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『呉野はヤバイ。何がヤバイって、あいつは正真正銘の阿呆だ』
四月の末の休日に、七瀬は三浦柊吾から、氷花という人間が一たび口を開くとどれだけ辛い目に遭わされるかを、滔々《とうとう》と語ってもらえたのだ。
ただし、柊吾の主張によると真の『ヤバさ』は、氷花に備わった〝言霊〟の異能とは別の所にあるという。
『あのー、三浦。〝言霊〟の異能だって十分ヤバイし、むしろそっちの方がヤバイんじゃ……』
拓海は控えめに意見していたが、柊吾は渋い顔つきを変えないまま、袴塚西中学の野球部で鍛えられたという逞しい腕を組み、持論を重々しく展開した。〝言霊〟の異能が『ヤバイ』のは大前提として、それとは別のベクトルで、氷花の言動も『ヤバイ』のだと。七瀬も完全に同意なので、思わず柊吾と固い握手を交わしたほどだ。
何せ氷花は、七瀬とのファーストコンタクトで『暇潰しの道具になれ』と豪語している。柊吾へ浴びせかけた暴言はさらに酷く、有名な海外文学から丸パクリしてきた犯罪理論を、さも自分のものであるかのように堂々と、恥ずかしげもなく語り散らしたらしいのだ。他にも数え出したらきりがないが、七瀬達のように氷花の〝言霊〟が巻き起こした事件の被害者である柊吾とともに『呉野氷花語録』を紐解けば、黒歴史の嵐だということがよく分かる。
そして、頭が痛いことに――そんな危険人物に、七瀬は目を付けられている。
――言霊。
それは、声の形で発した言葉には魂が宿り、現実世界に影響を及ぼすという古くから存在する考え方だ。ただし、女子中学生、呉野氷花に限っては、その言葉の意味は額面通りのものではない。
――氷花の言葉に宿る〝言霊〟は、現実世界を変えてしまう。
先月の春、氷花はターゲットを七瀬に定め、悪意に満ちた〝言霊〟を仕掛けてきた。その結果として、七瀬がかつて『所有』していた二枚の鏡のうち一枚は、〝言霊〟の霊威に耐え切れずに砕け散り、七瀬、拓海、そして異能の使い手である氷花自身をも加えた三名は、東袴塚学園とそっくり同じ姿をした『鏡』の世界に、意識が囚われてしまったのだ。
無事に生還を果たした七瀬は、後に神社を訪れて、割れた鏡の供養を依頼した。
その神社の名は、呉野神社。
呉野氷花の、実家であり――氷花の兄を名乗る和装姿の異邦人が、神職の務めに就いている。
――『七瀬さん。貴女は、危険です。狙われています』
仕草や振る舞いが誰より優美なその男は、七瀬の帰り際に、そう忠告した。その後氷花からの接触はなかったが、このまま何事もなく卒業を迎えられるとは元より思っていない。七瀬達に、覚悟はできていた。
だが、まさか――再会が、こんな形になろうとは。
「呉野さん……?」
思わず呼びかけた七瀬の声が、がらんと静まり返った女子更衣室に木霊する。
呼ばれた呉野氷花はよほど予想外だったのか硬直し、人里に降りてきた狸が人間に見つかった瞬間のような、怯えと驚きが入り混じった目をまん丸に見開いて、きっかり三秒、七瀬をじっと凝視した。全くもって美少女が台無しだ。
「はあぁ……っ? ちょっと、ちょっと、待ちなさいよっ? どうしてあんたがここにいるのよっ、篠田七瀬!」
「人のことをフルネームで呼びつけるの、やめてよね」
餌を待つ雛鳥のような姦しさに呆れた七瀬は、ふと違和感を持った。
目の前の氷花が、妙に七瀬を恐れている気がしたからだ。
最後に氷花と会話したのは、『鏡』の学校で別れた時だ。脱出の手段が限定された異常な世界で、七瀬は先に氷花を〝こちら〟の世界へ送り返した。この少女の兄とはその後に会ったが、本人とはあれから一度も顔を合わせていない。
怯えの理由は何だろう。確かに七瀬は、『鏡』からの脱出に手を貸してくれない氷花を焚きつける為に乱暴な手段に訴えたが、それが理由だとは考えにくい。首を傾げたが、もう一つ捨て置けない疑問が頭に浮かんだので、一先ずそちらの追及を優先した。
「呉野さん、何しに来たの? あんたのロッカーは、別の更衣室でしょ」
「……ふふ、気になるのね?」
氷花は水を得た魚のように気を取り直し、よくぞ聞いてくれたとばかりににやにやした。一日のうちで何度美少女を台無しにすれば気が済むのだろう。七瀬は呆れつつも、密かに身構えていた。
――氷花の言葉には、〝言霊〟が宿る。
たった一人で対峙していい相手ではないことくらい、七瀬にだって分かっている。心配する拓海の顔と、怒る柊吾の顔が頭に浮かんだ。だが、七瀬の退路は背後の窓と、氷花の傍の扉だけだ。四階の高さでは、窓からの脱出は不可能だ。
となると、不意を打って走り出し、機嫌よく何事かを喋ろうとしている氷花を渾身の力で弾き飛ばして、扉に向かうしかない――しかし、七瀬が今にも実行に移そうとしていた計画は、氷花の衝撃的な台詞によって、紙吹雪のように吹っ飛ばされた。
「この女子更衣室でしょ? 名札剝がしの苛めがあった場所。被害者は貴女のクラスの生徒らしいわね? でも名札くらいで済んだら可愛いものね? ロッカーが凹むくらいに蹴っ飛ばされるなんて、とっても惨めで恥ずかしいもの。それだけ野蛮な暴力に訴えなければ気が済まないほど、クラスから疎まれた嫌われ者って誰かしら?」
「! どうして呉野さんが、知って」
咄嗟に七瀬は噛みついたが、答えは訊くまでもなく明らかだ。何匹もの猫を幾重にも被っている呉野氷花が、東袴塚学園の女子コミュニティの一端を、掌握していないわけがない。氷花は嬲るような目で七瀬を見ると、にい、と赤い唇を吊り上げた。
「驚いたかしら? 私は何でも知っているのよ」
「ぜんっぜん。呉野さんが悪趣味でサイテーで、ストーカー気質で気持ち悪いってことくらい、もう十分知ってるから」
凄んだ七瀬が一歩大きく踏み出すと、氷花は我に返った様子で顔を青く引き攣らせて、「ち、近寄らないでよ野蛮人!」と裏返りかけの声で叫んだ。民家を荒らしていた狸が山へと逃げ帰るように、扉付近の壁まで勢いよく後ずさっている。
どこまでも美少女が台無しだが、何故ここまで怯えられるようになったのかは、やっぱり七瀬には謎だった。飴玉を呑んだ気分になっていると、その間に氷花は再び気力を持ち直してか、「ふん、精々粋がってなさいな!」などとのたまい、愉快気に嘲笑ってきた。気持ちの切り替えの早さだけは、敵ながらあっぱれかもしれない。
「貴女は知っているかしら? 被害者も貴女のクラスの生徒なら、加害者も貴女のクラスの生徒だって噂が流れてるのよ?」
「知るわけないでしょ。っていうか、だから何なの?」
纏いつくような言葉を平手で打ち返すようにあしらうと、氷花は不遜に嗤い始めた。
「さっきの質問に答えてあげるわ。篠田七瀬。私がどうしてここに来たか。それはね、知りたいからよ!」
「はあ?」
「私はとっても知りたいの。他人の所有物を痛めつけずにはいられないほどの怒りを持て余して、その投げつけ場所を探して彷徨う幽鬼みたいな狂人が、どんな顔をしているのかを。そんな醜いショーを親切にもタダで実況してくれるだなんて、とっても馬鹿馬鹿しくて素敵じゃない? 見てみたいのよ、動物みたいに理性を失くした野蛮な人間の憎しみが、音を立てて爆ぜるところを! ねえ、貴女もそう思わない?」
「……呉野さん。あんたってやっぱり、悪趣味で、サイテーで、ストーカー気質で気持ち悪い」
マッチを擦るように怒りの火が付き、七瀬は声を低くした。しかし、胸中に灯った青い炎が赤く勢いづくのを感じながら、氷花の言い当てた事実については、七瀬も否定できなかった。
――この女子更衣室で起きた事件が、七瀬達のクラスのHRを長引かせた。
気に入らない女子生徒の名札を、ロッカーから剥がして踏みつける。その行為自体は、七瀬が中学一年生の頃から噂にはなっていた。自分の周囲で被害に遭った人間がいなかっただけで、存在だけなら知っていた。
縁遠い噂話が一気に身近になったのは、今日の放課後。被害者の一人が、教師に匿名で相談したらしいのだ。名札が剥がされただけでなく、氷花が言うように『ロッカーが凹むくらいに蹴っ飛ばされた』件について、大人が知るところとなったのだ。
事が明るみに出て初めて、七瀬は各更衣室にあるロッカーのいくつかが、先輩の代から長年使われ続けている古い物だからという理由ではなく、苛めにより損傷していたのだと知った。その事実を知らない者は、男子生徒だけでなく女子生徒も多かった。
犯人は、まだ見つかっていない。教師からは名乗り出るよう促されたが、HR中には誰も手を挙げなかった。犯人は手口が巧妙なのか、その正体については噂話を一切残さず、目撃情報も皆無だった。
――ただし、他の目撃情報なら一件あった。
符号に気づいた七瀬は思わず「あっ!」と大きな声を上げて、氷花の腰辺りで豊かに揺れるストレートの黒髪を見つめた。
「呉野さん、ここでストーカーっぽい張り込みをするの、何日目?」
「え?」
「今回のこれ、初犯じゃないでしょ? 何日も通いでここに来てるんじゃないの? ――『女子更衣室に出る真っ黒い幽霊』! それ、あんたの事でしょ!」
「幽霊ですって?」
心底意外だったのか、ぽかんと氷花は目を瞬いた。悪辣さと間抜けさの両方が消え去った無垢な顔は、きちんと本来の美少女に見えた。やがて数秒の時間をかけて、その美少女の顔は般若の面のように歪んでいった。意味を理解したらしい。いい気味なので、七瀬は憤然と畳みかけた。
「何度もコソコソとここに来て、放課後の暗がりから更衣室をじっと覗いてる変態行為、しっかり目撃されてるどころか、都市伝説みたいになってるなんてダサ過ぎ。呉野さん、この学校の女の子達のこと、ちょっと軽く見すぎじゃない? 噂話の美味しいところだけをちゃっかり利用しようって魂胆なんだろうけど、自分だって皆の噂話どころか学校の怪談になっちゃってるじゃない。ねえ知ってる? あんたと目が合うと地獄に連れていかれるんだって。怖いからこっち見ないでくれる?」
「何ですって!」
氷花が目の色を変えて息巻いた。さすがに煽りすぎたと七瀬も気づいてひやりとした。かつて受けた〝言霊〟の古傷が身体の奥で疼いたが、過ぎ去った痛みの残滓よりも、眼前の同級生への怒りの方が段違いに上だった。
「私に大きな口を利けばどういう目に遭うか、まだ理解できてないみたいね!」
「無関係な呉野さんが、出しゃばるのが悪いんでしょ!」
「ふうん? じゃあ貴女は無関係じゃないのねっ?」
冴えた言葉が、弾丸のような速さで頬を掠めていった気がした。息を詰めた七瀬に対し、相手は僅かな隙を見逃さなかった。他者の『弱み』を炙り出し、瘡蓋が剥がれたばかりの柔らかな心に爪を立て、傷つけることに長けた氷花は、矢継ぎ早に次弾の悪意が装填された言葉の銃口を、七瀬にぴたりと向けてきた。
「そんなにムキになるなんて不自然よ! 名札が剥がされたロッカーって、まさか貴女のだったのかしら!」
「どこに目ぇつけてるわけっ? っていうか私のことは関係ないでしょ!」
「いいえ、そうはいかないわ! 面白くなってきたじゃない! 被害者じゃないなら加害者かしら? 嘘っぽい正義感のメッキなんて、ぺらぺらの名札と一緒に剥がれたのね! ――『篠田七瀬は大嘘つきだったのね!』」
「本気で言ってるの? そんな言葉に、私が怯えると思う?」
声を荒げず、瞳に怒りを込めて訴えたが、同時にぞわぞわと肌が粟立った。
――さっきの言葉は、〝言霊〟だった。
言葉の響き方が、普通の発声とはまるで違う。氷花が紡ぎ出す言葉に、悪意の御霊が宿っている。現実世界を改変し、人を傷つける害意が込められた言葉なのだ。出鱈目な方向に霊威を飛ばした〝言霊〟が高い殺傷能力を有していても、怯えだけはたとえ死んでも見せたくない。七瀬は仇敵を睨みつけた。
「――ふん、やっぱり気に入らないわ。あんたの目、大嫌いよ。弱い虫けらのくせに反抗的で生意気で、どこまでもいけ好かない女。……でも、それも今日までね! 今度こそ、ガラクタみたいに壊れなさいよ!」
氷花はすっかり七瀬への怯えを忘れたのか、嗜虐的な笑みを深め、一歩こちらへ近づいてきた。狭い女子更衣室へ、ひしひしと悪意が染み込んでくる。
「……!」
何故だか腕に鳥肌が立ち、肺の辺りを素手で弄られたような不快感が、ぎゅっと呼吸を苦しくした。初めて氷花に狙われた時も、こんな風に気分が急激に悪くなった。脳裏で危険信号が、ちかちかと赤く点滅する。
このままでは、まずいのだ。今すぐにでも、耳を塞いで逃げるべきだ。だが、退路は氷花の向こうなのだ。それに、ここで引き下がっては、七瀬の気が済まなかった。
さっきから、氷花の台詞は――どれもこれも、許せないものばかりだった。
「ふうん? まだ悪足掻きをやめないつもり? いいわ、望み通りじわじわ追い詰めてあげる! 『篠田七瀬は、苛めっ子――』」
「さっきから、頭悪そうで的外れな推理ばっかりで恥ずかしくないわけっ? ヤバイくらいのアホだとは聞いてたし、私だって『鏡』の事件の時からヤバイって分かってたけど、呉野さんがそこまでIQ低いあんぽんたんだなんて知らなかった!」
「あ、あんぽんたん!? あんたね、誰に向かって、そんな口を利いて……!」
「あんたに決まってんでしょ! この変態!」
腹の底から出した声で威嚇すると、声量に慄いてか、氷花がびくりと身体を仰け反らせた。余計な口を利かれる前に、七瀬は一切の恐れを金繰り捨てて、心の内側を真っ赤に燃え盛る怒りの炎だけで澄み渡らせると、声に一層の力を込めた。
「ここでずっと張り込みして、苛めの現場を見てどうする気だったの! 苛めの加害者と被害者の、どっちかを今度の〝標的〟にする気でしょ! そんなの絶対に許さない!」
「そうよ、それの何がいけないのっ? 『弱い』人間は『強い』人間に食い物にされて当然なのよ! それが社会の摂理じゃない!」
「今すぐ社会の補習授業を受けてきなよ! これ以上あんたの好きにはさせないんだから!」
「それだけ止めるってことは、やっぱり――ふふふ、あはははっ! 『苛められたのは、貴女の友達なのねっ?』」
「違う!」
咄嗟に強く否定したが、さっきよりも遙かに強く、これではまずいと直感した。相手だってたとえ学校の怪談にまでなり果てた変態であれ、女子生徒の一人なのだ。案の定、氷花の笑みの陰湿さが、凶悪に加速した。
「ふうん? やっぱりそうなのね? じゃあ貴女の友達の中に、皆から要らないって思われてる愚図が存在するわけね?」
――かっとなった。
「ふふ、探す手間が省けて助かったわ。痛んでるロッカーって多いんだもの。名札が剥がれたままのロッカーもあるし、どれを選べばいいか迷って――」
「いい加減にして!」
事件の渦中に引けを取らないほどの大声を張って、七瀬は氷花に詰め寄った。
「私の友達は、あんたなんかに食い物にされるために生きてるんじゃない!」
声量のパワーで圧倒されてか、氷花の顔に再び怯えが青く通ったが、相手ももう後には引けなくなっているのだろう。「大声出さないでよ、野蛮人!」とさっきから代り映えしない暴言で応じてきた。
「何よ、何よ、何よ――『生きる価値のない根暗なんて!』」
この時に放たれた台詞は、おそらくは氷花にとって、何気ない台詞だったのだろう。数多の悪意のこもった〝言霊〟同様、七瀬を傷つけようとした言葉の一つに過ぎなかったに違いない。
他者を馬鹿にしたその台詞が、またしても――七瀬だけでなく氷花の世界をも変えるとは、きっと、考えもしなかったに決まっている。
「――『一生ここで、うじうじ閉じこもっていればいいのよ!』」