ふたりだけのせかい。
好きな人を独り占めにしたい。
好きな人に独占されたい。
私も、そんなふうに思っていた時もありました……。
◇◆◇
これは、恋のチャンスかもしれない。
その日、講義が終わった私は帰り際キャンパス内のベンチに座る間宮先輩の姿を見かけた。
どうやらイヤホンで音楽を聴いているようだ。
秘かに憧れている人物の姿に、私の胸は否応なしにときめいてしまう。
2学年上の間宮悠晟先輩。
三ヶ月前、入学したばかりの私は友達に誘われるまま入ったサークルの新歓で出会って以来、まだ両手で数えるくらいしか接していない。
正直、先輩が私の事を認識してくれているのかは微妙なところだ。
私は遠藤美咲。
一応、最初に自己紹介はしているし、先輩がめずらしくサークルに顔を出してくれた時はさり気なく彼の視界に入るように意識してみたり、タイミングを見計らって話しかけたり、自分なりにアピールはしていたつもりだ。
残念ながら、先輩から思わしい反応はあまり感じられなかったけれど……。
そんな不安を抱えながらも、サークル活動はもちろんキャンパス内でさえ滅多に遭遇しない先輩とのまたとないこんなチャンスを逃す手はない。
緊張したものの、思い切って先輩に声を掛けてみる事にした。
そろそろとベンチに近づくと、ほんの少し覗き込むように体を傾け先輩の視界の端にお邪魔してみる。
すると、それに気がついた先輩が顔を上げそっと片方のイヤホンを外してくれたので、私はありったけの勇気を振り絞って話しかけてみた。
「ま、間宮先輩、お久しぶりです! わ、私のこと、覚えていますか……?」
「……」
無言の先輩に、ちょっぴりくじけそうになる。
もしかして用件があって話しかけたのかと思い、私が続きを話すのを待ってくれているのだろうか……。
――どうしよう。用もなく話し掛けて何かの邪魔しちゃてたら……。
そんな不安に駆られるも、今のところ先輩からは不快そうな表情も見受けられない。
それなら、ひとまず何か話題を振って反応が思わしくなかったら大人しく引き下がろうと、いつになく粘り強さを見せる自分がいた。
「……えーと、あ、何の音楽、聴いてるんですか?」
再度声を掛けてみるも、先輩の表情は何ら変わりもなく無言のままだったが、ほんの少しの間、何と外した方のイヤホンをおもむろに私の方へと差し出したのだった。
思わぬ先輩の仕草に、しぼみかけていた心は一瞬で壊れてしまいそうなほど膨れ上がり、バクバクと破裂と再生を繰り返す。
――え、これって一緒に聴いてもいいってこと?
私のなかで勝手に膨らませていたイメージとはかけ離れた先輩の仕草に、思わずためらってしまった。
――もし、勘違いだったら恥ずかしいどころじゃない……!
そうだ。よくあるパターンで、少し離れた場所から手を振ってくれたから、自分も振り返したら実は自分の後ろの人にだったという感じのアレかもしれない。
私はぐるぐると思い悩みながら、不安気な様子でもう一度先輩の顔をちらりと伺うと、先輩はわずかに頷いてくれたどころかほんの少し体を横にずらした。
――うそ!? 本当に……!
ほっぺから耳にかけてじわじわと熱くなっていくのが分かる。
今度こそ確信を得た私は思い切ってベンチに座る先輩の右隣に腰を降ろし、差し出してくれたイヤホンを受け取ると左耳にそっと当てた。
憧れの人と、イヤホンを片耳ずつで聴く。
少女漫画や小説ではベタすぎるシチュエーションかもしれないけれど、リアルでこんなのってやっぱりドキドキするに決まってる!
ただそのことに舞い上がるばかりの私だけど、正直なことを言うと先輩が聴いていた音楽は理解し難いものではあった。
――洋楽とかかな……?
はっきりと歌詞が聴き取れない歌声に、そもそも本当に人が歌っているのか、演奏している楽器も何なのかさえよく分らず、ちんぷんかんぷんだった。
けれど、今の私にはジャンルなど関係なかった。
これを口実に少しずつ仲良くなれれば良いなと、それくらいにしか考えていなかった。
だから、ふいに先輩の「どう?」というような視線に、私はただ微笑み返すだけだった。
◇◆◇
きっかけになったサークルとは、歴史民俗学研究部という私からすると失礼ながら少々マイナー気味のジャンル。
入学したてでまだ何も分からないないまま、強引な友達に誘われて半ば人数合わせ要員で入部した私はもちろん全くといって知識も興味もなかったし、新入生の大半は同じような子達ばかりだった。
けれどそんな私達とは違い、真面目に活動しているメンバーの中でも特に間宮先輩は民俗学専攻ということもあり一際異才を放っていた。
ただ、サークルには滅多に顔を出さないし、物静かというか無口というかめずらしく部室を訪れた時も一人黙々と物書きをしている。
そのストイックぶりは同期生すらもあまり寄せ付けないような雰囲気が漂っており、新入生達は声を掛けるどころかちょっとやそっとでは近寄りがたい存在であった。
特に女子の間では暗いという印象を持たれているのか、敬遠している子も多かった。
でも間宮先輩は別枠として、意外にもサークル内の雰囲気と居心地は良かったので、にわかメンバーの私達も和気あいあいと過ごせていた。
だけど、そんな中でも私は最初から先輩にどことなく惹かれるものがあった。
そして、それがはっきりとした憧れに変わったのは先輩の書いた文章を読んでからだった。
サークル活動の一環で、季刊冊子を制作していた。
読書は嫌いじゃなかったし最初はただの暇つぶしにページをめくっていた。
ほんの少しだけ先輩との何かのきっかけになればという邪な思いもあった。
そこには間宮先輩が各地から収集した伝承や民話を自分の考察や解釈を交えて執筆された小説も数多く掲載されていて、そのなかでもある悲恋物語が私の胸を強く打ったのだ。
それから私は過去の冊子も借りるほど、先輩の小説に没頭していた。
そんな私を見て読み始めた友達もいたけれど、その悲恋物語を除けばあとは普段馴染みのないジャンルになかなか続かなかった。
その唯一の悲恋物語も、数多くのハッピーエンド作品に慣れきった者にはあまりウケが良くなかった。
そのうち友達は私が間宮先輩に対して憧れを抱いていることを知ると「どこがいいの?」なんて口を揃えて言った。
単純に先輩の物書きとしての才能に圧倒されたのもあるけれど、あの作品に込められたあふれるほどの情愛と切ない想いを綴るような人物が好きになるとしたら、一体どんな人なんだろうという想像に興味が尽きなかった。
普段は無口でどこか周りとは一線を引いている先輩だけど、もしかしたらその胸の内にはあの物語に綴られたような激情が潜んでいるかもしれない。
きっとそんな姿が見られるのは、先輩の特別になれた人だけなんだろう。
あの先輩がその人だけに囁く愛の言葉を、そんな情熱的な一面を見てみたいと考えるようになり、そういう場面を想像すると身体の奥からぞくぞくするような感情が込み上げていた。
そう。
先輩の魅力は私だけが知っていればいい。
願わくは、他の誰も気がつかないでいて欲しい。
――好きな人を独り占めにしたい。
この時は、そんな子どもじみたことを真剣に思っていた。
◇◆◇
それから私は講義のある日の帰り際に、ほとんどと言っていいくらいあのベンチで先輩の姿を見かけるようになって、話し掛けると先輩は必ずイヤホンを差し出してくれるので、いつもの様に一緒に音楽を聴くようになった。
それだけのことで私は舞い上がり、よく解りもしない音楽をBGMにして、ふわふわとした夢見心地なひとときに身を委ねていた。
心の何処かで、もしかしたら先輩も私に会うためにこの場所に来てくれているのかもしれないと、ほんの少し自惚れたりもしていた。
時には聴き終わったあとに、ほんの少し会話を交わすようにもなっていた。
そこで私は先輩の書いた悲恋物語にすごく感動していることも伝えてみた。
けれど、私が絶賛しても先輩はどこか戸惑ったような表情を浮かべていたのを不思議に思ったりもしたが、先輩のことだから照れているだけかもしれないと勝手に考えていた。
するとしばらくして、先輩はあの物語の感想を私に求めた。
もしかしたら、先輩にとっても思い入れのある一話かもしれないと思うと、私は素直にそれに応じた。
私はストーリーの順序にもとづいて簡単に述べていき、そして最後に。
「悲しい結末でしたが、彼の純粋に好きな人を独り占めにしたいって気持ちは、誰にも少なからずあると思います。彼女への深い愛は痛いほど伝わりました」
そう言った瞬間、弾かれたように顔を上げた先輩の表情は今までみたこともないような驚きに満ちた顔だった。
「もちろん、だからと言って……その彼の行動は容易に許せるものではないかもしれませんが……」
今までにない先輩の反応に私は思わずどぎまぎしてしまい、しどろもどろになりながらもそう続けたのだった。
それから間宮先輩とは変わらぬ日々を過ごしていた。
けれど、ひとつだけ変わったことがある。
時折、おそるおそるといった感じで私の手をそっと繋いでくれるようになった。
最初は不安気な様子の力加減に私がぎゅっと握り返すと、やっと安心したかのように細くて長いその指で、私の左手をなぞったり指を絡めたりと無口なかわりにその手は、先輩の書く文章と同じようにとても雄弁に語ってくれるように感じていた。
◇◆◇
しかし、そんな私にある日異変が起こった。
「ん……?」
朝起きると、何だか左まぶたがやけに重かった。
けれどその時は、昨夜課題に追われて夜更かしをしていたから、ちょっと疲れているのかなくらいに思っていた。
そして案の定、その朝の私は何かと鈍くさかった。
水を飲もうとするも、口の左端から水を垂らしてしまったのだ。
それは、歯磨きをしている時や口をゆすぐ時にもやらかしてしまい、
「いい歳して、何やってんだか……」
タオルで拭きながら自分にそそっかしさに呆れてしまった。
だいぶ寝起きが悪いらしいが、それも大学に行く頃にはおさまっているだろうと安易に考えていた。
しかし、その違和感は大学でも続いていたのだ。
「あれ? 美咲、何か今日しゃべりおかしくない?」
友達の指摘に、ドキリとする。
やっぱり、さっきからやけに言葉がどもってしまう感じがしていた。
左まぶたも相変わらず重いままで、何かおかしいと思った私はお手洗いに向かおうと、友達に声を掛けた。
「ごうぇんね。……っ!」
その言葉に友達も私自身も、一瞬ハッとした顔になった。
何だか口がもつれる感じで、特に「ま行」唇がつく言葉の発音が上手く出来ないのだ。
「私、ちょと……」
慌ててトイレに駆け込むと洗面台の鏡を凝視する。
パッと見た感じでは、特に変わった様子はない。
しかし次の瞬間、ふっと瞬きをすると微かに左のまぶたの動きがズレているような気がした。
今度はもう一度、ゆっくりと目をつむり開けてみる。
すると、右に比べて左まぶたの動きが遅れているのがはっきりと見てとれた。
(え、何これ……?)
心臓がドクリと、嫌な音をたてた。
今度は口の方も動かしてみる。
すると左の口の端の動きがやはり鈍い気がして、試しにおそるおそるゆっくりと口角を上げていくと……。
右端だけが不自然につり上がり思わずニヤリといった表情になった。
自分の左側の顔の異変に、動悸がどっと押し寄せる。
心臓をバクバクさせながらどうすればと不安に襲われていると、心配してくれた友達が何人か様子を見にきてくれたので、もつれる口で事情を話す。
「ねぇ、ちょっと大丈夫? 美咲」
「何か、ひぃだりの顔が、おかしいの……」
「それ……今すぐ病院に行って診てもらった方がいいよ!」
「そうだよ。でも、こういう時ってどこで診てもらうの」
私の思っていたことと同じことを別の友人がかわりに口にしてくれた。
そう、病院といっても何科に行けばいいのか分からない。
「う〜ん。そうね……急に言われると私だって自信ないけど、ほら、顔の神経って耳の奥……脳に近いから、脳神経外科がいいんじゃない?」
友達はそう言うと手分けして大学から一番近い病院を検索してくれて、うまくしゃべれない私のかわりに電話までしてくれて診察の予約を入れてくれたのだ。
友達が付き添いをかってでてくれたけれど、これから講義があるのにそこまで迷惑はかけられないと断り、私はお礼を言うとそのまま足早に病院に向かう事にした。
何だか、左側が耳鳴りまでしはじめている。
キーンとした高音が続く中、時折それとは別の音まで混じっていた。
不安が膨らみほとんど駆け出すように大学内を突っ切っていた私は、途中でいつものベンチに座る先輩の姿を見つけた。
いつもは私が声を掛けるまで終始俯きながら音楽を聴いているのだが、今日はめずらしく私に気がつくと先輩から手をあげた。
早く病院に行かなければと思いながらも、先輩の姿に思わず駆け寄り、胸の不安を打ち明けたくなってしまった。
けれど、先輩は私が口を開く前に、いつものようにイヤホンを片方差し出したのだ。
すると、何故か耳鳴りが一際、酷くなったような気がした。
せっかくだけれど、今はとても受け取れる状態ではない。
「ごうぇんなさい。わたし、いぁ……すこしふぇんなので……っ」
先輩に手短に説明しようとしたが、さっきよりも自分の発音が急激に症状が悪化していることに愕然とする。
そんな私の様子にさすがに先輩も驚いたのか、少し息を呑んだような顔をした。
こんな時だというのに、先輩のそのわずかな反応にほんの少し私を心配してくれたからかもしれないと思うと、ふいに胸が熱くなった。
けれど、その後すぐに先輩はその顔に笑みを浮かべて再度イヤホンを突き出してきたのだ。
これまでわずかな微笑みは多少見たこともあったが、先輩の大きな笑顔というのはこれが初めてと言ってもいいくらいだった。
けれどそれは左の口端だけが不自然につり上がり、先ほど鏡で見た自分と同じように歪んだ微笑みだった。
先輩に対して、一瞬で底知れぬ気味の悪さを感じてしまった。
警告するように激しく心臓が突き上げられ、耳鳴りはズンズンと脳を揺さぶるようほど酷くなっている。
そんな時、ふいに先輩が口を開いた。
「ふたり、だけの……せかい」
息が止まるほどの恐怖が私の体を蝕む。
――ふたりだけのせかい。
それは、あの悲恋物語のタイトルと同じ言葉だった。
人成らざる異形の者が人間の女を狂おしいほど愛した哀しく恐ろしいお話。
「これで、いこう」
そう言って、ぐいぐいと片方のイヤホンを押し付けてくる先輩の手を、私は思わず払い除けてしまった。
「どうして? 愛は伝わったと、君は言った」
ひどい耳鳴りの中に混じる妙な音は、いつも先輩と一緒に聞いていたあの音楽の一部だと気がつく。
人間の女を一目見て狂おしいほど愛してしまった人成らざる異形の男は、その姿を隠して女と文のやりとりを交わしていく。
次第に彼女の心にも淡い気持ちが宿るも、彼の本当の姿を見てひどく怯えてしまった女に彼はある曲を聴かせる……。
「せん、ふぁいは、わた、しを、あいして、る……の?」
恐怖に震え両目からボロボロと涙をこぼしながらも、私は必死に言葉をつむいだ。
「もちろん」
「じゃ、あ、ど、して、こんな、こと……?」
「だって、本当の姿を見たら、きっと君も逃げ出そうとするから」
「もし、わた、しも、あい、してるって、いったら?」
自分でもどうしてそう言ったのか分からない。
逃れたいという気持ちからなのか……それとも。
「……」
「じ、ゆう、にする?」
「……」
「ほん、との、すがたを、みて、も、あい、して、るって……」
「そんなの……」
「しん、じられ、ない?」
「……」
「わ、たし、を、あい、してる、のに、わたし、から、のあいは、いらな、い?」
「……うるさい。さっきだって僕の手を振り払ったじゃないかっ……! 人間はそうやって平気で嘘をつくんだ。母さんも……そうだった……!」
その時のひどく傷ついた先輩の顔を、私は一生忘れられないだろう。
彼の狂気に怯えているのは私なのに、なぜかそれよりももっとずっと怯えたような目をしている先輩に対して芽生えたこの不思議な感情を何と呼ぶのだろう……。
「ごうぇん、ね……」
私の口から勝手にその言葉が飛び出ると、自由が効かなくなりつつある左手をそっと先輩の方へ伸ばしていた。
「っ……!」
けれど、今度はそれに先輩が少し後ずさったかと思うと私を突き飛ばした。
私はその場にしりもちをつくと、先輩の顔に少し心配の色が見えたものの、そのまま意識が遠のいていった。
◇◆◇
意識を失っていた私は、友達の呼びかけにより目を覚ました。
どうやら、やっぱり心配をして講義を抜けてきた友達が倒れている私を見つけてくれたらしい。
そこにはすでに先輩の姿はなかった。
そもそもあれは現実だったのだろうか……。
私はとりあえず先ほどの事情は話さず、ひとまず先に友達に付き添ってもらいやっとの思いで辿り着いた病院で検査を受けることになった。
案内にしたがって検査室に行くと、指示にしたがってベッドに寝かされる。
ドーナッツのような形をした機器に通される時、強い音がするからと耳あてをされた。
実は、こんな大掛かりな機器を使った検査は初めてだったので少しばかり緊張しながら、技師さんが操作により私は頭からドーナッツ形の穴に通されると、説明されたようにガンガンと色んな方角から音がした。
その瞬間、左耳の奥を突き刺すような痛みが走った。
思わず顔が歪んだが、左側はもうほとんど動かなくなっていて、右側だけが余計に引き攣ったような感覚がした。
あまりの痛さに、声も出ない。
しかし私の我慢も限界に来ていたようで、ガンガンと周りを叩くような音の中、一際ズキリと左耳の奥が痛むと、意識が遠のいていくのを感じていた。
しかし、ふいにベッドが移動し、穴から出てくると痛みは嘘のように引いていた。
検査が終わり固定されていたものを外され、それと同時に耳あても取ると、左耳からドロリとした何かが溢れ出た感覚に襲われた。
思わず、左耳に手をやったがおかしな感触はしない。
けれど、ふいに視界の端に何かがよぎった気がして目で追いかけようとしたが、
「あっ」
と思った瞬間、技師さんの体に遮られて見失ってしまった。
それから検査結果を聞くため再度診察室に戻ると、軽度の左顔面麻痺とのことだった。
神経がほんの少し炎症を起こしているらしいが、これといった原因は分らずおそらくストレスからくるものだろうということだった。
幸い軽度ということで、しばらく薬を飲み数回リハビリに通うことになるかもしれないが、大きな心配をするほど深刻なものでもないだろうとのことだ。
そして、先生の言葉通り服薬とリハビリを続け、2週間経つ頃には私の症状はほとんど治っていた。
次の診察で問題がなければ完治との事で、私はほんの少しだけ胸をなでおろした。
そして――。
手を振り払ったあの日から、先輩は大学から姿を消した。
――ふたりだけのせかい。
これで、いこう。
あの時、あの恐怖のなか私はなぜ先輩に自分を愛しているのかと問うたのだろう。
今もまだ胸の痛みは、少し残っている。
もしも、あのとき先輩が一言でも
――信じる。
と言ってくれたら……。
私はその手を取ったのだろうか。
手をとったとしても、私は恐怖に押し潰され結局あの物語の同じように悲しい結末だったかもしれない。
でも、あのとき傷ついた先輩の顔を見て、あの恐怖の最中ほんの少しその孤独に寄り添ってあげたかったという小さな想いの欠片が、確かにこの胸にあった。
無事だったいまだからこそ言えることかもしれないけれど。