感が生まれていた。
――七瀬は先月の事件で、氷花に傷つけられている。
〝言霊〟を受けて苦しむ七瀬を、拓海も一度目の当たりにしていた。ただ、どうして七瀬が氷花の台詞にあれほどの錯乱を見せたのかは、〝言霊〟について三浦柊吾から説明を受けても現実感がぼやけていたが、とにかくあの事件を経た拓海は、一つ決めたことがある。
学校で、七瀬を一人にはしないことだ。
もう二度と、七瀬があんな風に傷ついてしまわないように。
「篠田さん……!」
いつしか祈るような気持ちで、拓海は四階を目指した。
今回の件は、女子生徒間の苛めだ。犯人は四階更衣室の利用者だと囁かれているので、おそらく違う更衣室に属しているはずの呉野氷花は無関係だ。分かっていても、その事実をこの目で確認するまでは、完全に安心すべきではないのだ。先月の事件の再現のように、いくつもの階段の踊り場を越えて姿見の前を横切った拓海は、三階へ到着したところで足を止めた。
そこには、僅かだが人だかりができていたのだ。階段前に集まった生徒達は同級生も下級生も関係なく、階段を困惑顔で見上げている。
「何だ……?」
拓海も周囲に倣って顔を上げて、三階と四階を繋ぐ空間、階段の踊り場あたりを見つめてみた。特に不審なものは見受けられず、窓からの斜光が手すりを茜色に眩く縁取り、いつもの放課後の風景を、姿見が映し取っているだけだ。
なのに、この異様な雰囲気は何だろう。誰かから事情を探ろうときょろきょろしていると、「あ、坂上!」と偶然にも人だかりの中から気心の知れたクラスメイトの男子がこちらに気づいて呼んでくれたので、拓海はすぐに近づいた。
「なあ、この人だかり、どうしたんだ?」
「それがさあ、なんか……通れないんだよ」
「通れない?」
意味が分からず復唱すると、男子生徒は歯切れ悪そうに続けた。
「ほら、見てみろよ。上の階に行こうとしたら、ぐにゃって、弾き返されるっていうか……〝見えない壁〟があるみたいなんだよ……」
「へっ……?」
やっぱり意味が分からない、と思いきや、四階に続く階段前に目を戻した拓海は、一目で意味を理解してしまった。三人の下級生の女子生徒たちが、おずおずと階段に近寄ったが、先頭を歩いていた少女が突然、仰け反るようにして転びかけたのだ。
まるで、〝見えない壁〟に、弾かれたかのように――はっとした拓海は「危ない!」と叫んで駆け出すと、転倒しかけた下級生の背中を、すんでのところで受け止めた。
「大丈夫?」
訊ねてみたが、大人しそうな少女はこくんと一つ頷くなり、そそくさと拓海から距離を取り、友人同士で団子になって固まった。顔を赤くして何やら小声で騒がれているので、拓海の行為が迷惑だったのかもしれない。やっぱり女子生徒は少し怖い。拓海はひっそりと申し訳なさを感じつつも、さっき下級生の身体を〝弾いた〟と思しき階段前を観察した。
「……」
ひょっとしたら、『鏡』の事件の時のような非日常が、再びこの東袴塚学園を蝕んでいるのかもしれない。だとしたら、脳裏に蘇る存在は一人だけだ。
漆黒の黒髪、切れ長の目――〝言霊〟を操る、異能の少女。
拓海がこの場所から一歩前へ踏み出せば、〝見えない壁〟は、拓海をも拒絶するだろうか。だが、たとえそうだとしても、立ち止まっているわけにはいかないのだ。呉野氷花がこの異質な状況を作ったかもしれない以上、何よりこの先に七瀬がいるかもしれない以上、引き下がるわけにはいかないのだ。覚悟を固めた拓海は、思い切って、まずは手の平を前方へ、さっき下級生が弾かれた辺りへ、差し伸べた。
すると――学ランに袖を通した腕は、何の抵抗もなく、持ち上がった。
「ん……?」
特に、違和感も感じない。拓海は手を床と水平に掲げたまま、一歩、二歩、三歩と進み、階段の一段目に足を乗せる。背後から、どよめきが起こった。
「普通、だよな……? 別に〝壁〟なんて、何もない……」
では、さっき目の当たりにした〝拒絶〟は何だったのだろう。とんとんと階段を上がり、踊り場の手前まで進んだ拓海は、「坂上、なんで通れたんだ?」というクラスメイトの当惑の声を受けて振り返り、「えっと」と戸惑いの声を返す。
だが、もう一分一秒が惜しかった。
「分かんないけど……ごめん! 俺、急いでるんだ!」
ここに集った生徒達は、興味本位で立ち寄った者だけでなく、四階に用事がある者もいるだろう。なぜ拓海だけは通れたのか、そもそも他の生徒達が通れない理由は何なのか。謎を解明すべきだろうが、拓海だけは〝通れる〟というこの幸運を、今は自分の為に使わせてほしかった。
「篠田さん、今行くから……!」
良心の痛みを振り切った拓海は、踊り場を越えて、異様な静けさが伝わってくる四階に向かって、階段を一段飛ばしで駆け上がった。
大仰な動きに揺さぶられてか、学ランのポケットで――しゃり、と。定期ケースに収めた『鏡』の欠片が、何故だか澄んだ音を響かせた気がしたが、きっと空耳に違いなかった。