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窓から入るぬるい風は、仄かに甘い黄昏の匂いを、無人の廊下へ運んでくる。七瀬が窓の向こうを見下ろすと、校舎と校門を繋いだ桜並木の新緑は、傾き始めた日の光で、燃える橙に照り輝いていた。
まるで、炎のように――『合わせ鏡』に閉じ込められた、寒の戻りの日のように。
風を孕んで膨らんだ紺色のプリーツスカートに手を添わせると、ごわついた制服の生地越しに、プラスチックの手触りが伝わった。ウサギの顔を象ったフォルムに、ゴマのように点々とついた瞳、口を表す丸い鏡。拓海が、初めて七瀬に贈ってくれたプレゼント。
他校の中学に通う友人、雨宮撫子にも選ぶのを手伝ってもらったというこの鏡は、七瀬の大切な宝物だ。
以前にはこれとは別に、二枚の鏡を持ち歩いていたのだが、今はどちらもこの世に存在しない。正確には、七瀬の大切な人から譲り受けた鏡の方――手放す前に割れてしまった鏡の方は、拓海が一欠片だけ『所有』している。七瀬は歩みを止めないまま、先月の事件へ思いを馳せた。
〝言霊〟の異能を操る少女によって――七瀬の世界が、変わった日のことを。
腰まで届く漆黒の髪、強烈な悪意を光らせた切れ長の目、形の良い唇からは、他者への蔑みと攻撃性に満ち溢れた言葉が紡がれるが、そのくせひどく小心者で、あらゆる意味で一度会えば忘れられない、怜悧な美貌の同級生。
そんな美少女が、頭髪を鳥の巣のように振り乱していた姿を思い出すと、既に解決済みの感傷なんて、一層ちっぽけなものに感じられた。七瀬は明るく前を向いた。
最初から、全てが丸く収まるとは考えていない。一ノ瀬葉月とは、先月までは互いの家に泊まり合うような仲だったが、現在は少しだけ、他人行儀な付き合いが続いている。七瀬は普段通りに振る舞っているが、葉月の方はまだ七瀬の行いを許せていないのかもしれない。
当たり前だ、と七瀬は拓海がくれた鏡に触れながら、思う。
――親友が恋敵で、すぐに気持ちの整理がつくわけがない。
だが、その上で七瀬はこうも思うのだ。七瀬が自分の気持ちを偽らずに、行動に遠慮をしないこともまた、当たり前のことなのだ、と。
――葉月と、屈託なく笑い合える友人同士に戻りたい。けれど割れてしまった鏡のように、元通りには決して戻らないものもあるだろう。それは『鏡』の事件が終わった時から、七瀬が受け入れていたことなのだ。すっかり曇りの晴れた気持ちで、七瀬は校舎四階の廊下の真ん中、女子更衣室の前に立った。
早く忘れ物を回収して、拓海といつも待ち合わせている裏門へ急がなくてはならない。磨りガラスの嵌まった引き戸へ、七瀬が手を伸ばした時だった。
がらり――と。戸が内側から急に開き、中から現れた顔ぶれが、七瀬を驚かせたのは。
相手もいささか驚いたようで、長い睫毛で縁取られた目を瞬いている。
「ミユキ、夏美? 帰ったんじゃなかったの?」
「……あはは、ななせかぁ。びっくりした。もー、驚かさないでよ」
「それはこっちの台詞。どうしたの、忘れ物?」
「ん、ちょっとね。ノート忘れちゃって」
代わる代わる答えたミユキと夏美は、本当に似たタイプ同士だと七瀬は思う。髪型の好みに始まり、持ち歩く小物のセンス、どういう喋り方や声のトーンで他者と渡り歩いていくかという細かな匙加減に至るまで、魂の本質が似ている気がする。学校にいれば多少は似た者同士で群れを作り上げていくものだが、ここまで自分と好き嫌いが一致する人間が傍にいるという感覚は、一体どのようなものだろう。
少なくとも七瀬にとっては、親友と呼べる存在と、自分の性格が似ている例が少ないのだ。左頬に泣き黒子のある、葉月とよく似たショートボブの友人の顔を思い浮かべた七瀬は、少しだけ幸せな気持ちに浸りながら、目の前の二人へもう一度手を振った。
「私も体操着を取りに来たんだ。それじゃ、また明日ね」
「うん、今度こそばいばい、ななせ!」
女子更衣室前でミユキと夏美を見送ると、階段の向こうへ消えた二人の足音は、存外に早いスピードで階下へ駆け下りていった。そうなると、廊下は急激に静かになった。
「……」
七瀬達のクラスはHRが長引いたので、その間に他のクラスの生徒達は下校を済ませたか、次のバスに向けてのんびり歩き出したところだろう。運動部に所属する生徒達も、とっくに着替えてそれぞれの部活動へ邁進している時間なのだ。
つまり――今、女子更衣室には誰もいない。ミユキと夏美が引き戸を開けたまま去ったことも、その事実を示している。
――『篠田さん。一人で平気?』
拓海の気遣いの声が、耳に蘇る。その声に応えた時と変わらない気負いのなさで、七瀬は廊下と女子更衣室を隔てるラインを踏み越えた。
怖がることなんて、何もないのだ。七瀬は、本心からそう思っている。
現に、三クラス分の女子生徒達で使っている更衣室はやはり無人で、七瀬の脅威になるような存在なんて、一つとして見受けられなかった。
各生徒ひとりずつに割り振られたロッカーは、スクールバッグを縦向きに入れたら他には何も入らなくなる中型サイズで、それを上下に二つ積んだセットが、縦長に広がる更衣室の壁に沿って、所狭しと並んでいる。正面の磨りガラスからは放課後の日差しが円やかに射し、青灰色のタイルにとろんとした光を落としていた。
制汗剤の甘い残り香が漂うだけの、何の変哲もない、女子更衣室の光景だ。
まさかここが、陰湿な苛めの舞台になっただなんて、思いもしない――なんて。本当に心から驚いている人間などいるのだろうか。
規則に従って引き戸を閉めると、七瀬は窓際の隅から三番目の上段、『篠田七瀬』と小さな厚紙の貼られたロッカー前に直行した。この東袴塚学園入学時に与えられた鍵でロッカーを開錠し、目的の体操着を回収してから、元通り施錠する。金属同士の触れ合う音が、無人の更衣室にエコーした。
「……」
再び閉ざされたロッカーの名札と向き合うと、四隅のぴんと張った白い名札は、多少の経年劣化を窺わせるものの、一年生の時からそこに在り続けているにしては綺麗なままだ。隣近所に位置する少女達のロッカーも、名札は程度の差こそあれ綺麗に見える。
だが、中には明らかに貼り替えたてと思しき綺麗すぎる名札や、そもそも名札すら貼られていない大きく凹んだロッカーまで存在し、見ないふりにも限度があった。七瀬は沸き上がってきた憤りを、唇と一緒に噛みしめた。
拓海の心配は、決して大げさなものではないのかもしれない。時間帯によっては人間がぱったりと居なくなるこの場所は、学校の悪意の吹き溜まりだ。
もう二週間もすれば衣替えの時期に差し掛かる更衣室は、窓を閉め切っている所為で蒸し暑く、悪意で淀んだ空気が滞留している気さえする。長居は無用とばかりに、七瀬が巻き髪を翻して歩き出した時だった。
がらり、と控えめに戸がスライドしたのは。
「……!」
反射的に、七瀬は身体を強張らせた。放課後の女子更衣室の片隅にたった一人で立つ七瀬へ、稲妻のように落ちてきた思いは二つあった。
そこにいる人物は、果たしてどちらなのだろう?
――この女子更衣室で起きた事件の、犯人だろうか?
――あるいは無関係の人間で、一人でここにいる七瀬を、犯人だと疑うだろうか?
果たして答えは、そのどちらでもなさそうだった。
そろりと足音を忍ばせて、それでいて嬉々とした様子で入ってきたのは――漆黒の長い髪に切れ長の目の持ち主で、まるで泥棒のような緊張感と、一目瞭然で野次馬と分かる好奇心の両方が、少しは隠せばいいのにと思わず注進したくなるほど、あからさまに顔に出ている、東袴塚学園の美少女――呉野氷花だったのだ。