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本編第3章・『鏡よ鏡』から一か月後。
七瀬と拓海、中学三年生の五月。
その男は、天狗隠しに遭った子供のように、深山にひっそりと佇んでいた。
妖、化生、山の神――他にも、異人、天狗等と呼称される人に非ざる存在に攫われてしまった者達は、神に隠されたかのように失踪し、やがて数年の時を経て、山中で目撃される例があるという。しかし共に帰ろうと呼びかけても、彼等が応じることはない。
何故なら、攫われた彼等は既に山の眷属となっていて、人の世とは再び交われないからだ。伝承の信憑性は、袴塚市で最も民俗学に精通した人物に、少林寺拳法の稽古の後で聞いたのだから、間違いない。
かつての師である男、藤崎克仁の言葉を、思い出しながら――篠田七瀬は呆然と、セーラー服の襟とサイドで結った巻き髪を、風光る森でそよがせた。
木々の梢からは光の翠雨が降り注ぎ、繁茂した下草を濡らしている。潤いを含んだ土と花が匂い立ち、蝉の羽のような皐月の光は、青葉の連なりを清かに透かし、小さな泉へと射し込んでいた。
水面の煌めきの向こうには、神々しいまでの緑に囲まれた、一軒の古色蒼然とした荒ら屋がある。
「……ここ、どこ?」
戸惑いの震えを抑えた七瀬は、傍らを振り返り、息を呑む。
――先刻までいたはずの連れが、どこにもいない。
「ちょっと、からかってるの? 隠れてないで、出てきてよ……」
憎らしくて堪らない人物だが、この状況ではいないよりマシだ。だがいくら周りを見回せど、見知らぬ森の景色のどこにも、連れの姿は見当たらない。木立の陰の一つ一つへ視線を転じた七瀬の耳朶を、その時、凛とした声が不意に打つ。
「――言霊という言葉をご存知でしょうか。声の形で発した言葉は、現実に対して影響力を持つという考え方ですが……ああ。貴女はもう、とうにそれをご存知ですね」
朗々と響いたのは、男の声だ。神々へ奏上する祝詞のような調べの声に、真新しい記憶を刺激され、目を瞠った七瀬は思わず紺色のスカートのポケットへ手を伸ばし、声の方角に目を戻す。
聞き覚えのある声だった。
一ヶ月前に、七瀬の『鏡』を供養した男の声と、同じ声だ。
苔むした屋根を持つ荒ら家の縁側に、いつの間にか現れた人物は、和装だった。白い着物に浅葱の袴。七瀬が呉野神社を訪れた時と、装いの清廉さが変わらない。木漏れ日を受けて灰茶色に艶めく髪も、空を映し取ったように青く澄み渡る双眸も、端整な貌に浮かぶ表情の柔和さまでもが、この不可解な状況であっても変わらない。
知り合いに出会った安堵よりも、新たに生まれた緊張感に従って、七瀬はポケットへ伸びかけた手をぎゅっと握る。そうして気持ちを整えると、己の呼び方で男を呼んだ。
「お兄さん……?」
男の名は、呉野和泉。
和装姿の、異邦人。
そして、七瀬と敵対する異能の少女、呉野氷花の――兄。