第四話 「・・・それは十分、何かを企んでいるっていうのよ?」
「・・・人間に限らず、同じ種類の間の生き物って、その個体差は僅かだと思うの。どれほど優秀なアスリートでもウサギよりも速く走ることはできないし、どんな運動が苦手な人でも、亀よりは速く歩けるでしょ?だから、ほぼ同一のDNAによって構成された人間に本質的な違いはないと思う」
「・・・特に、高度に発展した共同体社会に生きる今日の人々にとって、その体の差のほとんどは問題視されなくなってきているって現実があるじゃない?これこそが、文明の進化の証拠だし、人間が万物の長に位置づけられる由縁でもあるんじゃないかな?」
「・・・そんなこともあって、自分の責任ではないそんな僅かな先天的個体差だけで、尊重されるべき個人が差別されることがあってはいけないと思うの。このことに気づいたという点だけをもっても、私は自分が人間であることに対して強く誇りに思うわ」
「・・・そう、だから問題はほとんど解決されているの。現実的にはともかく、観念的に人間の身体上の違いについてはそのほとんどを無条件で受け入れなければいけないって意識と、あと、その違いがその人の障害となる時には、その人のために便宜を図ってやらなければならないという意識は、もう既に大部分の人が共有していると思うわけなんだよね」
「・・・小学校の初等教育を見て。今時、足の遅い生徒を教師が馬鹿にしたらどう思う?ちょっと悪い容貌の子供を蔑視する先生がいたらどう思う?そんなことは許しちゃ駄目って思わない?」
「・・・だけど、そんなほとんど完成された社会規範にもまだ不十分なところが残っているんだよね。それが、頭の良さに対する差別なんだと思う。そう、社会と文明の進歩の中で、頭の良さについての個体差への認識だけは改善できなかったといえるんじゃないかな?それってひどくないかな?特に最近は、むしろ高度学歴社会化していて、時代を逆行しているとすら言えるのではない?」
「・・・だからは、私は今ここに訴えたいわ。そんな、無理に体制的な教育システムに子供を組み込むことはやめて、むしろ私のようなできの悪い子に関しては、ポジティブアクションをして、優秀な人と同じ扱いをするべきじゃないかしら?」
「・・・というわけで、とも君はもって配慮するべきじゃないかなと思うわけなの♪」
「・・・僕は、勉強をサボるための口実としては、あまりにも大袈裟だと思うわけなんですが?」
延々と続いた藤本彩夏の講義を聞き終えて、岡崎智広は呆れ果てたように答えた。
時計は夕方4時を指している。二人は、現在彩夏の部屋で、椅子を並べて座っていた。薄い青の色調で統一された部屋はよく整頓されており、清潔感に満ちている。ここで、智広は家族にも教えていないもう一つのアルバイトを月に数回の割合でやっていた。
「だって、とも君が無茶言うんだもん。こんなの無理に決まってるじゃない」
そう言って、彩夏は手に持っていたA4の紙をひらひらと振ってみせた。その用紙には、学習計画表と題が打ってあり、細かく予定を書き込んだ表がプリントされている。
「そもそも、基礎がわからないのにこんな応用問題なんて無理だよ。ウィ、ニード、ユトリ」
「いえ、でも、一通り塾で習っているはずでしょう?彩夏さんは去年の夏から通っていたじゃないですか?浪人生には標準的だと思われる難易度と量を選んだつもりなんですが・・・」
「無理なものは無理なの!それに私は5ヵ年計画だから、もっと、ゆっくりやっても大丈夫なんだよ?今は焦らず、一年生の復習から始めようよ?」
彩夏は智広の二つ上で、去年高校3年生であったが、受験で見事に全滅してしまったという。そこで、娘の成績に不安を覚えた藤本恭治は、智広にその勉強の監督を依頼したのだ。ゆえに、彩夏と自分の印象のためにも、このアルバイトは公言できなかった。
「いや、普通に今年中の合格を目指しませんか?」
「・・・うんとね、嫌なんだよ。とも君に丁寧語を話されるの。でも、君ってお願いしても先輩である限り、敬語使うのやめないじゃない?だから、もう同期で合格して、彩夏とか呼ばれて、一緒にキャンパスを楽しも?・・・それだったら、2浪が丁度いいの!」
顔を赤くして、少し照れたように彩夏がそう口にする。もっとも、彼女には、惚気ることによって、誤魔化すという狙いもあったが。
しかし、実際、恋人からの言葉に、智広は引っかかりかけた。普段冷静だと思われている智広が実はこのようなストレートな言葉には弱かったのである。しかし、それは彩夏も実は同様で、そういう意味では似たものカップルといえた。
「・・・えっ?・・・・・・困りましたね。そんなこと言われましたら、僕としてはこれ以上何も言えないじゃないですか。僕だって通えるものなら彩夏さんと一緒に・・・って一緒に?」
「そう!とも君と同じ所に通うんだ。ね、とも君はいい考えだと思わない?だから、ゆっくりとしたペースでやろうよ。大丈夫、私でも2年もかければ大丈夫だから」
自信満々で彩夏は答えた。およそ勝利を確信しているのであろう。
「・・・彩夏さんが去年受験した大学ってどこか教えてもらえますか?」
しかし、一方の智広は何か気づいたのか、彩夏に対して質問をした。それに対して、彩夏がいくつかの大学の名前を挙げる。それを聞くと、智広は少し考え込んだ。
「・・・」
「フフフ」
「・・・・・・」
「フフ・・・ふ?」
「・・・あ、あれ??」
「・・・・・・とりあえず、問題量を二倍にしましょうか。期限も夏休み前からゴールデンウィーク終了までに変更します」
「えっ!?なんでなんで??」
思いがけない智広の言葉に、彩夏は大きな声を上げた。まったく、彼はさっきまで彩夏の意見に賛同しかけていたわけではなかったのか。
「彩夏さん、僕の志望校を思い出してください」
「・・・・・・あ」
「やっぱなしって言うのは駄目ですよ?僕も、今のでモチベーションがかなり上がりましたから。・・・さぁ、一緒に頑張りましょう」
そういと、智広はニヤリと笑った。
「あ、あはは・・・」
それに対する彩夏の笑い声はかなり枯れていて、そして、かなり機嫌の良い様子で、一人ぶつぶつ呟きながら計画表を書き変え始める智広を力なく眺めているのだった。
その後は、彩夏も観念したのか、90分間ほど二人は特に話すこともなく、真面目に机に向かっていた。・・・浪人生の彩夏と高校2年生になったばかりの智広が同じ教材を解いていて、なおかつ、わからないところを智広が説明しているという点はご愛嬌であるが。
「・・・とも君は、今日は夕飯も食べていく?」
さすがに集中力が切れたのか、彩夏が聞いてくる。智広が藤本家を訪れる時は、大抵夕食までご馳走になっていた。というのも、家主である藤本恭治がほとんど家に帰ってこないからだ。
「すみません、少し予定がありますので、今日は帰りますよ。ほら、家の隣に引っ越してきた人がいたじゃないですか?その家の子供が同じ京泉高校で、偶然同じクラスだったんです」
彩夏の質問に対して、智広は体の向きを変えて説明をした。が、それを遮るかのように、低めの声で彩夏が短く言葉を挟みこむ。
「性別は?」
「えっ?」
「だから、その漫画の登場人物のような人は女の子?男の子?かわいいの?」
「・・・男性ですよ」
「そう。ならいいわ」
その答えで聞いて、彼女は表情を少し和らげた。その彩夏の嫉妬というには少し控えめであるが、そのような要素が含まれていると思われる様子に、智広は少し嬉しくなる。
「それで、その人の歓迎会も兼ねた晩餐会を行うことになりましたので・・・」
「歓迎会?・・・それは愛ちゃんが言い出したの?」
「いえ、僕が申し出たんです」
「・・・それって、とも君・・・なにを企んでいるの?」
訝しそうな彩夏をみて、智広はなんとも言えないような表情で、少し自虐的に笑った。
「いえ、僕の方には特に何もありませんよ。ただ、どうも向こうの方に何かあるみたいですので、そこで、はっきりさせるための、機会を設けられたらと思いまして・・・。少し不気味でしてね」
「・・・もう。それは十分、何かを企んでいるっていうのよ?」
彩夏が少し苦笑いを浮かべて感想を述べる。でも、特に面倒そうな事柄でなくて、少し安心したようでもある。それも、自分の交際相手が何かと厄介なことを涼しい顔で処理してしまうような人間だという認識があったからだ
「へぇー・・・でも、愛ちゃんが用意するんでしょ?それって、すごいよね。ちょっと前まではまったく料理ができ・・・って、どうしたの?」
彼女が話を止めたのは、急に智広が手で頭を覆ったからだ。
「・・・忘れてた」
「?」
「いえ、愛に今日のことを伝えるのを忘れていました」
「ふぅん。・・・なら、今教えてあげたらいいじゃない。まだ4時ぐらいだよ?」
「あー、それが今日あいつ友達と外出するって言っていまして、多分6、7時にならないと帰ってこないと思います。まぁ、というわけで仕方がないですから、その森嶋君に連絡して、今日は中止だってことを伝えておきましょう」
そして、智広は立ち上がって、お電話を借り手もいいですかと彩夏に問いかけた。そんな彼に対して、彩夏が一緒に立ち上がりながら、提案をする。
「そうなの?じゃあ、うちでその歓迎会をやらない?」
「え?」
「あー、でも愛ちゃんならともかく、努君は来てくれないかな?」
彼女も少し自虐的に笑うと、テヘといった感じに舌を出した。
「いえ、そんなことは・・・あっ、でも、そうだな・・・」
一方、智広のほうは、思いつくことがあったようで、少しの間、考え込む。森嶋弘輝の情報を思い出してみた。しかし、彩夏はそんな彼を見て少し勘違いをしたようだった。
「・・・うん。でも、まぁ、これこそ仕方がないことだと思うわ」
「・・・あっ、いえ、そう意味ではないです。そうですね、これは逆にチャンスかもしれないです。少し考えがありますので、食事会の方、お願いできないでしょうか」
「えっ、それは全然・・・構わない・・・けど?」
「よろしくお願いします。それでは、申し訳ないですが、電話を貸して貰えないでしょうか?」
「う、うん」
そして自分の携帯を持っていない智広は、この時間誰もいないはずの自宅に電話をかけるために、彼女の部屋を出ていった。・・・未だ、事情を飲み込めない彩夏を部屋に残して。