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長いHRから解放されると、五月の学校は息を吹き返した。教室に押し込められたクラスメイト達は、死んだふりをしていたのではないかと思うほどの元気の良さで、次々と席を立っていく。どこか人工的で余所余所しい喧噪が満ちたちっぽけな水槽の内側で、その声は極めていつも通りに響き渡った。
「ななせー、ばいばい!」
ハスキーな呼び声を受けて、篠田七瀬は振り返る。ミユキと夏美の二人は短く折ったスカートの裾を翻して、教室を出ようとしているところだった。声音は明るく、さっきまで教室に垂らされた墨のような重さの揺蕩いを、引き摺った様子は微塵もない。それが普通なのかもしれない。七瀬も応えて、快活に笑って手を振った。
「うん、ばいばい!」
二人もひらりと手を振ると、楽しげにはしゃぎながら、教室を飛び出していった。「っていうか、ありえないよね、信じらんない!」と何事かを熱心に語り合っている。
大方、さっきのHRの話題だろう。黒板上の時計は、普段よりも十五分ほど遅い時刻を指している。バス通学組の生徒達は、ダイヤを一本ずらす羽目になったはずだ。嘆息した七瀬も、通学鞄を肩に提げたところで、いまだ席を立とうとしない友人の後ろ姿に気づいてしまい、心臓がとくんと、変な跳ね方をした。
少しの間立ち尽くしてから、七瀬は口角を上げて、笑顔を作る。そして、桜の季節より少しだけ伸びたショートボブの頭へ近づいていき、後ろから抱きついた。
「はーづき!」
「わっ……七瀬ちゃん。びっくりした」
一ノ瀬葉月は、飛び上がるほど驚いていた。目を白黒させて頬を染める姿は、やっぱり七瀬の大切な友達に似ている。ぎこちなく微笑んだ葉月は、少し居心地悪そうな伏し目がちになり、やがて目を逸らした。七瀬もぎこちなさを表に出さないよう努めながら、葉月の肩に巻き付けた腕を離した。
「どうしたの? 帰らないの?」
「えっと……バス、逃しちゃったから」
「あ、そうだよね……」
「千佳ちゃんや雪穂ちゃん達と、帰るから……気にしないでね。七瀬ちゃん。ありがとう」
気にしないで、ありがとう――か細い声だが、堅固な意思表示だ。これ以上の会話を、今の葉月は望んでいない。
「ううん、それじゃあね。葉月」
特に気にしていない風を装って、七瀬も笑みと踵を返す。傷つかなかったと言えば嘘になるが、空元気で笑ったわけでもないのだ。そこに自信を見出せるようなやり取りを、葉月とは既に交わせている。毅然と顔を上げた時、喧騒が幾分薄らいだ教室で、またしても七瀬を呼ぶ声がした。
「じゃあ、篠田さん。また後で」
「あっ。待って、坂上くん!」
声の主を呼び止めた七瀬と、呼び止められた学ラン姿の男子生徒を、まだ教室に居残っていた生徒達が見つめてきた。男子生徒の方は狼狽えていたが、七瀬は臆することなく相手だけを見つめると、さっと近寄って短く言った。
「ごめん、忘れ物しちゃった。更衣室に寄るから、先に行っててくれる?」
「う、うん。分かった」
そう言って――少し困ったような顔をした坂上拓海は、かくかくと硬い動きで頷いた。
七瀬と拓海が付き合い始めて、一ヶ月。挙動不審が板についているこの少年は、まだ七瀬の接近にも、クラスメイトから注がれる無遠慮な視線にも慣れていない。そんなところが可愛くもあるが、そろそろもう少し慣れてほしい。むくれて見せた七瀬は、結局笑った。今日も一緒に帰れるのだから、七瀬はそれで幸せだ。
けれど、七瀬とは対照的に、拓海の表情は曇っていた。
「あのさ、篠田さん。一人で平気?」
「え?」
「あ、いや、その、だからって付いて行けるわけでもないんだけど……」
はっと我に返った様子の拓海が、赤くも青くも見える顔で言い訳を始めたので、七瀬も遅れて合点がいった。
「そっか、女子更衣室だから? 大丈夫だよ、坂上くん。私は平気。怖くないよ」
「でも、HRで話題になったところだから、ちょっと気になって。他にも、いい噂を聞かないし」
「噂?」
「篠田さんも、聞いてない? 最近、妙な怪談が広まってるんだけど」
拓海は狐につままれたような顔で、言いにくそうに続けた。
「放課後に一人で更衣室を利用してると、真っ黒い幽霊が徘徊し始めて、目が合ったら地獄に連れていかれる、とか……」
「真っ黒い幽霊? ……何それ?」
「うん、何なんだろうな……今回のHRの件には関係ないと思うけど、話題になる時期が一致してるし、こういうのにあんまり興味がない男子の間にまで広まるのって相当だと思うから、微妙に気になるっていうか……」
「なあんだ。ただの怪談じゃない。脅かさないでよ」
七瀬は小さく笑った。そういえば、七瀬もそんな話をミユキか夏美のどちらかから聞いた覚えがある。不意に寂しい風が胸を抜けて、つい遠い目をしてしまった。
「そういう話、葉月なら大好きだろうな」
「あ……ごめん」
「どうして謝るの? 私は平気だってば。それより、だからって更衣室に入らないわけにはいかないでしょ? これからも卒業まで、ずーっと使う場所なんだから」
言い返すと、拓海はやっぱり赤くも青くも見える顔で、ぐっと黙った。その百面相を七瀬はくすりと笑ってから、「ありがと。後でね」と囁いた。空元気ではないと思っていたが、少しだけ空元気の部分もあったのかもしれない。そんな小さな寂しさも、たった今温められた。
「……ん、じゃあ裏門で待ってる」
「うん。すぐ行く」
まだ心配そうな顔つきの拓海を残して教室を出ると、背後から何人かの友人が「七瀬ちゃん、ばいばい」とミユキや夏美のように手を振ってくれた。気安い間柄の友人達へ手を振り返しながら、七瀬はその顔触れの中に、さっき葉月が言った千佳や雪穂達が、今にも教室を出ようとしながら、こちらへ笑いかける姿を見つけた。
「じゃあね、七瀬ちゃん」
「うん、じゃあね、千佳ちゃん、雪穂ちゃん……」
――葉月の『大人しい』友人達と、七瀬は以前よりも話す機会が増えている。
クラス替え当初は、七瀬は彼女達から好意的に見られてはいなかった。初対面で向けられた鋭い排斥の眼差しは、まだ生々しく思い出せる。
もちろん、それも過去のことだ。葉月と一応の和解を経てからは、普段の授業や体育の球技を通じて、グループの枠を越えた友情を、すくすくと順調に育てている。
友達が増えたことを、七瀬は単純に嬉しく思っていた。
だが、今は――それが果たして良いことなのか、考えてしまう時がある。霧のように立ち込めた煩悶を七瀬は頭を振って追いやったが、小さな違和感を完全に拭い去ることは出来なかった。
――彼女達は、本当に葉月と一緒に帰るのだろうか。
もう一度振り向けば、教室に居残ったままの、葉月の頭が見えるかもしれない。
けれど、それを見てしまったら、何故だか葉月を傷つけるような気がして――七瀬は唇を引き結ぶと、気持ちを切り替えて、階段を目指した。